第11話 二日目下午 喜招堂 4
範玲はしばらくぼんやりと月を見上げていた。
月の青白い姿を見ていると、心のざわつきがほんの少しだけ和らぐ気がした。
どれくらいそのまま座っていたのだろうか。
「眠れないのか」
沈黙の中、わずかな気配とともに背後から静かに声をかけられて振り返ると、手燭を手にした彰高が立っていた。
「戻っていらしてたのですか」
「ああ」
返事をすると、彰高は歩みよってきて、範玲にふわりと肩掛けをかけ、少し離れたところの庭石に腰を下ろす。
「あ……。ありがとうございます」
どれくらいこうしてぼんやりとしていたのだろう、掛けてもらった肩掛けの暖かさで範玲は実は寒かったことを思い知る。
「どちらへ行ってらしたのですか?」
範玲が聞くと彰高が言う。
「壮哲の屋敷へ。あと、帰りに夏邸も見て来た。どちらもまだ兵士に見張られていた」
範玲は膝の上の手をぎゅっと握りしめた。
「……そうですか……」
沈黙が降りる。
「……兄上は、無事なのでしょうか……。壮哲様のお父上も、その、大丈夫なのでしょうか……」
「……そうだな。無事なことを信じるしかない。まあ、陛下の御前で尋問をされるとのことだし、無闇に命を取られることはないだろう。そのつもりならば
「そう、ですね……」
英賢のことを思うとやはり何もしないでいることに酷い焦りがぶり返してくる。
命は無事かも知れないけれど……。
範玲が俯いて握った手を見つめていると、気を逸らすように彰高が言った。
「こんな時間にふらふら出歩いて不用心だな」
範玲は握りしめた手を緩めて池の水面へと視線を移す。
「……家にいたときも、こうして時々夜に庭に出てたんです。……夜は静かだから」
人が活動する昼間は、どうしてもいろんな音がする。だから大抵屋敷の書庫に引きこもっていた。
人も草も木も眠ってしまった夜ならば、安心して外に出られた。そして心を休ませることができた。
「……その耳飾りは役に立たないのか?」
彰高が範玲の耳を見ながらぼそりと聞いた。
「いいえ、とんでもない。……この耳飾りはとても役に立ってます。素晴らしいものです。これをつけると聞こえすぎてた音が和らぐんです。これがなかったら周りの音が煩さすぎて生活し辛いです」
耳飾りが無かった頃を思い出す。
「これ、最初は……ああ、もう九年前になるのね……十三の頃にいただいたものなんです。それまでは本当にひどい状態で……。物音に怯えて、耳に蓋をして、音を遮断してもらった部屋に引きこもって、誰にも会わず、自分の声すら響いてしまって気持ち悪いから誰とも話さず……」
当時のことを思い出し、頭の天辺がきいんと冷たくなって手が震えた。
あの頃よく気が狂わなかったと範玲自身思う。
でも。
「初めてこの耳飾りをつけた時のこと、今でも覚えてます。世界が変わるってこういうことなんだって。音が優しく聞こえる、ってわかりますか? ずっと怒鳴られている感じだったんです。それまでは」
耳飾りには感謝しかない。
触れてその存在を確かめる。
「でも、多分普通の人と全く同じ、という程度にはなってないのだと思います。きっと他の人より音を拾っているし、ずっと雑音はするから。ええと、よくわからないけど、普通は雑音とかしないんですよね? あ、でも、今つけているのはいただいたのの三つ目なんですけど、最初のよりすごく良くなってるんですよ。雑音も最初より少なくなっていて……。くださった方には本当に、本当に感謝しかありません」
範玲の話に彰高は静かに耳を傾けている。手燭の炎に照らされた表情からは何も読み取れない。
「……ごめんなさい。喋りすぎました」
我に返り、範玲は途端に恥ずかしくなる。
こんなことべらべらと話したりして。
「いや」
彰高がぼそりと言った後、気まずい沈黙が降りる。
ふと範玲が今日のお礼をきちんと言っていなかったことを思い出す。
「今日はありがとうございました」
「何が」
「宮城から連れて帰ってきてもらったり、さっきも……助けてもらったり」
「ああ」
相変わらず素っ気ない。
しかし、それでは終わらず、予想外に気遣いの言葉が返って来た。
「いや、こちらこそすまなかった。宮城では無理をさせたようだな」
範玲が驚いて彰高を見る。
気にしてくれていたのだ。
「いえ。私が甘かったんです」
範玲はそう答えると、思い切ってこの機会に昼間考えるのを先延ばしにしたことを口にした。
「あの……宮城の帰り……背負っていただいたと聞きましたけど……あの、手、を、掴んでました?」
どんな聞き方だ、と思いながらも他にうまい聞き方が思いつかない。
「落とさないように掴んではいたと思うが……。まずかったか?」
あっさりと答えが返ってきたので範玲が重ねて聞く。
「いえいえ、そうではなくて。……ええと……彰高殿って……その、生きてます、よね……?」
聞き方を完全に間違えている。
しかし彰高は気にした様子もなく答える。
「何だそれは。今のところ死んだ覚えはないな」
じゃあどうして平気でいられたのだろうか。彰高に触れられても、彼の思考は何も流れてこなかったということだ。こんなことは今までなかったのに。
首を傾げる範玲に彰高が、何故そんなことを聞くのかと、範玲に話の続きを促すように目線を送る。
範玲はその青味がかった黒い瞳を不思議な思いで見つめ返した。
冷たいくせにふと温かみを感じる。
範玲はその瞳から視線を逸らすと、迷った挙句におずおずと言った。
「……私、耳が良いだけじゃないんです」
他人に話すべきことではないのかもしれない。
でも、何となくこの人なら話してしまってもいいような気がして範玲が続ける。
つい昨日会ったばかりだというのに。
そっけない受け答えしかしてくれないのに、信頼できる気がするのは何故だろう。
「触れると、その人がどんなことを考えているか、わかってしまうんです」
驚くだろうか。それとも馬鹿なことを言っていると嘲るだろうか。
確認のために範玲が顔を上げると、彰高は依然表情を変えず範玲を見つめていた。
「ああ、それで手を掴んでいたか聞いたのか。じゃあ、その時も私が考えていることがわかった、ということか?」
「それが……何も伝わってこなかったので驚いているんです」
すんなりとこの話を彰高が受け入れていることにも驚きながら言う。
「それで私が生きてるかどうか、疑っていたというわけか」
ははっ、と彰高が思わず笑った。
怜悧に整った顔がほころぶと印象がほんの少し幼くなった。宮城での、女官たちへ向けた胡散臭く感じた笑顔とはまた違っていた。
こんな顔もするのかと範玲は期せずして目を奪われる。
「種明かしをしようか。私が感情を出さないように意識を無にしてたからじゃないか。普段から思考や感情を出さないようにしている。以前仙人の文始先生のところで修行していた時に、そういう技術を学んだんだ」
「そんなことできるのですね」
新たに謎の部分が増えたと思いながら、範玲が感心してまじまじと彰高を見る。
「でもどうしてそんなことを? 一体彰高殿は何者なんですか?」
得体が知れなさすぎる。
「まあ、色々と。それより、人に触れると思考が読み取れてしまう、というのに関してはその耳飾りは役に立たないのか」
誤魔化されたのか問いには答えないまま、範玲への質問に代えられる。
「はい。直接触れると伝わってきてしまうんです。薄い布越しでもちょっと……。多分耳で聞いてるのじゃないのだと思います」
それは大変だな、と彰高がぼそっと呟いた。
普段取りつく島のない彰高だが、今は話しやすい雰囲気だ。
よし。
範玲は調子に乗ることにした。
「……あの、試させてもらってもいいですか?」
ためらいがちに聞く。
「何を」
「本当に触れても大丈夫か」
「…………構わないが……」
間が空いたが承諾の言葉が返された。
では、と範玲が立ち上がり歩み寄ると、彰高は右手を差し出した。
差し出された手に恐る恐る指先でほんの少し触れてみた。
何も起こらなかった。
「何も感じない……!」
勇気を出して差し出されている手を握ってみた。
何も起こらない。
むしろ、雑音が消えて静寂がやってきた。
背負われた時に”静か”と感じたのは気のせいじゃなかったのだ。
「え、すごい。静かだわ」
今度は両手で彰高の手を握ってみたが、やはり何の感情も流れ込んでこない。
思わず差し出されていない方の左手でも試してみる。
大丈夫だ。
すごいすごい。
人に触れても何も感じない!
初めての感覚!
範玲は興奮のあまり、つい調子に乗りすぎた。
「……おい……」
声をかけられて我に返ると、範玲の目の前に彰高の整った顔があった。
範玲は両の手で彰高の頬を挟んでいた。
「そろそろ離してもらえないだろうか」
表情をなくした彰高に冷たく言われ、範玲は弾かれたように手を離した。
「ご、ごめんなさい……」
範玲は、あまりの衝撃に、つい昂った気持ちを自制できなかったのだ。
穴があったら入りたい。
ひたすら羞恥にまみれて謝ると、彰高は苦笑して言った。
「まあ、嬉しそうでよかった」
彰高に触れると、思考が流れ込んで来るどころか、雑音がなくなることを伝えると、意識を無の状態にしているから、それが影響しているのではないか、と教えてくれた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます