第74話 二年季春 戴勝桑に降りる 11

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 自分を呼ぶ声に、範玲は門楼の南側の欄干に駆け寄り下を見ると、昊尚が馬から飛び降りたところだった。


「飛び降りろ!」


 昊尚が両手を広げて叫んだ。

 怖いとか、どうして昊尚がここにいるのかとか考える前に、範玲は欄干を乗り越えて、その広げた両手に向かって飛び降りた。


 もう一度会えた。


 それだけだった。


「……!!」


 昊尚は落ちてきた範玲を摑まえるとその衝撃で倒れ込んだ。


「……無事か!?」


 範玲を抱き止めて下敷きになった昊尚が、範玲の頬を両手で挟んで確認する。範玲の顔を確認すると、昊尚の瞳の青みが柔らかくなった。

 範玲は頬から伝わる手の温もりで、昊尚が本物であることを実感する。

 昊尚が範玲を抱きしめた。


「よかった……」


 範玲は昊尚の掠れた呟きと、腕の中にいる安心感で涙が溢れ出て止まらなくなる。いつもよりもきつく抱きしめる腕に、昊尚にどれ程心配させたか思い知る。ごめんなさい、と何度も言いながら泣きじゃくった。


「もう大丈夫だから」


 そう言うなり、昊尚は急いで範玲を抱えて立ち上がった。


「行くぞ」


 陽豊門には雲起がいる。昊尚の声に気づいたかもしれない。

 昊尚は範玲を馬上に押し上げると、自身も飛び乗り、範玲が落ちないように自分の腰に手を回させる。範玲が促されるまま、慌てて昊尚にしがみつくと、昊尚は手綱を引き馬首を西に向け発進させた。

 発進の際に範玲がちらりと見た景色の中に、門の上に立つ雲起の姿があったような気がした。表情まで読み取ることはできなかったが、確かに顔はこちらを向いていた。

 ぞわりと不安が襲ってきて範玲の身体が強張る。

 更に強くしがみついた範玲を安心させるように、昊尚が範玲の頭に頬を寄せて言った。


「大丈夫だ」


 範玲を抱きこむようにしながら馬の手綱を取る昊尚から届いた声は、範玲の不安をほぐした。


 そうか。もう一人ではないんだった。


 そう思った途端、じわりと身体中に温かいものが広がっていくのを感じた。範玲は漸く、ずっと緊張していた身体の力を抜くことができた。





**




 紅国と蒼国の兵を引き連れた武恵は、景成らによって開かれた月明門から入り、宮城へと向かった。

 武恵の率いる軍勢はその数の多さはもとより、従う各国の将軍の顔ぶれに目を見張るものがあった。武恵の脇を守るのは、勇猛と名高い朱国元禁軍副官の勇亮、蒼国随一の武将でもあった王の壮哲が、その腕に信頼を置き直々に抜擢した羽林軍の葛将軍、極め付けには紅国の伝説と言われる李将軍だ。

 「できるだけ血を流したくない」という武恵の希望により、可能な限り戦闘を避けさせる意向でこの軍勢は用意された。その数と質によって戦意を喪失させようとする目的だ。

 皇城と宮城のある内城への入口の門では、景成の仲間である官吏たちが待機しており、門を開けた。門番はいたものの、援軍の兵士はわずかで、思ったよりもすんなりと開門が果たされた。


「何かあるな。気を引き締められよ」


 伝説の武将と称されているとは思えない、穏やかな目をした李将軍が静かに言った。朱国側が思いの外あっさりと門を明け渡したのは不審だ。

 開いた門から二国の兵士が進み、宮城と皇城の間の広い道はあっという間に臙脂と紺の甲冑姿で埋め尽くされる。

 ところが、兵士たちが滞留すると、今通ってきた門の陰から朱国の騎馬兵が現れた。武恵の率いる軍の殿しんがりを追い立てるように一斉に矢を放ってくる。武恵の軍勢はそれに応戦しながら東へ進む。

 内側から佑崔らが開くことになっている西豊門に先頭が着いたが、まだ門は開いていない。内城の門があっさりと開いたため、予定よりも到着時間が早かったのだ。滞留する兵士達は後ろから放たれる矢を避けて東へ進まざるを得ない。


「陽豊門が手薄との情報があります。軍を分けて二方から入りますか」


 斥候に遣っていた兵が戻って来てもたらした報告により武恵が言うと、李将軍がそれには即座に異を唱えた。勇亮も葛将軍もそれに同意する。

 後ろから追い立てるように迫る朱国の兵に、先へ進ませようとする意図を感じる。それこそ罠だろう。決して敵に追われるとおりに東に向かってはいけない、との見解だ。

 宮城へ入るにはあらかじめ段取りした通り、中央の門ではなく、狭いが西側の西豊門を通ることとした。

 東へは進まず、来た方向へ朱国の騎馬隊を押し返すように応戦する。そうしているうちに、閉ざされていた西豊門が内側から門を開いた。開門が遅くなったことを詫びる佑崔が武恵を迎える。

 宮城の中へ、砂時計の砂が落ちるように、臙脂と紺の軍勢が飲み込まれていく。

 後方から矢を放っていた騎馬隊が慌てて攻撃の手を強めるが、応戦されるばかりで東側に兵を進めさせることができない。

 宮城の中で待機していた兵士たちも、急ぎ西豊門方向へと兵を移動させるが、続々と入ってくる臙脂と紺の軍勢が押し返す。

 武恵の率いる軍勢は、王がいるであろう丹輝殿を目指す。途中、陽豊門付近に多くの兵士がいたが、混乱を極めた様子で右往左往している様子が見えた。


「朱国の兵たちよ、よく聞け。無駄な血は流したくない。投降せよ。ここで争うのではなく、私の元で新しい朱国を創るために手を貸してくれ」


 武恵の呼びかけと、脇に控える歴戦の将軍らの厳然とした姿、そして圧倒的な兵士の数の差を目にして、朱国の兵の多くは剣を置いた。あくまでも王を守ろうとする禁軍兵士は、大軍に追い払われた。 

 武恵の率いる軍が丹輝殿を取り囲む。建物の中へ入ると、その玉座に朱国徳資王はいた。

 武恵が勇亮、そして紅国と蒼国の禁軍将軍を率いて玉座の前へと進んだが、徳資王は驚く様子もなく彼らを迎えた。平時にすり寄っていた高官たちの姿はない。


「父上」


 武恵が声をかけると、徳資王は疲れた様子で溜息をついた。


「武恵。これはどういうことだ」

「父上、ご退位をお願いいたします」


 前置きもなく言う武恵を、一層年老いたように見える徳資王が見つめる。


「既に義母上は拘束いたしました」


 届く視線を真っ直ぐに捉えて武恵が言うと、そうか、と目を逸らして徳資王が呟いた。


「余が憎いか」


 徳資王が視線を逸らしたまま聞いた。


「……そういうことではありません」


 武恵は伝わらない意図にもどかしさを感じながら、努めて冷静に言葉を繋ごうとした。


「父上は道を誤りました。……せめて、后稷様がお隠れになり始めた時に、お話しいただきたかった……。后稷様がお隠れになった後も、王として……」


 しかし、言葉は悔しさのあまり途切れる。そんな武恵を見つめ、徳資王は静かに言った。


「……年々、収穫が減っていることはわかってはいたが、この程度なら大丈夫だと自分を誤魔化しておった。……后稷様がお隠れになったとしても……その御加護がない他の国でも作物は育つ。だから大丈夫だろうと思っていたが、それは甘かった。恐らく、后稷様の怒りを買ってしまったのだろう……。……后稷様に見捨てられたこの国は、長くはない。……余は諦めてしまったのだ……」


 徳資王は長い溜息をついて背もたれに身を預けた。


「だから、もうせめて澄季には最後まで好きにさせるつもりだった」

「義母上よりも民のことを第一にお考えいただきたかった」

「……そうすべきだったのだろうな」


 他人事のように言う父親に、憤りで武恵の体が震えた。かつて、家臣の意見に耳を傾ける賢帝と言われ、大きく見えた父はただの老人に化していた。

 徳資は玉座の背にもたれたまま口を開いた。


「……お前の母親の静桂を亡くして、朱国王としての余も死んだも同然だった」


 その目は遠くを見つめる。


「……静桂がいなくなって、朱国は王を失ったのだ……」

「……それはどういう意味ですか」


 父親の言葉の意味を測りかねて武恵が聞き返した。

 問いに対して徳資が語ったそれは、武恵にとって少なからず衝撃の内容だった。

 皇太子だった徳資に若くして嫁いで以来、静桂は公私共に徳資を支えた。こう言うと、ごく当たり前のことのように聞こえるが、その支え方は通常の域を超えていた。

 徳資は、皇太子の時代から、徳資の担うべき決定を、全て静桂に諮り、その判断を委ねていたというのだ。


「静桂は思慮深く、賢かった。常に冷静で、判断を誤らなかった。……余よりも王に向いていた」


 皇太子、王としての公の体面を徳資が、実務を静桂が担っていたという。しかし、徳資の公の職務としての判断や、指示する内容を決めるのを全て静桂が行なっていることは、徳資と静桂しか知らなかった。静桂が徳資の威信を守るために、厳に隠し、徳資にも決して口外させないようにした。

 ……しかし、今となっては、それが、静桂の唯一、最大の誤断だったことになる。


「余は、静桂がいなければ何もできなかった。……依存していたのだ。余に対する賞賛は、本来は全て静桂へのものだ」


 徳資の治世のうち、最も安定していた時期は、確かに静桂が存命の頃だ。臣下の話をよく聞く賢帝という徳資への評価は、静桂に何もかも諮っていた結果だったのだ。

 突然の告白に、武恵は、目の前の玉座に座る人間が一体誰なのかわからなくなってきた。


「元々王としての資質など無い余にとって、静桂が逝ってしまったのは致命的だった。それでも、なんとか王としての責務を果たそうとした。しかし、無理をしているうちに、余はおかしくなってしまった。全ての色が消え、何を見ても何をしても心が動かない……。全ての感覚がなくなったのだ」


 徳資がぼそぼそと続ける。


「ずっとこのような味気ない世界で生きていくのかと絶望し、もう限界だと気が狂いかけていた時、澄季に出会った。澄季を目にした途端、余の感覚が元の通り生きたものに戻ったのだ。力が漲るようだった。余にはどうしても澄季が必要だった。……だから、無理を言って自分の娘程の歳の澄季を妻に迎えた。その時、何があっても澄季に不自由させない、と澄季に約束した。……余は、澄季のお陰で余はここまで生きてこられたのだ……」


 武恵は徳資の言葉を青ざめ、黙って聞いた。

 人としての父の心情はどうにか理解できたが、やはり国主の行動としては、到底納得も同情もできなかった。

 憤りを声に出すこともできず、拳を握りしめるしかなかった。


「……お前が朱国の王になるのか」


 徳資がしわがれた声で聞いた。


「……そのつもりです。王家としての責任があります」


 武恵が声を絞り出す。


「加護のない国の末路など、引き受けなくてもよかろう」


 武恵は徳資をぎりりと奥歯を噛み締めて睨んだ。それは父親に対して初めて向ける反抗の目だった。


「……私は諦めません。……私にも王の素質は、無いのかもしれません……。ですが、私の周りには助けてくれる家臣がいます。再び后稷様の御加護を得られるよう、民や家臣たちと力を合わせていきます」


 徳資は自身に怒りを向けて決意を語る息子に、その場にそぐわない懐かしむような目を向けた。


「お前は、静桂の息子だ。上手くやれるだろう。好きにするがいい」


 その顔は漸く重い荷物を降ろし、安堵しているように見えた。




 武恵の起こした反乱は、徳資王と澄季妃を拘束し、武恵が次期朱国王になることを宣言して収束した。




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