第12話 二日目下午 喜招堂 5

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 以前、夏家に寡黙な下働きの少女がいた。

 範玲は優しい笑顔が好きで、少女が作業をしているのを見かけると、何をするでもなく少し離れたところに坐って、少女が静かに仕事をしている姿を眺めていた。

 少女も話しかけてくるわけでなく、範玲に会うと、にこりと微笑んでくれるのが嬉しかった。


 ある日、庭で洗濯をする少女見かけた。その庭には見たことのない綺麗な珍しい鳥がいた。

 その鳥が飛び立とうとしていたので、行ってしまう前に少女に見せたくて、範玲はつい少女の手に触れてしまった。

 その時。


−−何こいつ。気色悪い。いっつも喋んないし。


 触れた手から少女の感情が入り込んで来た。

 でも、少女はいつも通り微笑んでいる。

 それまで好きだった少女の顔が何か得体の知れないものに見えた。

 範玲は走ってその場から逃げた。

 何が何だか理解ができなかった。

 そのことは誰にも言えなかった。

 それ以来、範玲は人に触れるのが怖くなった。



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 範玲は不意にあの時の少女の手がとても冷たかったことを思い出した。

 先程触れた彰高の手は、範玲が長く外にいて冷えていたのもあっただろうが、暖かかった。


 人の手って暖かかったんだ。


 範玲の胸の中にもほんのりと暖かさが宿った。



 体がすっかり冷えてしまったのでそろそろ部屋に入ろうかという頃、下男が彰高を探しにきた。

 こんな時間に彰高を訪ねてきた客がいるという。


「陶珠李と名乗っておいでです」


 昼間、殿中省にいた女官の一人だった。その口振りとは裏腹に、英賢のことを案じてくれていた女官だ。

 そのことを彰高に話すと、少し考えた結果、彰高が一人で迎えることになった。

 行儀は悪いが範玲は隣室で待機して聞き耳をたてることにする。戸の隙間からそうっと覗き見ると、部屋に通された珠李は、昼間会った時とは受ける印象が随分違っていた。

 噂好きで明るいどこにでもいる若い女官、という印象だったのに、今ここに来ている珠李は、そうは見えなかった。

 落ち着いて物静かな分別ある女性がそこにいた。


「こんなに遅く、突然押しかけて申し訳ありません。実は碧公から伝言を預かりました」


 緊張した面持ちだったが、昼間聞いた声より低めの耳触りの良い声で話し始めた。





 珠李は殿中省で尚食として働いてはいるが、英賢の部下でもあった。

 英賢は司空の職に就いており、監察を司る。英賢は各省の状況を把握するために内密に各省に子飼いの部下を置くことにしていた。珠李もその一人だという。

 定期的に殿中省の情報を英賢に報告することが、珠李の尚食以外の仕事だ。



 珠李が英賢が捕らえられたことを聞いたのは、今朝早く、殿中省に出勤する前に定期報告をするために英賢を訪ねた時であった。

 英賢の安否がわからないことが一番問題だったため、珠李は情報を収集することに集中した。何よりも英賢の居処を突き止めることを急務とした。

 殿中省の尚食という職務のおかげで、珠李の宮城での顔は広い。そして普段から誰にでも親切にし、あけすけで屈託のない人物を演じているため、珠李に警戒心を抱くものはほとんどいない。それを最大限に利用して英賢を探した。

 間もなく内廷の清命殿の牢に英賢がいることがわかった。王族などを止むを得ず拘束する際に使用する場所だ。

 見張りには顔見知りの兵士が就いていたため、尚食の勤務が終わると、親切を装って差し入れを持っていった。差し入れには眠くなる薬を仕込んだ。

 見張りの兵士が居眠りを始めたのを確認すると、牢に向かった。


「珠李か。どうしてここに?」


 牢には英賢がぽつんと座っていた。顔色が悪かったものの、無事のようだ。

 その姿を確認できて珠李は安堵した。


「英賢様をお助けに参りました」

「……そうか、それはすまない……。……だけど、危ないことをしてはいけないな」


 英賢は苦笑して困った顔をした。


「でも、このままでは英賢様の御身に危険が……」

「ああ、大丈夫だよ。御前会議の場で断罪されるはずだから、少なくともそれまではね」


 思っていたより英賢は落ち着いており、何か考えがあるようだった。


「どうされるおつもりですか? ご指示ください」


 珠李が言うと、少し考えた後、


「では、せっかく来てくれたから珠李にお願いしようかな。申し訳ないけど、事の顛末を喜招堂の彰高に伝えてくれないか。それ以上は動かないで。危ない目にあうといけないからね」


 と、事の次第を話し始めた。





 あの日の夕刻、英賢が呼ばれて宮城に上がると、玉座の前で承健が血にまみれて倒れていた。抱き起こしたところに呂将軍が現れて捕縛された。

 次期王に就くことを狙っていたが、承健が最有力候補だという情報を得て、英賢は壮哲と共に邪魔な承健を殺害したという。全く荒唐無稽な理由でである。

 捕らえられて牢に入れられると、英賢は一枚の誓約書を見せられた。

 それは、今後蒼国の王には、現王の周啓康の血筋のみが就くこととするという内容のもので、王、藍公、縹公の印がすでに押されていた。

 呂将軍が言うには、王と藍公は、元々国の安定のためには、王家は一つで良いと考えており、それを実現するための文書を用意していたという。今後は王には現王の血筋の者のみが継承していくことを、青公三家と王が承認するという文書である。

 縹公も、王家が複数あるのは今回のような事件の要因となることを認め、壮哲が関わっている事の責任を取る意味でも誓約書に署名捺印することにしたという。

 呂将軍は、英賢にもこの藍公と承健殺害という騒動の責任を取って、御前会議の場で署名捺印することを強いた。衆人の前で青公の印を押させることにより、誓約書の正当性を付与したいのだろう。

 とはいえ、そのようなことを言われたところで、そもそもが濡れ衣であることは本人が一番承知しているのだから、大人しく従うわけがない。

 そこで、呂将軍が連れて来た呪禁師が、英賢に暗示をかけたという。その呪禁師は、人の心に直接語りかけ、あたかも自分が考えている事のように誘導する術を使ったとのことだ。

 それにより、英賢は皆の前で印を押すことを承諾したという。

 明日の臨時の会議でそれは行われるだろうということだ。



* 



「預けた例の文書をその御前会議の場に持って来てほしい、とのことです」


 珠李はそう締めくくり、説明を終えた。


「その場で呂将軍たちの企みを暴くということか」


 珠李が頷く。


「それにしても、呪禁師が暗示をかけた、と言ったが、英賢殿は暗示にかけられているのか? 話を聞く限りそうは思えないが」


 彰高が聞くと、珠李は言おうか躊躇った後、痛ましそうにぼそりと言った。


「英賢様は……暗示にかからないよう、痛みで正気を保つために、ご自身に傷をつけておられました。そして、正気のまま、術にかかった振りをしていらしたようです」


 戸の陰で聞き耳を立てていた範玲は息を呑んだ。


「暗示にかかってないことを悟られないよう、目立たないところを傷つけていらっしゃいました。……指の爪を、ご自身で剥いでおられました」


 英賢は普段穏やかで繊細そうに見えるが、実は豪胆であることは知ってはいる。でも、それでもその行動に範玲の胸が痛んだ。


「英賢殿がそこまでしてお膳立てしてくれたのだ。舞台はきっちり整えよう」


 彰高は眉根を寄せて言った。


「お願いいたします。秦将軍にもお伝えください」


 珠李は彰高が壮哲と繋がっていることを英賢から聞いているようだった。

 そして更に一言。


「それから、もう一つ。”二人を危険なことには絶対に巻き込まないように”、とのことです」


 その言葉を聞いて、彰高が額に手の平を当てて溜息をついた。

 ”二人”とは範玲と理淑のことだろう。妹への溺愛ぶりは英賢を知る人の間では周知の事実だ。


「喜招堂の彰高殿と一緒に、碧色の瞳の女性が来たことをお伝えすると、初めて碧公が取り乱されて、必ず彰高殿たちに伝えるようにと」

「……承知した」


 彰高が頭を掻きながら承諾する。

 戸の陰で範玲は昼間のことを思い返した。

 驚いて珠李を見つめてしまった時に、瞳の色で夏家の人間だと気付かれてしまったのだろう。


 それにしてもそんな危険な状況なのに、自分のことより私たちのことを聞いて動揺するなんて……。


 範玲の目の奥がじわりと痛くなる。


「では、私はこれで。それから、私だけでなく、英賢様の味方は方々にいます。どうぞご安心ください」


 見張り番を眠らせてまで清命殿に忍び込んだが、実は見張りも英賢派の者だったそうだ。

 珠李は、余計なことをしてしまいました、と言いおいて辞して行った。


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