第79話 余話5 壮哲と昊尚

時期は「二年仲春 倉庚鳴」の後です。


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「範玲殿とはどうなってる」


 うに職員たちの退勤した時刻、壮哲の執務室で突然かけられた言葉に、昊尚が一瞬黙った。


「……それは、王としてのご下問ですか?」


 昊尚がじろりと壮哲に冷えた視線を送る。

 壮哲が、ふはっ、と吹き出した。


「違う。友人として聞いてる」


 壮哲の破顔に昊尚も思わず笑みを返す。


「もう誰もいないからいいだろう」

「まあな」


 手にした書類を、とんとんとつくえで揃えながら、昊尚も砕けた口調になる。


「場所を移して久々に呑まないか」


 壮哲が椅子に座ったまま伸びをしながら言うと、控えていた佑崔に酒の調達を頼んだ。




 内廷の壮哲の私室へ移ると、間もなく佑崔が酒とつまみを何処かから持ってきた。

 壮哲の私室は相変わらず素っ気ない。壺や絵といった室内を装飾するものは一切なかった。取り外しのできない室内仕切りに施された精緻な飾り彫だけが、却って居心地悪そうに彩りを添えていた。

 昊尚は、先日、女官にせめて花を飾らせてくれと言われたが、申し訳ないが剣の素振りや鍛錬をするのに邪魔だから断った、と壮哲が言っていたのを思い出す。そもそも部屋で素振りをする方がおかしいのだが、部屋に花がないところを見ると、女官は引き下がったのか、と少し笑った。


 窓を開けると、丁度月が正面に浮かんでいた。輪郭を少し朧にして見下ろしている。冷んやりする夜の風が部屋に流れ込み、停滞していた部屋の空気が洗い流される。

 月を眺めていた昊尚に、佑崔から酒の満たされた杯が差し出された。


「ああ、すまない」


 窓を少しだけ開けた状態にして、杯を受け取って椅子に腰掛ける。


「で、どうなんだ」


 壮哲も杯を手に、昊尚の向かいに腰を下ろすと、いきなり切り出した。先程の話の続きのようだ。


「……どうなんだろうな」


 そう言って、褐色の液体を一口含んで香りを感じながら喉に落とすと、さらに芳香が鼻に抜ける。


「どうなんだろうな、って、はっきりしないな」


 壮哲が口に含んだ酒を呑み込むと、美味そうに一息吐いてから続けて言った。


「英賢殿が修行僧のような顔をして、範玲殿を昊尚に取られたと言っていたぞ」


 妹を溺愛する英賢の顔を思い出したのか、壮哲がにやりと笑う。どんな顔だよ、と返して昊尚が苦笑する。


「そういえば、傷はもういいのか」


 言いながら、壮哲が手ずから新しい杯に酒を注いで佑崔にも渡そうとするが、佑崔は首を振って遠慮する。恐らく、万が一何かあった時に酔っていては壮哲の護衛ができないと思っているのだろう。

 真面目な奴、と昊尚が笑いを漏らすと、佑崔がちらと視線を寄越した。すまんな、と酒を呑むことを断ると、佑崔が笑って首を振る。


「文始先生のお陰で良くなったな。肩が回せるようになってきた」


 玄海で黯禺あんぐから受けた傷は、流石に壮哲を誤魔化すことができず、範玲の耳飾りのことなど、事情を全て話した。壮哲は驚いたが、色々と合点がいったようだった。


「しかし、水臭いよな。お前は。本当に。昔っから」


 完全に王ではなく昔からの友としての言だ。今回の玄海行き以前のことを蒸し返すつもりらしい。

 昊尚は壮哲の言い方に吹き出しながら、十三年前、文始先生に弟子入りしようと決めた頃のことを思い出す。


「お前、あの時も急に決めたんだよな。何の相談もなしに」


 壮哲が佑崔に返された杯を吞み干し、更に自分の既に空になっていた杯に酒を満たしながら言った。


 昊尚が紅国に行く前は、青公の子息で、年が同じということもあって周囲から何かと二人は比較された。

 しかし、本人たちは外野の思惑など気にせず、物心つく頃からつるんでいたものだ。途中からは佑崔が壮哲の後を付いて回るようになり、自然と三人でいることが多かった。


「"ちょっと文始先生のところで色々教わってくる"とか言って、いきなり出かけるから、すぐ帰ってくるのかと思ったのに、何年も音信不通だし」


 壮哲が笑いながら更に言う。


「何年かぶりに帰ってきたと思ったら、商人になってるしな」


 それを聞いて昊尚がくつくつと笑いながら杯を空ける。


「帰ってきたんだからいいじゃないか。ちゃんと青家の人間だってことは忘れてなかったぞ」


 そうだけど、と壮哲が言いながらいつの間にか空にしていた自分のと昊尚の杯に酒を注いだ。


 十三年前のその日は、まだ朝に吐く息が白くなる季節だった。突然、早朝に昊尚が壮哲を訪ねた。

 まだ眠っていた壮哲は、何事かと飛び起きて、珍しく門の外で待っているという昊尚の元へと急いだ。そこには旅姿の昊尚が白い息を吐きながら機嫌よく待っていた。


「ちょっと紅国に行くことになった」


 昊尚の軽い調子に、壮哲は、なんだ旅行か、と気が抜ける。


「朝っぱらから何かと思ったら。気をつけていけよ」


 欠伸をしながら言う壮哲に、昊尚がらしくなく興奮気味に満面の笑顔を向けた。


「ああ。文始先生のとこで色々教わってくる」

「ん。頑張れ」


 壮哲はこの会話以降、五年も会うことがないなどと思いもせず、気軽に送り出したのだった。


 次に昊尚に会ったのは、壮哲が羽林軍に入り、頭角を現し出した頃だった。

 ある日、見るからに部外者が訓練中の鍛錬場を眺めていた。背も体格も随分変わっていたが、それが昊尚だということは壮哲には遠目からでも一目でわかった。

 五年ぶりに姿を見せた昊尚は、梁彰高と名乗り、荷を後宮に売り込みに来た如才なさそうな商人になっていた。

 音信不通をなじる壮哲に、すまん、と細めた昊尚の青みがかった黒い瞳は、ぱっと見、相変わらず冷たい印象を与えるが、知性と落ち着きを増していた。それに、以前はどこか斜に構えた感じのあった部分が無くなっていた。昊尚にとって、この五年間に得た物は大きかったようだ、と壮哲は思った。


 それから昊尚は年に数回は蒼国に現れては、壮哲にも会いに来るようになった。

 そのうち、喜招堂という店を立ち上げ、あっという間に蒼国でも指折りの大店を築き上げた。各国を飛び回る昊尚は、壮哲の目から見てもやり甲斐を見つけ、充実した日々を送っているように映っていた。


 壮哲は、目の前で酒を酌み交わす幼馴染を改めて見た。短い間に見事に藍公の座に落ち着いたが、本来やりたかったのはこれではないのだろう、という思いが浮かぶ。

 薄く開けた窓の隙間から入る冷んやりとした空気が、壮哲の首を撫でていった。


「……今更聞くが、お前、あの事件がなかったら、ずっと商人でいるつもりだったのか?」


 壮哲が真顔で聞いた。

 昊尚は壮哲を見返し、ふ、と笑って手に持った杯に視線を移した。


「そうだな。そのつもりだったよ。こんなことになるとは思ってもいなかった」


 父親と兄を一度に亡くす事態は、昊尚もさすがに想像していなかった。しかし、甥に引き継ぐまでの間、藍公を引き受けたその決断自体は後悔していなかった。これまで好きなようにさせてくれた父と兄に報いようと思っていたし、例えそうでなくても、どんな形であれ、青家の人間として蒼国に尽くすつもりでいた。


「まあ、どの道、お前が王になるんなら協力しないわけにいかないしな。少なくともお前が蒼国王でいる間は家臣として仕えてやるよ」


 昊尚が笑いながら壮哲の杯に酒を注いだ。

 酒と共に、昊尚が今の立場を不本意だと思っていない気持ちを受け取り、壮哲の周りの空気が緩む。


「……王になる予定はなかったんだがな」


 杯に満たされた褐色の液体を見ながら、壮哲が眉を下げた。


「何しろ現場に気軽に出ていけないのがなぁ……。それに、体がなまる」


 はあ、と大きく溜息をつく。

 昊尚は、気に入らないのはそこか、と可笑しくなった。

 人の上に立つことに関しては何らおじけないところは、恐らく壮哲が元から持つ王の資質の一つなのだろう、と改めて壮哲を選んだ三師の慧眼を知る。


「で、範玲殿とはどうなんだ」


 思い出したように壮哲が最初の質問に戻した。苦笑しながら昊尚が言う。


「可愛くて仕方がない」


 こうも正直に昊尚が話すとは思っていなかった壮哲が思わずむせる。佑崔も取り替えようかと手にしていた酒器を落としそうになる。


「珍しいな。お前がそんな風に言うのは」


 壮哲が口元を拭いながら言う。佑崔もその背後でこくこくと頷く。


「お前が聞いたんだろう」


 僅かに残った酒を吞み干しながら昊尚が笑う。


「だけど、外に出るようになって、交友関係もこれからどんどん広がるだろう。だから、私で本当にいいのかと迷う」

「は? じゃあ誰ならいいんだ。お前だから英賢殿も反対しないんだろうが。お前じゃなかったらあの麗しき狸殿は、あらゆる手を使って範玲殿にふさわしいか試してくるぞ。きっと」


 昊尚の杯へ酒を追加しながら、険しい顔をする英賢を想像して笑う壮哲に、昊尚は再び苦笑して話を変えた。


「そう言うお前はどうするんだ。妃は」

「ないな」


 即座に答え、壮哲は自分の杯を一気に空けると続ける。


「まあ、少なくとも、しばらくはいい。大体、蒼国王は世継ぎなんてものが必要ないから、別に妃はいなくたっていいだろう」


 壮哲があっさりと言う。


「そうかもしれないが」

「必要とあらば蒼国のためになる婚姻をするさ」


 酒器の残りの酒を自分の杯に無造作に注ぎ、佑崔へ空の酒器を渡すと、中身の入った酒器を受け取って、再び杯に注ぎ直す。先程からつまみも取らず、既に結構な量を呑んでいるが、壮哲は少しも酔った様子はない。


「随分冷めてるな」

「そういうわけじゃないさ。ただ自分が誰かと婚姻するとか想像がつかない。家は姉上や杏湖がいるから大丈夫だろうし」


 壮哲が笑いながら言う。青公秦家の嫡子としてもこんなに無頓着でいいのか、と昊尚が常に一緒にいた年下の幼馴染に聞く。


「佑崔、壮哲にそういう話はないのか」


 佑崔が苦笑いして壮哲を見る。


「ありますよ。勿論。以前から親が売り込みに来たり、女性本人からも接触があったりしてますが、如何せん、壮哲様に全くその気がなくて。酷いんですよ、本当に」

「そんなことあったか?」


 壮哲が呑みかけていた杯から口を離して、首をひねる。

 とぼけているようには見えない。


「ありましたよ。何度も」


 佑崔が目を三角にして壮哲を睨むと、昊尚に向き直る。


「贈り物や文をいただいたのに、壮哲様はそのまま放ったらかしにするんです。でも、そのままでは壮哲様の女性人気、ひいてご婚姻に関わりますので、私が代わりに返事やらお返しやらを穴埋めしてるんですよ」


 佑崔が珍しく壮哲への文句を昊尚に訴える。


「大変だな。よくできた側仕えだ」


 昊尚はそんな尻拭いまでしている佑崔に、同情の言葉をかける。壮哲は佑崔から具体的な名前を挙げられても、心当たりがないように更に首をひねる。


「部下の名前と顔は直ぐに覚えられるんだがなぁ……」


 頭を搔く。


「そんな奴に、どうなってる、とかせっつかれてもな」


 昊尚が呆れると、それもそうだ、と壮哲が項垂れた。




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昊尚と壮哲は仲良しです。二人(と佑崔)の時はこんな感じです。

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