第61話 危懼
門を超えた時の殺気や敵意の熱は、僕に向けられたものじゃないと分かっていても、恐ろしさを感じる程だった。
広場はもちろん、2階から10階に至るまで見下ろせる場所は全て住人で埋め尽くされ、身を乗り出したり、人混みに割って入ったりして、たった一点を睨みつけている。
殺伐とした空気を感じた女性たちが、子供たちを奥へと隠す。僕もエリス様も最前列を避けて立ち、様子を伺う。クロフテリアの人たちを信じていない訳では無いが、今にも暴動が起きそうな気配に、内心、気が気じゃなかった。
「……こ、こんなことをひて、タダで
「さっさと座れ、豚が」
口から流れ落ちた血は、出っ張った腹に当たり、高級そうな服は赤く滲んでいた。歯が抜けて空気が余分に抜ける口調で、悪態をつくアンガル王の膝に、モーガンは蹴りを喰らわせて群衆の中心に跪かせた。
その眼前の鉄箱に座っているアメルダは、腕を組んで目を閉じだまま、何も話さない。獣の耳がまだ立ったままだ。恐らく、自分の中の怒りを抑え込むために瞑想に勤しんでいるんだろう。
アメルダが完全に平静を取り戻すまで待っていられないと、苛立ち混じりで声を出したのはモーガンだった。
「……チッ! 単刀直入に聞くぞ、クソ豚。テメェの声は耳を腐らせる。本当のことを短くまとめて話せ。じゃなきゃ、今すぐテメェを殺す。テメェは此処に何しにきた? わざわざ殺されに来たのか?」
跪くアンガル王の周りを舐めるようにゆっくりと歩き、住民の気持ちを代弁してモーガンが威嚇混じりに質問する。
「
「あ?」
「
要求するアンガル王の胸ぐらを掴み、モーガンが思いっきり殴る。後ろ手に縛られた王は、手で衝撃を吸収する事なく地面に倒れ、ぶり返した口内の痛みに悶絶していた。
「俺の質問が聞こえ無かったのか? 何しに来たのか、さっさと答えろ」
「……
未だに自分の立場が分かっていないのか、居丈高な態度をとるアンガル王をモーガンは蹴る。無表情、無感情で蹴る。ぬいぐるみのように柔らかいお腹を踏む。力こそ手加減しているが、人に腹を踏まれた経験のないアンガル王は、それだけで慌てふためいていた。
「大丈夫ですか? エリス様」
「……はい」
「ご気分が優れないようでしたら、此処から離れた方が……」
「いえ、私は此処にいます。心配はいりません」
自分を貶めようとした相手でも、人が傷つく姿は見たくないのか、エリス様は視線を逸らして辛そうな顔をしていた。アンガル王には当然として受けるべき因果があるし、反省の態度も見えないのだから、多少の痛みはやむを得ない事だってあるだろう。でも、報復にも限度はある。行き過ぎてしまわないか、直接怒りをぶつけているモーガンのことも注意して見守る必要がありそうだった。
「
手を使わずのそのそと起き上がったアンガル王は、人混みに紛れるエリス様を見つけ、真っ赤な口から余分な息と共に血の飛沫を吐いて言う。人混みが割れ、アンガル王の死者の恨みを体現したかのような顔と対面すると、エリス様は恐怖に体を強張らせる。
「な……何を言っているのですか?」
「
訳のわからない言葉にエリス様は動揺を隠せない。怒鳴るアンガル王を、モーガンは前蹴りで押し倒した。
「テメェ、訳わかんねぇ事言ってんじゃねぇよ。それとも、今直ぐ此処でぶっ殺されたいのか?」
「……
「あ? 何か言ったか?」
「リングリッドの
殺伐として雑音を響かせていた広場が、一瞬で静寂になる。だが、クロフテリアの人たちの静寂とエリス様の息を飲む静寂は、全く意味が違っていた。
住人の殆どが外の世界の情勢に疎いため、騎士団と言われてもピンと来ていない感じなのに対し、エリス様の目を丸くした表情は、心底驚愕して言葉を失っている静寂だった。
「適当なこと言ってんじゃねぇ!」
「
騎士団がテルストロイを制圧した? 有り得ない。魔物が多いテルストロイからは年間3000件を越えるクエストが発行され、独特な魔導術式を持つ彼らだからこそ作れる御守りや魔剣のような特産物も豊富なことから、冒険者や商人の往来も盛んで、有史以来リングリッドとテルストロイは友好関係にある。それが侵略に発展するなんて、常識的に考えれば嘘にもならないホラ話だ。
でも、単身でこんな所へ乗り込んで来たアンガル王の無謀な行動を見ると、どうしても全てが虚言とは思えなくなっていく。
僕はエリス様と視線を合わせて真偽を問うが、もちろん一緒にクロフテリアに滞在するエリス様が答えを持つはずはなく、ただ困惑した表情を見ることになった。
「
「テメェからの礼なんざいらねぇよ。テメェは樹海に放り捨てる」
「な、何を言っている!?
「テメェの命なんざ知ったこっちゃねぇ。魔物にでも喰われて死に晒せ」
「異議なし!」
「今すぐ、そいつを摘み出せ!」
モーガンの声に住民たちは同調し、ことさら罵声を浴びせる。顔を青くするアンガル王は、いよいよ、此処では社会的地位が通用しないことを悟ったようだ。王も貴族も、此処では飾り物にも劣る無意味な称号であり、その人の行いや心根だけが信用を勝ち取るのがクロフテリアという場所だ。
アンガル王の人としての真価が問われていたが、今に至るまでの立ち居振る舞いで、人権に与えられた僅かな信用も他に落ちている。少し引いていたアンガル王の汗が、また吹き出してきた。
「……ま、待ってくれ。欲ひいものなら何でもくれてやるど? 金か? 力か?
モーガンの意見に満場一致しているのか、無言がアンガル王の不要さを伝えている。「
最後に残った希望を求めてエリス様の方へ、膝で歩いて、何度も前のめりに倒れながら無様に近づいて来る。僕は前に立って、エリス様に触れることを防いだ。
エリス様の顔を見たアンガル王は、言葉を発する事なく項垂れる。きっとマディスカルでした自分の行いを思い出したのだろう。助けて貰えるはずが無いと、諦めた様子だった。
血は今も滴っている。誰からも声をかけられず、惨めに蹲るアンガル王に、謁見の間で見た威厳は微塵も残っていなかった。
「……よろしいのですか?」
冷酷さと温和を同時に感じるような声が背中を包む。住人の視線は、僕の後ろに居るたった一人に集まった。
「弱き者を助けるのが、クロフテリアの理念なのではないのですか? ……アメルダ」
擁護するような言葉を残し、静まり返った群衆に波紋を呼ぶのは、散々とアンガル王に嫌な思いをさせられて来た当人だった。
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