第75話 二年季春 戴勝桑に降りる 12



 いつの間にか王の側に侍るようになっていた楊更真——古利は、妖しい力を使って徳資王を惑わせたとして捕らえられた。

 昊尚が牢を訪れると、古利は縛られた両手を立てた膝の間に置き、目を瞑って壁にもたれて座っていた。


「古利。いや……本当の名は楊更真か」


 昊尚が声をかけると、古利は目を開け、感情のない視線だけを寄越した。しかし、興味がなさそうに再び目を閉じた。


「お前の妹は楊菜深というのだろう」


 昊尚の言葉に古利の肩がぴくりと動いた。


「何処にいるか知りたくないか」


 古利はもたせかけた背を起こし、はっきりと目を開けて昊尚を見た。これまで感情を見せなかった目が揺れた。


「……生きているのか……」


 古利が掠れた声で言った。


「ああ」

「何処にいる」


 昊尚の返事を古利の声が半ばで遮る。


「今は南青県にある鉱山の採掘場近くの郷にいる」

「……採掘場……? どうしてそんなところに……」


 自分の父親のことを考えれば、採掘場など近寄りたくもないはずだ、と言いたいのだろう。


「そこで薬師の見習いとして働いている」

「え……?」


 古利の顔に動揺が広がった。


「お前の父親が捕まった後、母方の祖父の昔の仲間のところで世話になったらしい。そこで薬のことを学んで、自分から採掘場の近くの薬屋へ見習いで入ったそうだ」

「……自分から……?」


 感情が漏れ出るままの目で、昊尚を真っ直ぐに見据える。


「そう言っていた」


 古利は昊尚の方へ這い寄ると、縛られたままの両手で格子を掴んだ。


「会ったのか……!?」


 昊尚が頷くと、古利は喉の奥が張り付いてしまったような潰れた呻き声を漏らした。


「採掘場で働く者達のために、現場に医師や薬師を配置することになった。その手配をしている際に、お前の妹に偶然出会った。蒼国の政策に、喜んで手を貸してくれると言っていた」


 古利は、信じられない、という目を宙に彷徨わせた後、昊尚を睨んで格子に両手を叩きつけた。


「……出鱈目を言うな! 蒼国は父さんを殺したんだぞ!? 協力などするわけがない……!」


 激昂する古利にも昊尚の顔色は変わらない。古利の目に、ほんの少し怯えの色が加わった。


「父親が助けられなかった分、人を助けたい、と言っていた」


 昊尚の言葉に、古利の目がこれ以上ない程に見開かれる。


「……彼女は、生き別れになった兄のことも話してくれた。父親が捕まった後、住んでいた登南を追い出されて、父親のところに行っていた兄とははぐれてしまったことを、ずっと気に病んでいた。何処かで生きていてくれるだろうか、いつか会えるだろうか、と言っていた」


 古利は格子を掴み、昊尚を凝視する。しかし、その目は昊尚を見てはいない。


「彼女はとても優秀だそうだ。独り立ちもすぐ叶いそうだと彼女の師も言っていた。そこでは阿片も……きちんと使用の許可を得て適切に処方していた」


 格子をつかんだ指は白く血の気がなくなっている。暫くの間、古利は息をするのも忘れたかのように、そのままの姿勢で動かなかった。


「お前のことは彼女に話してはいない。……母親もそこで一緒に暮らしているそうだ」


 昊尚の言葉が古利の耳に入っているのかは、その身じろぎしない姿からは窺い知ることはできない。

 どれ程そうしていただろうか。

 古利は格子から手を離してのろのろと元の位置に戻り、そうか、と呟くと、再び目を閉じてそれきり一言も発しなくなった。





**





 昼間の騒ぎとは無関係だと言わんばかりに、白い月が雲に半ば隠れて静かに浮かぶ。

 その下で、ぼんやりとした小さな明かりを持った影が、建物の間を縫って東へと動いた。忍ばせた足音が急いでいる。


「何処へ行く気だ」


 闇の中から突然響いた声に、影が立ち止まった。

 その声に応えるように雲から顔を出した月が、供二人を従えた細身の男を照らした。

 声をかけた昊尚が腰に佩いた剣を抜く。


「お前を、このまま行かせるわけにはいかない」


 いつもより青味が強くなった瞳に相手を凍らせそうな冷気が宿る。このような昊尚は誰も見たことがないだろう。

 男が、供に持たせた手燭の、光が大きくならないようにしていた覆いを取る。すると、明るくなった手燭の光が、美しい顔を浮かび上がらせた。


 それは雲起だった。


「ああ、何だ。藍公か」


 手燭の光をかざして昊尚を確認すると、面倒臭そうに雲起が片眉を上げた。


「何か用? 夏家の県主ひめはもう連れていったでしょ」

「自分が何をしたのか、分かってるだろう」


 昊尚言うと、あえて戯けるように雲起が肩をすくめる。


「何? 前の蒼国王のこと? それとも前の藍公達のこと? でも私は誰にも手をかけてないよ」


 確かに直接手を下したのは雲起ではない。しかし、結果的にあの事件の首謀者は雲起だと言っていい。


「何故あんなことをした?」


 昊尚の低く凍えそうに冷たい声にも、雲起は薄く笑うだけだ。


「答えろ」


 昊尚が雲起に剣先を向ける。

 雲起は、昊尚に視線を合わせたまま、目を細めた。澄季に似た美しい顔が僅かに不快を現し、溜息をつく。


「……別に。退屈してたところへ、母上に蒼国が欲しいってねだられたからさ。それもいいかもな、と思ってね」

「本当にそんな理由だけなのか」


 昊尚が、僅かな感情の揺れも見逃すまいと、雲起の目を見つめる。


「他に何があるって?」


 あえてなのか、感情を読まれるのを阻むように、口の端を上げて完璧な美しい笑みを見せる。

 昊尚は注意深く雲起を見据えたまま、低い声で言う。


「……玉皇大帝の青玉を盗んだところで、蒼国は手に入らないぞ」


 雲起の長い睫毛が揺れ、目に苛立ちと、ほんの僅かに感傷が混じった気がした。


「そんなことわかってるよ。……本当に馬鹿だね」


 目線をふっと外す。

 最後の昊尚に聞こえるか聞こえないか程の呟きは、誰へ向けたものなのか。亡くなった広然へ向けたものだとしたら、どういう意味なのか。

 昊尚が口を開きかけると、雲起が再び顔を上げて昊尚を見た。目に棘が見える。


「どのみち朱国は崩壊寸前だったからね。高官は自分のことしか考えてない、王は愚かだから、あんな女に入れあげて后稷神の加護まで失うし。無能な王ならいない方がいい。あんたらの国ではこんなこと起こらなそうだから、わかんないだろうけど」


 実の母親のことを、あんな女、と言い、父親のことも愚かだと言いながら雲起が鼻で笑う。

 昊尚は、雲起の本音を隠していた覆いに少し綻びができたことを感じ取った。


「加護を失ったことはいつ知った」


 皇太子の武恵が朱国が加護を失ったことを徳資から聞いたのは、雲起が蒼国で啓康王の事件を起こした頃だったはずだ。その時、既に雲起は、加護を失ったことを知っていたのだろうか。


「……どう考えてもおかしいだろ。加護があるのに、もうすぐ収穫するっていう農作物がだめになるような天候になるの。過去にそんな例はない。気づかない方が馬鹿だろ」


 うんざりしたようにその美しい眉を顰めた。

 雲起は武恵よりも早い段階で、朱国が加護を失ったことを知っていた。しかも、自ら気づいたようであることに、昊尚は軽く衝撃を受けた。


「気づいていたなら、何故、放っておいた?」

「私の知ったことではないからさ。父上や兄上の仕事だろ」


 役に立たなかったけどね、と吐き捨てる。


「お前も王族として責任があるだろう」

「王族ね」


 昊尚の言葉に雲起は自嘲気味に笑った。


「それで、代わりに蒼国を手に入れようとしたのか」

「まあ、作り直すより取り替えるほうが楽だよね。兄上は馬鹿正直過ぎてむかつく」

「たとえ蒼国を手に入れられたとしても、紅国がそのまま見逃すことがないのはわかるだろう」

「別に勝っても負けても、そんなのはどっちでもいいよ。失敗して滅ぼされても、紅国に面倒見てもらえるなら、それでいいんじゃないの」


 昊尚は、武恵が、たとえ紅国に滅ぼされたとしても今よりはいい、と言っていたのを思い出す。


「でもただやられるのはむかつくんだよね。特にあんたんとこの仲良しぶりが嫌いだから」


 これ程に雲起が饒舌なのは珍しい。昊尚は雲起の言うままに任せた。


「慧喬陛下も、さっさと朱国なんか取り潰せばいいのに。ほんとお節介だよね。そういうとこは大嫌いだ」


 昊尚は、最も気になっていたことを口にしてしまった。


「……朱国の民のためだったのか?」


 昊尚の言葉に雲起が吹き出した。

 それは喋りすぎた自分に気づき、誤魔化すための仕草にも見えた。雲起の目はまた感情のないものに戻ってしまった。


「自分が納得できる理由を見つけたいの? 本当におめでたいね」


 雲起の本音は再び隠されてしまった。余計なことを言った自分をわずかに悔やみつつ、昊尚は溜息をついた。


「お前とは仲良くできないな」

「それに関しては気が合うね」


 雲起に向かって昊尚が剣を構え直す。


「私を殺すの?」


 雲起が楽しそうに言う。


「捕らえて公正に裁く。じっくりと言い訳を聞こう」


 昊尚の言葉に雲起が舌打ちをする。


「つまんないなぁ。本当につまんない。相変わらず正しすぎて反吐が出る」

「お前を楽しませてやる義理はない」


 昊尚が冷たく言う。


「ま、そうだろうね。だけど、法でなんか裁かれるのは真っ平だね」


 雲起はそう言うと、供が持っていた包みから丸いものを取り出した。

 それは火毬ばくだんだった。導火線を範玲が切ってしまったものだ。


「夏家の県主ひめにはやられたよ」


 丸い玉を弄びながら雲起が楽しそうに言う。


「油断した」


 ふふ、と思い出したように笑う。


「導火線が切られちゃったから、もう直接コレに火をつけるしかないよね」


 そう言って、雲起は供の持っていた手燭を奪うと、火毬ばくだんにかざした。

 供の男が恐怖で、ひっと声を上げて尻餅をつくと、あたふたと這って逃げる。昊尚は咄嗟にその場から走って建物の陰に隠れた。


 隠れた直後、爆音が響いた。


 爆風が昊尚のすぐ横を抜けていく。昊尚は目を瞑って口元を覆い、煙を吸い込まないようにする。

 どれ程我慢しただろうか。

 煙が収まって、視界が開けるのを待ち、雲起の立っていたあたりを確認する。


 しかしそこには、散乱した瓦礫と、焦げた見覚えのある衣服の切れ端だけが残っていた。




**




 朱国では、旧体制を改め、粛々と新しい国を創る準備が進められようとしていた。

 武恵を亡き者にしようとした丞相らは捕えられ、厳しい処罰が決まった。禄ばかり貪る高官はこの機会に多くが罷免された。

 そんな中で、徳資と澄季は捕えられたまま、宙に浮いた存在となっていた。

 徳資は軟禁された部屋でじっと物思いにふけり、時折何かを書き付け過ごしている。これからどのような処遇となろうとも、受け入れる覚悟でいるように見えた。

 澄季は、雲起が火毬の爆発に巻き込まれたと聞いてから、気が抜けたようにぼんやりとするようになった。何をすることもなく座ったまま日を過ごすのだが、時折り人を呼んで、雲起はどこか、と聞いた。

 王と王妃を断罪すべきという声もあったが、武恵はそれに同意することができず、かといって処遇を決断することもできずにいた。




 そこへ、紅国王の慧喬から親書が届いた。

 処遇を決めかねているのであれば、澄季は紅国で引き取ろうという申し出であった。

 その申し出を、武恵は反対する家臣らに頭を下げて受けさせてもらうことにした。


 返書を送った数日後、慧喬自らが朱国にやってきた。


「澄季をここに置いておくのは、また火種になる可能性もある。アレは連れて帰って紅国で責任を持って管理する。徳資殿もアレがおらぬ方が良いだろうよ」


 そう言う慧喬に武恵が礼と詫びを述べる。

 すると、慧喬が厳しい顔で武恵を見た。


「武恵。わかっておろうが、温情だけでは国は治らぬぞ」


 項垂れる武恵に、慧喬は溜息をつき、それから苦笑した。


「まあ、余も偉そうには言えぬがな」


 慧喬は、離れたところでぼんやりと外を眺めている澄季を、複雑な色を宿した琥珀色の瞳で見やった。


「……澄季が迷惑をかけてすまなかった」


 慧喬はそう言い残し、澄季を紅国へと連れ帰った。





**





 宗鳳二年五月望日、朱国で徳資王が廃され嫡子范武恵が第八代王となると、峯紅国及び脩墨国、橦翠国とともに武恵王を支援することを約した。



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