第77話 二年孟夏 螻蟈鳴く 2





 朱国から帰国してから範玲は体調を崩した。


「範玲殿の具合はどうですか?」


 朝議の後、各々の執務室に戻る途中の回廊で昊尚が英賢に聞いた。中庭ではもう、八重の芍薬が紅色の花を咲かせ始めていた。英賢が芍薬に目をやりながら、その華やかさとは対照的に物憂げに言う。


「うん。……医師が言うには、疲れが出たのだろう、ってことだから、大丈夫だとは思うんだけどね。……ただ、あまり眠れてないみたいなんだ」

「どういうことですか?」

「昼間もね、うとうとするんだけど、急に驚いたように目を覚ましたり、自分の呻き声で起きたりしてて……。多分夜もそうなんじゃないかな」


 思案する昊尚の歩みが少しゆっくりになる。


「悪い夢でも見てるんでしょうか」

「そう思って範玲に聞いたんだけど、覚えてないらしいんだよ」


 昊尚は朱国で範玲を助け出すと、理淑らに任せて先に帰らせた。二日遅れで昊尚が蒼国に帰り、その足で範玲の顔を見に行くと、少し顔色は悪かったが眠っていた。


「今日、行っていいですか?」

「ああ。顔を見せてやって」


 英賢が、忙しいのにすまないね、と眉を下げた。




 夜になってしまったが、英賢が何刻いつでもいいと言ってくれたので、昊尚は夏邸を訪ねた。理淑が範玲の部屋へ案内をしてくれる。


「今、眠っているみたい」


 まだそれほど遅い時間ではなかったが、部屋に入ると範玲は寝台で静かに寝息を立てていた。

 眠れている様子に昊尚がほっとする。


「しばらく付いてていいか?」


 理淑に聞くと、頷いて、隣の部屋にいるから何かあったら呼んで、と扉を開けたまま出て行った。

 昊尚は改めて範玲を見る。

 包帯が巻かれた手が夜具の上に出ていた。昊尚はそっとその手を取る。火毬ばくだんの導火線を切った時に傷ついた手が痛々しい。腕も、陽豊門から飛び降りさせた時だろう、ぶつけたようにあざができていた。

 範玲の手を左手で軽く包んだまま、右手で夜具に広がる髪を梳く。ゆらめく燭台の炎が長い睫毛の作る影を揺らした。頬は相変わらず磁気のように滑らかだが青白い。

 外に出るようになってから、以前よりも血色が良くなってきていたのに、と昊尚が頬を指でなぞる。


 しばらくすると、範玲の睫毛が細かく震え、眉間に皺が寄った。苦しそうに呻き始める。

 昊尚は迷わず範玲の右耳の亀甲形の耳飾りを外した。

 そして、範玲の頬に手の平を当てる。

 すると、範玲の眉間に寄っていた皺が緩み、再び穏やかな規則正しい寝息をたて始めた。

 それを見て、やはり範玲は悪夢にうなされているのだろう、と昊尚は思った。




**




「先生、わざわざすみません」

「おお。本当にな。私を呼び出すなんてお前か慧喬くらいだ」


 使用人に案内されて、道士服に身を包み、柔和な目元をした三十をいくつか越えた程に見える美丈夫が、笑いながら部屋に入って来た。


「たまには愛弟子の顔も見たいでしょう。お元気そうでよかった」


 昊尚が屈託無く笑いながら言うと、先生と呼ばれた人物が、ふん、と鼻を鳴らす。


「何が愛弟子だ。クソ生意気なガキのくせに」


 柔和な顔に似合わないこの口の悪い人物は、昊尚の師匠である文始先生__元の名は尹文承という__だ。


「もうガキじゃありませんよ。それに、先生もいい歳なんですから、いい加減その口調はどうかと思いますよ」

「うるさい」


 口調は無茶苦茶だが、愛弟子との再会を喜んでいるというのは昊尚にはわかっている。いつものことだ。

 文始先生は紅国の紫紅峰に棲む地仙だ。まだ三十半ばという若さで仙人となると、それ以降、見かけ上は歳をとっていない。

 昇僊する実力もあるのに、そうはせず、地仙として病に苦しむ人々を救ってきたことでも名が知られている。

 その文始先生にわざわざ蒼国へ来てもらったのは他でもない、範玲を診てもらうためだった。

 早速昊尚は文始先生を連れて夏家を訪れた。突然の来訪だったが、範玲のことを相談してみるということを伝えてあったので、さして驚くこともなく、英賢は二人を招き入れてくれた。


「夏英賢と申します。お目にかかることができて光栄です」


 英賢が最上の笑顔とともに恭しく言うと、文始先生は昊尚に向けるのとは違った、見た目のとおりの柔らかな声で応えた。


「こちらこそ。うちの弟子がいつもお世話になっています」

「とんでもない。昊尚は当家の範玲の恩人です。文始先生にもご助力をいただいたと聞いております。本当に感謝しております」


 英賢が心を込めて言うと、文始先生は目元を更に緩めた。


「お役に立っているのならば何よりです」


 昊尚に対する口調はぞんざいだが、愛弟子を誇らしく思っていることが伝わってくる。多少照れ臭いのか、昊尚が割って入った。


「早速ですが、範玲殿は起きていますか?」


 英賢がいつもらしくない昊尚に少し笑い、範玲の部屋に二人を案内した。

 範玲は寝台の上で、背に夜具を丸めたものをあてがって少し上体を起こしていた。

 英賢の後に入って来た昊尚を見ると、青白い顔に嬉しそうな笑みをのせた。そして、一緒にいる見知らぬ人物に目を丸くした。


「こちら、文始先生だよ」

「あ……」


 英賢に紹介されたのが、昊尚の師の名前であることに気付いて身を起こそうとすると、文始先生が手を挙げてそれを止めた。


「大丈夫。そのままでいいですよ」


 英賢も頷いたので、範玲は背を夜具にあずけたままにすることにした。


「夏範玲です。お会いできて嬉しいです。……こんな格好で申し訳ありません」


 恐縮する範玲に、文始先生は、こちらこそ急に押しかけて申し訳ない、と気さくに笑いかけた。範玲はその笑顔を、夜具の端を撫でながら少しそわそわした様子で見つめた。


「あの、文始先生は昊尚殿のお師匠様でいらっしゃるのですよね?」


 範玲が躊躇いがちに聞くと、文始先生がにやりとした。


「年寄りじゃなくて驚いているのでしょう?」

「……こんなにお若いとは思っていなかったので……。すみません」


 範玲が慌てながら正直に答えると、文始先生が笑った。


「先生は、まだ三十半ばで仙人になったから、外見はその頃のままなんだよ」


 昊尚が笑いながら教えてくれた。

 天才と謳われた尹文承は、若い姿のまま仙人になった。昊尚と並ぶと兄弟と言っても通じる程だが、実際にはもうそろそろ六十にとどく年数を生きている。

 範玲が耳飾りのことでお礼を言うと、そこの誰かが頑張ったからね、と横目で昊尚を見てからかった。

 昊尚が、余計なことを言わなくていいですってば、と抗議しながら範玲の寝台の脇に椅子を移動させ、文始先生に勧める。笑いを堪えながらそれに腰掛けると、さて、と居住まいを正した。


「本題に入ろうか」


 範玲に向き合うと、文始先生が柔らかな声で聞いた。


「最近よく眠れていないそうですね」


 文始先生が昊尚に呼ばれた用件を切り出した。

 範玲は小首を傾げて考える。


「いつも寝ているような気がするので、そんなことはないと思うのですが……。でも……日中もいつも眠くて……困っています」

「そう。夢は見る?」

「……それが、夢を見ているのかどうか、覚えていないんです」


 範玲が不安げに言う。英賢にも何度も聞かれたことだが、本当に覚えていない。

 文始先生は、ふむ、と範玲の顔を見つめる。


「じゃあ、少し診せてもらうよ。眠りましょうか」


 そう言うと、きょとんとする範玲の目の前に手をかざして、何かを唱えた。すると、範玲の体から力が抜けて、少し起こしていた頭が、くたりともたれていた夜具に沈んだ。

 様子を窺っていた英賢が少し慌てて一歩前に出たが、昊尚が目配せで大丈夫と伝える。


「先生、どうですか?」


 昊尚が後ろから小声で聞くと、文始先生が振り返って言った。


「眠り足りていないのは確かだな。気も少なくなってる。まあ、悪夢のせいだとしたら、お前が手でも握って添い寝すればよく眠れるんじゃないか?」


 その言葉に英賢の眉がぴくりと上がった。


「冗談言ってないで早く何とかしてください」


 昊尚がくすりともせず言うと、文始先生は頭を掻いて、怒るなよ、と呟いた。


「じゃあ、ちょっと範玲殿に触れるぞ」


 文始先生は二人に断ると、眠っている範玲の額に手を当てた。

 目を瞑り、何かを探るように集中している。


「これか」


 しばらくして呟いた。

 そして再び沈黙を作った後、二言三言、何かを唱えた。

 昊尚と不安げな英賢が見守っていると、文始先生が範玲の額から手を離した。


「余程怖い目にあったんだな。奥の奥に恐怖が隠れて棲みついていた」


 気の毒そうに範玲を見る。


「それは取り去ってくれたんですか?」


 昊尚が穏やかな寝息を立てる範玲の顔を見ながら聞く。


「ああ。追い出したはずだけど」


 文始先生の返事で、昊尚が肩から力を抜き、大きく息を吐いた。


「何をされたのですか?」


 二人のやりとりを見守っていた英賢が、堪らず尋ねた。


「朱国で相当怖い思いをしたようです。心の奥に恐怖が隠れて棲みついていました。起きている時は、それが出てくることはなかったようですが、眠るとそいつが顔を出して来たんです。怖い、という感情に至った出来事は抜け落ちて、恐怖、という感情だけが残っていたので、悪夢を見た、という感じではなかったのでしょう」


 英賢が文始先生の言葉を聞きながら、自身が痛みを受けたような顔をして範玲を見る。


「棲みついていた恐怖を追い出しましたから、もう大丈夫のはずです。他の記憶と一緒で、怖かったことを思い出しはするでしょうが、それは誰しもにある普通のことです。恐怖という感情がいつも心の中に棲みついていた、という状況が異常だっただけですから」


 英賢が感嘆の溜息をつく。


「ありがとうございます……。凄いことがおできになるのですね」

「天才ですから」


 朗らかに文始先生が笑った。




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