第10話 二日目下午 喜招堂 3


「姉上……立てる?」


 理淑が抑えた声で範玲に囁く。


「……うん……大丈夫……」


 範玲がふらりとよろけながら立ち上がる。


 油断した。


 しかし逃げるのは得策ではない。理淑だけならともかく、日頃運動をしていない範玲が逃げ切れるとは思えない。

 やり過ごす方法を考えているうちに、声をかけて来た兵士が走って近くまできてしまった。


「気分でも悪いのですか?」

「いえ、大丈夫ですから」


 理淑が兵士に背を向けて範玲を庇うように立つ。


「いや、でも、具合が悪そうですよ。もう暗いし送りましょうか」


 覗き込むように見てくる。

 選りに選って親切な兵士だ。

 頼むから何処かへ行ってくれ、と思うが口には出せない。


「大丈夫ですから」


 理淑が言い、範玲を隠しながら歩き出した時、新たな声がかかった。


「何かありましたか?」


 その声は彰高だった。


「おや、喜招堂の」


 兵士が振り向いて言う。知り合いのようだ。

 彰高の声は平静だが、向かう速度は思いのほか速く、すぐに三人の元に到着した。


「彰高殿の知り合いか」

「ええ。妹ですが、どうかしましたか」


 宮城での設定を持ち出しながら、さり気なく理淑たちと兵士の間に立つ。


「妹御か。暗いところでしゃがんでいたから、具合でも悪いのかと思って。女だけで放っておいては物騒だろう」


 兵士が彰高の背後で背を向けている理淑と俯く範玲をちらりと見やると、咎めるように言う。


「ああ、申し訳ありません。商売を手伝わせようとして連れ回していたら、慣れていないせいで疲れてしまったらしくて。少しここで待っているように言っておいたんですが……ご心配いただいてすみません。……邪魔でしたかね」


 彰高が宮城で見せた人好きのする顔で申し訳なさそうに言うと、その兵士は少し躊躇って言った。


「……ちょっとここは避けた方がいいかもしれないな……。夏邸は今ちょっと……」

「え? これから伺おうと思っていたのですが、何かあったのですか?」


 彰高が驚いた顔でしれっと聞くと、兵士が、いや、と言い淀む。


「……とりあえず今日は止めた方がいい」

「お屋敷で何かあったのですか?」


 声を落として彰高が兵士に聞く。心配でつい聞いてしまったという善良さが絶妙に込められている。

 演技とは思えない自然さだ。

 

「……いや」

「誰かご病気とかお怪我でしたら薬を持ってますよ」

「……それは必要ない。誰も怪我などしていない」


 彰高が答えを促すように首を傾げる。


「……とにかく今日は駄目だ。日を改めるんだな」


 詳しいことを言えない兵士が面倒になったのか、範玲たちのことはもう眼中になくなったようだ。

 彰高は、仕上げとばかりに、怪訝そうに兵士を見ると、範玲たちを振り返って「じゃあ、今日はもう帰るか」と言ってその場を離れた。





 喜招堂へ帰ると、先ほど兵士と話していた人物と同じとは思えない冷たい目で彰高が範玲と理淑を交互に見た。


「大人しくしているようにと言ったはずだが」


 出先から帰って来たら二人ともいなかったので、夏邸だろうと当たりをつけて急いで向かってくれたらしい。


「だって……家が気になって」


 理淑が俯いて頬を膨らませる。範玲も同調してこくりと頷く。

 しかし、実際、彰高が来なかったら面倒なことになっていた可能性が高いのは否めない。

 冷たい目で見ている彰高をちらりと見る。


「……ごめんなさい」


 理淑と範玲が俯きながら小さな声で謝ると、彰高は溜息を吐いた。


「……まあ、気持ちはわかる。だが、勝手に動かないでくれ。相手がどう出るかわからないから危ない」


 さっきは冷たい目で咎められたが、心配をしてくれていたのがわかる。

 申し訳なかったと思いながらも、範玲が彰高に言った。


「でも、わかったことがありました」

「わかったこと?」


 範玲が屋敷で聞きとったことを話すと、彰高が考え込む顔になった。


「……周家にも呂将軍が行ったらしい。藍公と承健殿の部屋を散々ひっかきまわして帰ったと言っていた」

「……藍公のところでも何かを探してたということですか……?」


 範玲が聞くと、彰高が、恐らく、と頷く。


「”そんなものを用意していたのならば辞めさせればよかったのに”、と言っていたんだな?」

「はい」

「……となると、呂将軍が探していたのは……罷免の文書だろうな……」


 やはりか。


 そうではないかとは範玲も考えていた。

 範玲は喜招堂に届けるように指示をした英賢の判断の正しさを改めて知った。そして、そのまま士信が帰ってくるのを待っていたら、と思うと背筋を冷や汗が伝う。


「”こっちのの方が新しい”、と言っていたということは、あっちにも何か文書があるということなんだろうが……」


 考え込むように目を伏せて彰高が呟く。


「……もう一人いた男の声は初めて聞いたんだったな?」


 彰高が顔を上げる。範玲が頷くと、更に聞いた。


「呂将軍は敬語を使っていたんだな?」

「はい。なのに、その人物は呂将軍に対して随分ぞんざいな言い方だったように感じました」


 彰高は顎に手を当てて、そうか、と呟き、その青味がかった黒い瞳を思索に沈めるように伏せた。



 それから彰高は再び、出てくる、と部屋を出て行きかけたが、二人にくれぐれも危ない行動をしないように釘を刺した。

 範玲が小さな声で返事をするのを確認すると、黙っている理淑に重ねて釘を刺し、しぶしぶ頷かせてから部屋を後にした。


 二人だけ残されると、喜招堂の使用人が用意してくれた夕餉をとった。それはただ、次に起こる何かに備えて食べ物を身体に入れるというだけの作業となった。

 食べ終わると、理淑は逃し先の見つからない気持ちを発散するように庭で素振りを始めた。 



 理淑はしばらく素振りをした後、大きく息を吐くと、袖で汗を無造作に拭いて振り向いた。


「あ、姉上」


 素振りをする理淑を見ていた範玲に気付いて小走りでやってくる。


「ごめんね。理淑。あの時、もっと私が上手くやっていればよかったのに」


 範玲が夏邸で英賢の部屋の会話を聞いた時に、もっとちゃんと加減をしていれば兵士に声をかけられることはなかっただろう。

 理淑は範玲の言葉に慌てて首を振った。


「違うよ。私がもっとちゃんと周りに気を付けてればよかったんだ。私の方こそごめん」


 理淑がしゅんとして言った。

 範玲は自分が強引に着いて行ったのに、理淑に責任を感じさせてしまったことに申し訳ない気持ちになった。



 理淑は部屋へ戻ったが、範玲はそのまま庭に残った。

 範玲が夜、外に出てぼんやりと過ごすのが好きなのを理淑も知っていたので、一人にさせてくれたのだ。


 庭には大きくはないが池があり、松などの木が趣味よく配置されている。

 足元に気をつけながら池の方へと進むと、水面を撫でてくる冷んやりとした風が頬をくすぐった。

 その空気をゆっくりと吸い込む。


 範玲は夜の空気が好きだ。

 夜の空気は振動が少ない。それに静かで心を緊張させておく必要がないからだ。

 池のほとりには腰掛けるのにちょうど良い石がいくつか配してあったので、そのうちの一つに腰を下ろす。

 ゆるい風が頬を撫でるのを感じながら、もう一度大きく息を吸い込んだ。

 今日は耳飾りを外していろんな音を聞いたせいもあるのだろう、神経がたかぶってざわざわとした気持ちがおさまらない。

 これまで引きこもってきた自分は一人では役に立たなかった、という事実も更に気持ちを沈ませた。


 兄上は無事だろうか……。


 一番気がかりな英賢のことにしても、無事であって欲しいと願うことしかできない自分の無力さがもどかしかった。

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