第73話 二年季春 戴勝桑に降りる 10

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「碧公が行くのは許可できない」


 壮哲が英賢をじっと見据えて静かに言った。


 珠李が見つかった後、昊尚が、不撓の梅の結び飾りが指し示す光から、範玲が朱国に連れ去られたらしいということを告げると、英賢は自身で朱国に乗り込むと言い出した。

 しかし、壮哲がそれを下命で止めた。根っからの文官の英賢には不向きな役目だからだ。こういった作業に最も適任と言えるのは佑崔だろうが、佑崔は既に澄季の後宮に入っているはずで、ここにはいない。


「じゃあ、昊尚が行ってくれないか」


 英賢が青ざめながら、範玲と同じ色の瞳を震わせて昊尚を見た。昊尚は壮哲を窺い、努めて冷静に声を発した。


「行ってもよろしいですか」


 本当ならば範玲が連れ去られたとわかった時点で、その足で直ぐに朱国へ向かいたかった。しかし、行ったところでもう追いつけないだろうし、朱国に着いた頃には城門は閉まっているだろう。事によると、今進行中の武恵の計画に影響を与える可能性もあるため、壮哲の許可を得てから、と辛うじて藍公としての理性が昊尚を押しとどめていた。

 壮哲が頷くのを確認すると、昊尚が言った。


「明日の早朝、開門の時刻に合わせて武恵殿の率いる軍勢が朱国の西側の月明門に到着します。恐らく月明門は軍勢に気づいて開門しないでしょう。なので、私は別の門から開門と同時に入り、軍勢が宮城の入る前に範玲殿を救助します」

「時間の余裕はあまりないだろう。助け出せる当てはあるのか」


 壮哲が痛みに耐えるように真っ青な顔をした英賢をちらりと見て、静かに聞く。


「正直を言えば当てはありません。しかし、不撓の梅の結び飾りがあります。範玲殿がそれを身につけていてくれれば、光が導いてくれます。それに、宮城の配置については、喜招堂として出入りしていたので概ね把握しています」


 昊尚が言うと、壮哲が渋い顔をしながら頷いた。


「まあ、お前が一番適任だろうな」

「頼んだよ。昊尚」


 英賢が端正な顔を心痛で歪めながら言った。



 

 壮哲の許可を得ると、昊尚は城門が閉まる前に采陽を発った。明遠の話によると、現在、寧豊へは蒼国の者の立ち入りは非常に厳しくなっているとのことだったので、蒼国にいた懇意にしている朱国の商人に通行証を借りた。

 蒼国側に最も近い月明門へは、武恵の率いる軍が開城の時刻に到着することになっている。朱国にできるだけ事前に悟られないよう、ぎりぎりまで蒼国に留まり、夜中に一気に最短距離を朱国の月明門まで駆ける手筈だ。

 夜が明け、他国の軍が押し寄せてきたのに気づけば、月明門が開けられることはない。月明門に敵軍が来ているという情報が伝われば、他の城門も全て閉められるだろう。だから、昊尚は北側の城門から開門と同時に寧豊へと入った。


 昊尚は寧豊の街を、不撓の梅の花弁から伸びる光を頼りに進んだ。やはりその光は宮城の方角へ続いている。


 今頃、武恵の率いる軍勢に、月明門では混乱が起きているだろう。手筈通りならば、そう時間を置かず、月明門は破られる。武恵たちが城内に入れば、前日に後宮に潜り込んでいる佑崔たちが宮城の門を内側から開けることになっている。宮城が戦場になる前に範玲を見つけたい。あまり時間がない。


 こうしている間も範玲は無事だろうか、と思うにつけ、範玲がいなくなって以来身のうちに抱える鉛のようなものが益々重くなる。

 昊尚は、気持ちばかりが焦り、冷静さを失いそうになる自分を戒める。雲起が範玲自身に執着している以上、彼女の身を損なうことはないはずだ、と昊尚は何度も自分に言い聞かせた。

 宮城に近づくと、改めて不撓の梅の花弁から出る細い光を確認する。光は宮城の西寄り、思った以上に上方に向かっていた。四層の楼閣が目に入る。ぼんやりとした光は途中で目に見えなくなっていたが、楼閣の最上階へと続いているように思われた。

 宮城の門は既にどこも閉じられている。楼閣に一番近いのは、北側の門だ。

 昊尚は北の門へと急いだ。そこには禁軍の詰所があるが、今は兵士たちの殆どが武恵の軍勢に対応するため出払っているようだった。人気ひとけが少ないというのは、昊尚にとっては都合が良い。

 閉ざされている門に向かって声をかけた。

 当然、門を開けることはできないから帰れ、という答えが返って来たが、通行証を借りた朱国の店の名前を出し、澄季から注文を受けたものを急ぎもってこいと言われたのに、どこも門が閉まって入れなくて困っていると訴えた。南側の門は全て厳重に閉ざされているので、ここならば禁軍が守る門であるし、却って安全だと思って来た、と切実な声で言う。

 澄季の名前を出すと、同情の相槌と溜息があり、少し沈黙があった後、薄く門扉が開き、隙間から通行証を見せろ、と覗く目が見えた。昊尚はすかさず剣を差し入れ、隙間を広げると、中へ押し入った。押し入った勢いそのまま、門番を剣の柄で殴り倒した。

 昊尚は、すまん、と倒した門番に小さく詫び、再び結び飾りの放つ光を頼りに進んだ。四層の楼閣を示していると思った光は、今はそれよりも南の方へ向かっているに気づく。

 範玲が移動したということだろうか。しかし、結び飾りが範玲の元にはない可能性も、無いとは言えない。もしかしたら、結び飾りを取り上げられているかもしれない。その場合は、先ほどまで結び飾りが示していた場所に、まだ範玲がいないとも限らない。

 昊尚は楼閣に入ると、足音を忍ばせて気配を探しながら階段を登った。各階には人気ひとけはなかった。最上階まで行くと、扉の前では兵士が一人退屈そうにしていた。

 見張りがいるのは、ここに誰かを閉じ込めている証拠だ。

 昊尚は階段の影から一気に駆け上がり、兵士を倒した。

 扉の鍵を壊して中に踏み込むと、そこには誰もおらず、開け放たれた窓から風が吹き込んでいた。窓の下には踏み台にしたかのように椅子が置かれていた。

 昊尚は窓から外を確認し、範玲はここから出たのだろうか、と冷やりとする。

 見張りのいた扉の他は、窓以外に外に通じているところはない。見張りが扉の外にいたままだったということは、範玲が気付かれずに窓から逃げ出したということだ。まさかあの華奢で大人しそうなのが、窓から逃げ出すとは思っていなかったのだろう。

 ということは、結び飾りは範玲の元にまだあり、光はきちんと範玲の居場所を示しているのだろう。

 昊尚はほっとするのと同時に胸騒ぎを覚えた。


 逃げ出してそのままどこかにじっと隠れていてくれたらいいのだが……。


 長い間引きこもっていたわりに、無鉄砲で大胆なところがある範玲を思うと、その可能性は低いのではないかという気がしてくる。

 昊尚は急いで楼閣から駆け下りると、光の伸びる先へと急いだ。



 不撓の梅の花弁は、範玲が楼閣よりも南の方向にいることを教えてくれている。人の多い方へ向かったということからも、範玲が何かやろうとしているように思えた。

 焦りながら光に導かれて南へ向かうと、光は宮城の正門に当たる陽豊門の上に建つ門楼の方へと続いていた。

 昊尚は舌打ちをする。

 陽豊門は兵士たちに囲まれていた。これでは近づくことができない。

 昊尚は迷った挙句、その場を離れ、西へ向かった。

 西豊門では、今まさに門が開けられたところだった。


「昊尚様!?」


 門の脇にいた佑崔が気づいて声をかけた。


「どうしてここに?」

「すまん。説明は後だ」


 昊尚は雪崩れ込む軍勢をすり抜け、門の外へ出る。途中葛将軍と目が合い一瞬驚かれるが、黙礼だけしてそのままやり過ごした。

 外へ出た昊尚は顔見知りの蒼国の兵士を捕まえると、狼狽える兵士に無理を言って馬を借りた。

 馬に飛び乗ると、陽豊門へ表側から引き返す。


 頼むから無事でいてくれ。


 祈りながら馬を駆けさせる。

 不撓の梅の結び飾りは先ほどと同じく陽豊門の上を指している。陽豊門の南側正面には不自然なほど朱国の兵士はいなかった。

 門楼を食い入るように見る。すると、ひらりと柔らかそうな布地が翻ったのが目に入った。光はそれに向かっていた。


 紛れもなく、あれは範玲だ。


 昊尚は咄嗟に名前を呼んでいた。



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