第76話 二年孟夏 螻蟈鳴く 1



 昼下がり、陽の光がのんびりと畑と家々を照らす。集落が途切れると、小高い山が近くに見える。

 集落の端、山に近いところにある薬屋の看板を掲げた建物から、威勢のいい声が聞こえてきた。


「だから、大丈夫だってば! 大きいナリして情けない声出さないの!」

「だって、ほら、血が出てるだろ」


 不貞腐れたようなしかし、少し甘えの混じった声が、見てくれ、と抗議する。


医師せんせいからただの擦り傷って言われたんでしょう? それに、もう血は止まってるじゃない。洗って薬を塗ったんなら、もう大丈夫だってば!」


 ガタイの良い男の背中をぐいぐいと押して出てきたのは、勝気な目をした小柄な娘だった。

 押されて出て来た男が立ち止まってまだぐずぐず言うのを、娘は腕を組んで睨んでいたが、耐え切れないように、ぷっと吹き出し、鼻にしわを寄せて、仕方ないなぁ、と笑った。


「じゃあ、明日、まだ気になるようだったら来ていいよ。塗り薬をあげる」


 娘が言うと、男は、ぱっと笑顔になり、絶対な、と念を押すと、ようやく帰る気になったようだった。立ち去りかけると、思いついたように振り返り、満面の笑みで手を振った。


「じゃあまた明日な! 菜深!」


 "菜深"と呼ばれた娘が腰に手を当てて、元気に帰っていく男を見送る姿を、物陰から見つめる男がいた。

 菜深が中に引き返そうとすると、男は手を挙げて何かを言いたげに口を開いたが、結局声を掛けず、宙に浮いた手を下ろした。


 そしてそのまま、男は人のいなくなった薬屋の入口をぼんやりと見つめていた。


「やっぱりここに来たんですね」


 声に反応して男が振り返ると、現れた数人の兵士が周りを取り囲んだ。

 兵士の間から、腰の剣に手をかけた佑崔が進み出た。


「長古利ですね。朱国の牢から逃げ出したと蒼国に連絡がありました。ここに来るだろう、と藍公が言われたので、待っていました」


 ここは、蒼国南青県にある鉱山の採掘場近くの郷だ。古利の妹はこの郷の薬屋で見習いとして働いている。

 佑崔を見返す古利の目は、かつて佑崔が見たことのあるものではなかった。何かを言いたげな心細い揺らめきがあった。


「連行します」


 佑崔が言うと、古利が名残惜しそうに振り返った。佑崔も、古利の視線の先の、もう菜深の姿のない薬屋の入口を見やる。


「……妹に会いにきたのですか」


 古利に目線を戻して佑崔が聞くと、古利の目が明らかに動揺した。


「……いや……。会いはしない……」


 佑崔は、その視線から逃れるように顔を背ける古利をじっと見つめると、剣にかけていた手を下ろした。そして、短く溜息をつき、仕方ないですね、とぼそりと呟いた。


「ちょっと用事ができました。ここで待っててください」


 兵士たちに声をかけ、見張ってますから逃げられませんからね、と古利に念を押すと、佑崔は薬屋へと歩いて行った。

 佑崔は薬屋に入ったかと思うと、すぐに出てきた。

 それに続いて菜深が現れた。

 しかし、佑崔は、古利の方は見ず、別の方向を指差して、何やら菜深に聞いている。菜深は首を傾げて、中に入って行くと、再び出てきた。今度は年配の女性を連れていた。

 物陰から見ていた古利が、思わず息を呑んだ。

 そのまま息を吐くのを忘れたかのように、古利は身じろぎもせず二人の女性を見つめた。少し開いた唇が震え、握った拳が白くなる。

 佑崔は古利の視線を遮らない位置に立ち、二人の女性に何かを尋ねている様子だった。菜深と年配の女性は、佑崔が頭を掻きながら何かを言うと、顔を見合わせて笑った。

 朗らかな笑い声が、離れて見ている古利の耳にも届いた。凝視する古利の喉から思わず声が漏れた。

 少しすると、佑崔は礼を言うように頭を下げた。菜深とその母親と思われる女性はそれに対して手を振り、ぺこりと頭を下げて中へ戻って行った。

 それを見届けると、佑崔が古利の元へ戻ってきた。古利はもう二人のいなくなった薬屋の入口を、まだじっと見つめていた。


「……ありがとう……」


 古利は震える声で小さく言うと、佑崔に向かって深く頭を下げた。


「……道を聞いてきただけです」


 佑崔はぼそりと言うと、薬屋を振り返り、再び古利を見て静かに息を吐いた。


「じゃあ、行きましょう」


 佑崔が古利の両手を縛ると、古利は何かを吹っ切ったように姿勢を正し、自ら兵士の後に続いた。




**




「そうか。楊更真は蒼国で捕えてくださったか」


 朱国王となった武恵が自身の執務室で景成の報告を聞き、ほっと胸を撫で下ろしたように、椅子の背もたれに身体を預けた。


「更真の処分はどうするかと、問い合わせがありましたが」

「蒼国に任せよう。元々あちらで捕えられて逃げてきた者だ。返した方が良いだろう」


 武恵が言うと、景成が頷いた。

 外はこの季節に似合ったさっぱりとした陽が照り、時折吹く風が心地よさそうに緑の葉を揺らしていた。格子窓から差し込む光は、床にも格子柄を作っている。武恵は光の作った床の格子を見つめながらぼそりと言った。


「更真は雲起が連れて来た者だったか」


 景成は主人をちらりと見ると、少し間を置いて言った。


「はい。雲起様が前蒼国王の事件に関わっておいでで、その際に知り合った者と聞いておりますが」


 問う形だったので一応答えたが、武恵は話のいとぐちとしたいのだろう、と景成が察する。


「……それで、雲起は……」

「……やはりご遺体は見つかっておりません」


 景成が武恵の尋ねたいだろうその先を引き取って言った。

 雲起が自ら持った火毬ばくだんに火を点け、爆発を起こした。しかし、その爆発の跡に雲起の着ていた衣服の切れ端はあったが、それ以外に雲起が爆発に巻き込まれた痕跡が見つかっていない。


「一緒にいた供の者はどうなった?」


 雲起には二人の供が従っていたのを昊尚が見ていた。一人は爆発直前に建物の陰に隠れたが、吹き飛ばされてきた瓦礫で足を怪我した上に、砒霜を少し吸い込んだようで療養中である。しかし、もう一人の供の者がどうなったのかがわからない。


「その行方の分からない供は誰だったのだ」


 怪我をした供の者が話せるようになったので、景成自らが話を聞きに行っていた。


「……それが、誰なのかは知らないと言うのです。ではどんな者だったのかと人相を聞いても、ただ若い女だったとしか……」


 宮中の女官もしらみつぶしに探したが、該当しそうな者を見つけることができなかった。

 武恵は景成の報告を複雑な思いで聞いた。

 床に映った格子柄に、流れる雲が影を作るのを見つめながら、武恵がぼそりと呟いた。


「……こんなことは、雲起が蒼国で起こした事件のことを考えると、言ってはいけないのだろうが……」


 景成が周りに自分しかいないことを確認する。


「……私は……雲起の遺体が見つからないことに……ほっとしている……」


 景成は武恵の呟きが聞こえていない振りをした。

 消えかけていた格子柄は雲が切れて差し込んだ光で、再びくっきりと床に浮かび上がった。


「……慧喬陛下にまた叱られてしまうな……」


 武恵は苦笑すると、椅子から立ち上がり、格子窓を開けた。

 そして空高く流れていく雲を見上げた。




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