第122話 僥倖

「誰かいるの?」


 女性は蝋燭を持って恐る恐る近づいてくる。「誰もいません」と言えるわけもなく、僕は一番奥の本棚の列に身を隠した。


「幸運の訪れ……。全く別でしょ、もう……」


 落ちた魔導書を拾い上げた女性は、開かれていたページの内容を読んで、不安そうな顔をして周りを見渡す。愚痴は吐いていたが、幸運の訪れに縋るように、本を抱えたまま暗がりを歩き始める。


「聖職者の方に、除霊して貰おうかな……」


 分厚い本が一人でに落ちるはずがない。そのままゴーストのせいにしてくれれば良いけど、怖いもの見たさか、蝋燭の頼りない光で足元を照らしながら、少しずつ少しずつ間を詰めてくる。

 まずい。反対側から回り込んでやり過ごそうと思ったが、奥を進んでみると、本棚は壁にくっついていて袋小路になっていた。

 一列、また一列と確認していく女性は、僕のいる一番奥の列の道に入って来た。隠れる場所も、逃げる場所もない。風を起こして、ゴーストがいると思わせて、追い払おうか。いや、それはそれで騒ぎになって、下手に警戒されたら困る。

 突き当たりの本棚に背中も後頭部もつけて、空気を限界まで吸って息を殺した。

 こちらの気配に気づかない女性は、棚に蝋燭の光を近づけて、紛失した本は無いか確認しながら歩いてくる。

 やばい、やばい、やばい。もうだめだ。蝋燭が体に当たりそうだ。

 気絶させるか、泥棒になりすまして口封じに脅してみるか。可哀想だけど、いざとなったら、そうするしかない。お願いだから引き返してくれ。

 蝋燭が出す小さな焦げ臭さまでハッキリと感じられる距離まで近づかれた時、部屋の扉がノックされる音が響いた。


「えぇ……? もう、本当に何なの? ま、また……」


 ノックされたのに誰もいなかったり、本が落ちて確認しに行ったら、またノックされる。得体の知れない何かに振り回される女性は、いよいよ顔を青くして肩をすくませる。

 女性は振り返り、扉の方へと遠ざかっていく。ずっと溜め込んでいた肺の中の空気を、今すぐにでも吐き出したいが、音が聞こえないよう少しずつ息を漏らした。


「はい。どちら様でしょうか……」


 こちらにお尻を向けて、本棚から顔を覗かせた女性は、震えた声で扉に話しかけた。


「私、ロレッタよ」


「ロ、ロレッタ様?」


 外から聞こえて来たのは優しそうな女性の声。怯えていた女性は、小走りで駆け寄り扉を開けた。


「ああ、良かった。ロレッタ様」


「どうしたの?」


「いや、それがですね。何だかこの部屋、ゴーストがいるみたいなんですよ」


「何を言ってるのよ。まったく、貴女は」


「本当なんですよ。さっき、ノックされたのに誰もいなかったし、何も無いところからボタンが落ちてきたり、棚から本が勝手に落ちたり……ああ、ど、どうぞ中へ」


「ええ、お邪魔するわね」


 入って来たのは、赤黒い長髪の背の高い女性だった。ロレッタと呼ばれた女性は、眼鏡をかけた女性よりも明らかに年上。顔立ちや体型こそ美人の容姿だが、疲れているのか血色が悪い。

 両手で持っていた白い箱を机に置くと、ロレッタは女性が抱えた本を見た。


「『死と幸運の教書』よね、それ」


「え、ええ。そうです。流石ですね、表紙の色だけで分かるなんて。この本が一人でに落ちたんです」


「へぇ。貴女、この本を読んだ事はある?」


「はい。何度か」


 ロレッタは「ミア・フロッソ」と書かれた席札が乗る机の椅子に、まるで当たり前のように座ると、女性から受け取った本を置いて広げた。ロレッタの服装は、お世辞にも気品があるようには見えなくて、高級感のある机には似合わなかった。


「人を死に至らしめる魔法はごまんとあるのに、人を幸せにする魔法は数えるほどしかない。人間の卑しさが、よく分かる本よね」


「そうでしょうか。私には命の尊さや、今ここに生きている奇跡を教えてくれる、とても優しい本に感じられます。きっとこの本を書いた人は、幸せは魔法ではなく、行動が示すものだと伝えたかったのではないでしょうか」


「……私と貴女は考え方が違うから」


「え、ああ、そうですね。すみません、生意気な事を言いまして」


 ロレッタは氷のように冷たい口調になって本を閉じると。眼鏡の女性は恐縮した様子で苦笑いした。この独特な空気、眼鏡の女性の態度はロイド様と喋る時の僕に似ている。上下関係が敷かれているみたいだ。


「そうそう。貴女にプレゼントを用意したの」


「え」


「ほら、貴女今日が誕生日でしょう? だから、ケーキを持ってきてあげたのよ」


「……あ、ありがとうございます!」


 白い箱の中身を見た眼鏡の女性は、しばらく俯いた後、涙を流して顔を上げた。


「誰も気づいてなかったのに……本当に感激です! わぁ。すごく美味しそう!」


 ケーキに見惚れる眼鏡の女性。だが、ロレッタの表情は無そのもので、石像のように血の通わない冷徹な視線だった。

 殺気を感じる。普通の人なら見逃してしまいそうな、分厚く深い闇の中に閉じ込めたような殺気が、チョロチョロとロレッタの所作に垣間見える。

 まさかとは思っても、筋肉の強張り方、瞳孔の収縮具合は、悪い事をしようとする人間の予備動作だと経験が言ってくる。

 どういうつもりなんだろう。バレちゃいけないのに、余計な世話を焼いているとは分かっていても、僕は怖くなって、足音を立てないように机の方へ近づいていった。


「でも、こんな大きなケーキ、2人では食べきれないですね」


「そんな事ないわ。私なら簡単に食べられるから」


「えぇ? 本当ですかぁ?」


「今、切り分けてあげるわね」


 白い箱の中にあった小さなナイフを取り出すと、ロレッタは立ち上がり、眼鏡の女性に近づいていく。


「……ロレッタ様?」


 不穏な空気に気づいた眼鏡の女性が、ロレッタと距離を取ろうとした瞬間、ロレッタは顔に何重ものシワを作りながら、蛇のように犬歯を剥き出して襲いかかった。

 逆手に持ったナイフが振り下ろされ、咄嗟に身構えた腕を切る。近くにある凶器を離すまいと、眼鏡の女性はロレッタの手首を掴んだ。

 恐怖のあまり放心状態の女性は、息を荒くするだけで言葉も出ず、ただロレッタの豹変した目を見ていた。淡い紫色の光を滲ませる目を。


「ロレッタ様……まさか……」


「お前さえ居なければ、私は……私は……! 殺してやる! お前だけは、許さない!」

 

 勢いのまま眼鏡の女性を下敷きにして倒れる。ロレッタは躊躇する事なく、女性の顔面に向け刃を突き刺そうとし、女性はロレッタの手首を持って抵抗している。


「だ、誰か! 誰か助けて下さい!」


 女性の叫び声に、紋様の扉についていた近衛兵が反応し、駆け寄ってくる気配がする。だが、こうなると豪勢な建物が恨めしい。長い廊下のせいで、到着まで時間が掛かりそうだ。


「死ねぇ! 死ねぇえ!」


 上から体重をかけるロレッタに、抵抗する力は弱まり、ナイフが顔面に近づく。女性は見るからに知的そうで、魔法が使えそうな雰囲気だが、ここまで恐怖が勝つと、手練れでもなければ、もう術式に集中する事も出来ない。

 もう、バレても仕方がない。近衛兵は間に合わないし、仮にナイフが突き刺さっても、王宮の魔法使いが来れば蘇生してくれるだろうけど、それでもやっぱり、黙って殺されるのは見ていられない。

 僕はロレッタの襟を掴んで引っ張り上げる。ロレッタが自分の足で立つと、僕は襟

から手を離し、そのまま手刀をロレッタの首に打って気絶させた。


「だ、誰?」


 静まり返る部屋。怯え切った女性が、僕のいる方を見て言う。瞳孔を見るに視点は僕を捉えていないが、やっぱり目の前で人に触れたのを見られたせいか、中途半端に気配を察知されているようだった。下手に騒がれると厄介だ。ここは正直にお願いする事に賭けよう。


「僕は悪い人間ではありません。どうか、僕のことは秘密にして下さい。お願いします」


「大丈夫ですか! ミア様! 何かありましたか!?」


 ドンドンと近衛兵が扉を叩く。この部屋の扉は内側からしか開かないのか、それとも許可のあるものしか開けられないのか、近衛兵が押しても扉は動かなかった。

 動揺の収まり切らない女性は、血が流れる腕を押さえながら、扉の方へ歩いていく。足に力が入らず、ヨタヨタする足が躓いて転びそうになったのを、僕は駆け寄って両手で支えた。

 確かに人の手を感じるけど、気配が定かじゃなくて、女性は戸惑いを隠せない。女性が小さく頷くと、僕は女性が自立しているのを確認しながらゆっくりと手を離した。

 女性が扉を開け、近衛兵を招き入れる。僕は、すぐにでも女性が喋ってしまうんじゃないかと気が気ではなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る