第84話 憑依

 アンガル王の体を受け止める。紫色に光る目は僕の事なんて一切見ずに、後ろにいるエリス様だけしか眼中になかった。エリス様に手を伸ばすアンガル王は体重の全てを預けてきて、僕は重い体を押し返すため、精一杯の力で踏ん張った。


「ちょ、ちょっと……アンガルさん! 何やってるんですか!?」


「あああ……ああああああ!」


「どうやら、正気じゃないようだな」


 靴底を擦り減らしながら徐々に後ろに押されていく僕に、シェイル様は盾を前にして援護に入ってくれた。重くのしかかって来た圧が、嘘のように無くなる。アンガル王が全体重で押して来ても、シェイル様は足を踏ん張らせることなく、普通に立っているだけで、びくとも動かなかった。


《彼の者は、救いを求めて光に寄って来たのでしょう》


「救いを、求めて……」


 アンガル王は醜く盾に体当たりし続けている。もはや人の尊厳も無い。アンデット達が魂の救済を求めて、聖職者に寄ってくる事はよくあるが、今のアンガル王がまさにそんな感じだった。


《エリスティーナ、今こそ心を一つにして、貴女の身体に私を憑依させて下さい》


「……ま、待って下さい! エリスティーナ様! まだ声の正体が何かもハッキリしないうちは危険です! もっとしっかりとした場所で鑑定して、安全を確かめるべきです」 


 みんなの視線がエリス様に集まる。精霊の存在を鑑定したレイシア様本人が、自身の鑑定結果にも慎重な判断を求めるのは、もしも思念系の魔物だった場合、その鑑定結果も偽りを掴まされている可能性があるからだ。


「……私は、精霊様を信じます」


「エリス様!?」


 深く呼吸をして息を整えたエリス様が、心を落ち着かせるように瞳を閉じると、白い魔法陣が足元に展開され、天まで伸びる光の柱がエリス様を閉じ込めた。クロフテリアの人たちも、樹海で眠っていた騎士たちも、みんな一様にローデンスクールの頂上から生える光に目を奪われていた。

 光の柱は粒子となって崩れ、雪のように降り注ぎながら消えていった。再び見えたエリス様の姿は、いつか見た光の鎧を身に纏っていた。


《見えますか? 彼の者のオーラが》


「……はい」


《それが、悪意。人が誰しも持つ、心の形の一つです。彼の者の心は、その悪意に呑み込まれ、苦しんでいる》


 ゆっくりと瞼を上げたエリス様の瞳の奥では、光る魔法陣が微細な動きを見せていた。精霊との会話を察するに、エリス様には僕らには見えない何かが見えているんだろう。

 これがレイシア様の鑑定結果にあった憑依の状態なんだろうか。荘厳な気配を放つエリス様に、僕らは口を挟む余裕もなく、それをただ見守っていた。


「私は、何をすれば……」


《貴女の声を、彼の者に届けなさい》


「声?」


《貴女の声が彼の者の心に届けば、悪意のオーラは消え去ります。苦しむ心を浄化するのです》


 意味深な言葉に一度は躊躇したエリス様だが、一呼吸おいて意を決すると、ゆっくりとシェイル様の方に向け歩き出した。僕が「エリス様……」と声をかけても、こちらを一瞥するだけで止まることもしない。


「シェイル様、そこを……」


「し、しかし」


「……構いません」


 何かの圧に押されるように、シェイル様は恐る恐る盾を引いた。壁を押しのけるように、エリス様に目掛けて突進していくアンガル王。僕は反射的にエリス様の前に駆け出そうとした。


「どうか、落ち着いて下さい。アンガル様」


 透き通る声が耳に入ると、全身に暖かさが巡り、僕の足も、そしてアンガル王の足も止まった。


「悪意に、本当の自分を預けていてはいけません。その先にあるのは、破滅だけ。貴方と、貴方の周りに居る人たちが、傷つく未来しかありません。誰かに与えられた欲望に、耳を傾けないで下さい。どうか、勇気を持って自分だけの道を歩んでください。安らぎのある場所を目指して下さい。貴方が苦しむ必要は、この世界のどこにもないのですから」


 エリス様の光が強くなると、対照的にアンガル王の影は濃くなり、背中から黒い煙が上がっていく。その煙は消える間際に口を開いき、鋭い牙でエリス様に噛みつこうとしているように見えた。これが精霊の言っていた【伝染する悪意アムディシア】なんだろうか。心做こころなしか、その影をみると気持ちがどんよりとしていく気がする。


「エリフ……ティーナ……」


 頭を抱えるアンガル王は、虚ろに名前を呼ぶ。ヨタヨタとした歩みは、暗闇の中を彷徨っているようだった。


「私は貴方様の全ての罪を許します。ですから、どうかもう一度、一からやり直してみて下さい。その道には私もいますから、貴方様の側に居ますから、今度はきっと、上手く行きますから」


 小さな歩幅で前に進むアンガル王を、エリス様はそっと抱きしめた。アンガル王が流した黒い涙は、次第に透明なものへと変わっていく。虚ろな目に光が宿ると、最初に回復魔法をかけて貰った時と同じ言葉で、しかし、その時よりも深い敬意を持った口調で、アンガル王は「ありがとう」と「まない」を繰り返していた。

 重苦しい空気が軽くなっていく。正気を取り戻したアンガル王の顔つきは、今まで見たどの顔とも違って、精悍さがあるように見えた。それは、ここまで見ることの出来なかった、自責の念や後悔をちゃんと滲ませた表情に見えたからだ。

 一つの役目を終えた事を見届けると、光の鎧は粒となって夜空に飛んでいき、エリス様の姿は元の冒険者の服に戻った。


「ああ……わたひは何と言うことを……。わたひは途方もない過ちを犯ひた。其方ほなたにも、この街の住人でゅうにんにも、ほして自国民でぃこくみんにも……。なぜ、わたひは……」


「落ち着いて、今は心を休ませて下さい」


 アンガル王はエリス様に支えられながら座ろうとするが、重い体重をエリス様だけでは支えられず、すぐに僕も手助けに近寄った。

 正気を取り戻したアンガル王には、これまでの行いが後悔となって押し寄せているようだった。アンガル王は本当に【伝染する悪意アムディシア】という呪いにかかっていたんだろうか。精霊の存在、魔王の存在、呪いの存在、その全てがアンガル王の心境を聞けば分かるかも知れなかった。

 アンガル王の意識が落ち着くまでの間、僕らは静かにその様子を見守っていた。

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