第78話 二年孟夏 螻蟈鳴く 3



 範玲はその後うなされることもなく、ぐっすりと深い眠りについたようだった。

 それを見届けると、文始先生は早々に紅国へ帰ろうとした。

 しかし、英賢は感謝の気持ちを込めて文始先生を引き止め、是非にと酒宴に誘った。

 高名な仙人である文始先生が夏邸を訪れていることを知ると、壮哲と縹公が挨拶を、と急いでやってきた。壮哲が鉱山での粉塵対策について文始先生に意見を求め、話し込んでいるうちに酒や料理が次々と用意され、結局、青公三名と王までも交えた大宴会となった。


 酒に滅法強い壮哲と酒仙おおざけのみの文始先生は意気投合し、ひたすら呑み続けている。

 弱くはないが、さすがにそのバケモノ二人には付き合えない昊尚が宴会を抜け出し、中庭の池のほとりへ風にあたりに出て来ていた。

 池の側で、昼間はその可憐な姿を見せていたであろう芍薬が、夜になって白い花弁を閉じ、月の光を丸く照らし返しているのに目を留めた。白い芍薬は範玲に似ているな、と昊尚がふと微笑んだ時、鈴を転がすような声が昊尚の名を呼んだ。

 声の方を振り返ると、範玲がやって来るところだった。


「起きて大丈夫か?」


 あれからずっと眠っていたようだが、さすがにこの宴会の騒がしさで目が覚めたのだろう。


「はい」


 月の光に照らされて、範玲がはにかんだように微笑むと、白い芍薬の蕾がほころぶのが思い出された。やはり白い芍薬は範玲のようだ、と昊尚は思った。


「文始先生にお礼を申し上げに行ったら、兄上が昊尚殿はここだろう、って」


 よく眠れたのだろう。頬に生気が戻っていた。


「おいで」


 昊尚が手招きすると、範玲がいそいそと池のほとりにやって来た。そして昊尚の隣に並ぶと、珍しく範玲の方から昊尚の肩に頭を預けた。

 昊尚は目を細めて、その寄りかかった頭を軽く撫でた。すると範玲が正面から両手を昊尚の腰に回してぎゅっと抱きついた。


「どうした。珍しい」


 ふっと笑って、昊尚が範玲を両腕で包み返すと、範玲は昊尚の胸に頬をすり寄せた。


「こんな風に触れられるのが嬉しくて……。……もう会えないかもしれない、と思ったから……」


 朱国で範玲を救い出すと、何があったのかを一通り聞いた。しかし、昊尚は範玲を理淑たちに任せて先に蒼国に帰らせた。そのまま範玲が調子を崩して寝込んでしまったため、昊尚と範玲は朱国以来まともに話ができていなかった。

 相当怖い目に遭っていたことを心配していたが、こうして範玲が甘えられるようになったことに、昊尚はほっとする。

 昊尚が範玲の無事を腕の中の温もりから感じていると、昊尚の胸に顔を押し付けたままの範玲からくぐもった声が聞こえてきた。


「一人で出歩かないように言われてたのに、勝手なことをしたばっかりにあんなことになって……ごめんなさい……」


 朱国で、門から飛び降りさせた範玲を受け止めた時も、昊尚にしがみついて、何度もごめんなさいと言っていた。範玲がそのことをひどく気に病んでいることを思い、昊尚は安心させるように範玲の髪を撫でた。


「怒ってないから」


 昊尚の背に回した範玲の手にぎゅっと力がこもった。


「でも、君が捕まっている間、ずっと生きた心地がしなかったな。君は妙に無鉄砲なところがあるから、余計に心配だった。案の定、無茶なことをしてた」


 昊尚が自分の腰に回っている包帯の巻かれた範玲の手を剥がす。その手を前に持ってきて唇を付けて軽く笑うと、範玲が泣きそうな顔で昊尚を見上げた。


「君のことだから、きっとこれからも、こうと思ったら行動に移してしまうんだろうと思う。……まあ、そういうところも含めて君だから、それは仕方ない」


 昊尚が中指と薬指の背で範玲の滑らかな頬を撫でる。


「君が危険な目に遭ったら、何度でも助けに行ってやる。……だけど、君にも、自分自身の安全を、ちゃんと気にしていてほしい。今回、君は君自身の安全を全く考えてなかっただろう」


 範玲は昊尚の目が少し揺れているのを見た。自分がどれ程、この常に冷静な人を心配させたのかと胸が痛んだ。


「……ごめんなさい……」


 小さな声で範玲が呟く。


「ああ。そこは反省しろ」


 そう言いながら、範玲の額にそっと口づけすると、昊尚は範玲の小ぶりな頭を右手で包んで胸に抱き込んだ。


「君を失うのは何よりも辛い」


 昊尚の少しかすれた声に、範玲は胸がぎゅうっと締め付けられた。そして、もしも自分が昊尚を失ったら、と思うと息が苦しくなった。

 昊尚の腕に埋もれながら、ぼんやりと浮かぶ白いものが範玲の目に入った。それは、花弁を閉じた芍薬だった。


 去年もこの季節に、ここで白い芍薬の花が咲いていたのを覚えている。

 次の芍薬の咲く頃に、自分の状況がこんなに変わっているとは想像すらしていなかった。

 あの頃はまだ、屋敷の書庫に一人引きこもっていた。本と家族だけの世界でずっと暮らしていくものだと思っていた。


 それなのに。


 今は、外に出られるようになって、仕事もさせてもらって、……こんなに自分のことを想ってくれる人がいて、自分もその人のことを大切にしたいと泣きたくなるくらいに思う。

 こんな気持ちを知ってしまったら、もうあの頃の日々にはとてもではないが戻れない。

 これは何の奇跡だろう。


 そう思わずにいられなかった。

 範玲は昊尚がいてくれることに心から感謝した。







(香雪の巻 了)

 

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