第72話 二年季春 戴勝桑に降りる 9

 *



 範玲は楼閣から出ると、内心はびくびくしながら、表面上は何食わぬ顔をして、しかし出来るだけ急ぎ足で南側の大きな門を目指した。

 屋根の上で素足になってしまったままなので、足が痛いが仕方がない。裙で素足が隠れているだけでも良しとしよう、と開き直る。

 城内がばたばたしているせいか、範玲に目を留める者はいなかった。ただ、雲起と、範玲をここに連れてきたあの無表情な女に見つからないようには目を配った。


 楼閣に連れてこられた道を辿って、雲起の意識の中で見た門へと急ぐ。途中、誰かが置き忘れたのか、少し破れた竹で編んだ籠が放置してあったので、それを抱えて、さも仕事中である振りをして歩みを早めた。

 雲起の意識の中で見た門の辺りに辿り着くと、その周りでは兵士たちが作業していた。門の上に続く馬道つうろを登って木箱を運び上げている。

 あの箱に、砒霜ひそ入りの火毬ばくだんが入っているのだろうか。箱の中身はよく見えなかったが、兵士たちが慎重に、門楼へ運んでいた。


「投擲機を運ぶぞ。手を貸してくれ!」


 門から少し離れたところから呼ぶ声に、兵士たちがその場を離れた。

 思いがけず訪れた好機に、範玲は慌てて兵士たちがいた反対側の馬道つうろへ走った。

 門の上に建つ門楼に着くと、そこには導火線のついた火毬ばくだんの入った木箱が並んでいた。これに火をつけて投擲機で紅国と蒼国の軍勢に投げ込むつもりなのだろう。

 こんなものを使われたら、命を落とす者が大勢出るに違いない。

 雲起に触れた時に流れ込んできた場面が脳裏に浮かび、ぞわりと鳥肌が立った。


 やっぱり、それは駄目だ。


 範玲は初め、蒼国の軍に火毬のことを知らせに行くつもりだった。しかし、そんな物騒な物がある限り危険は無くならない。であれば、使えないようにする方が安心だ、と考えを変えた。

 範玲は左だけ耳飾りを外し、近づいて来る物音に備える。そして、胸元から手巾に包んだものを取り出した。楼閣の物入れから拝借してきたもの。それははさみだった。鋏を見つけた時点でここに来ることに決めた。

 範玲は、よし、と小さく声に出して気合を入れると、鋏で火毬ばくだんの導火線を根元から切り落としにかかった。導火線がなければ、火をつけて投げ込むことはできないだろうと考えたのだ。

 しかし、非力な範玲にとってそれは簡単な作業ではなかった。

 勢いよく切って摩擦で火花が飛んでしまっては危険だ。慎重に、しかしできるだけ素早く行わなくてはならない。

 箱から取り出した火毬の導火線を摘み、片手で持った鋏で切ろうとしたがうまくいかない。そこで範玲は、火毬を膝で固定し、両手で鋏を掴んで導火線の根元に刃を当てると、ゆっくりと力を加えた。刃が導火線に食い込み、徐々に押し切られていく。それと同時に鋏の柄が範玲の柔らかい手のひらにも容赦なく食い込む。

 いくつか切ると、鋏が直接当たる手の皮は直ぐに擦れて赤くなり破れた。鋏を包んできた手巾を利き手に巻くと、少しましになった。


 ……お願いだから誰も上がってこないで。


 祈りながら火毬の導火線を一本一本切っていく。

 自分の力の無さと要領の悪さが歯痒く感じる。

 切り進むにつれて、鋏の刃は鈍ってきた。鈍った刃で切るには息を詰めて力を入れなくてはならず、思った以上に重労働だった。鋏を握っている手だけでなく腕も痛い。息切れがして汗が滲む。範玲は袖で汗を拭いながら黙々と作業を続けた。

 四十本近くの導火線を切り終わったあたりから、手が痛いのか熱いのか分からなくなった。それに、両手とも腫れているのだろう。鋏が握りにくくなって、気をつけていないと、鋏を取り落とした。手に巻いていた手巾は血で濡れて気持ち悪い。裙の裾を巻いてみたが、その絹の布地では、鋏を掴んでいてもつるりと滑りそうで却って危ない。仕方なく血の染み込んだ手巾を巻き直し、どうにか導火線を切り落とす。

 無心で作業をしていると、西の方から足音とガラガラと台車を押す音が聞こえてきたことで我に返った。


 誰か来る。まずい。


 不意に聞き覚えのある一番聞きたくない声が耳に入った。


「何でそんなにゆっくりしてるの? やる気ある? 早くしなよ。もう火毬は上にあるの?」


 雲起だ。


「火毬は運びました! 後はこの投擲機を上げるだけです!」

「遅いよ」


 その声を聞いて、範玲の脈拍は速くなり、息苦しくなる。手が震えて握った鋏を落とした。

 間に合うのか。

 箱の中の導火線をまだ切っていない火毬は、あと三つになっていた。

 範玲は震えが止まらない手で火毬を取り出し、落とした鋏を掴むと、作業を続けた。

 汗を拭うこともせず、導火線を切り落とし、あと一つになった。


 これで、最後。


 範玲は奥歯をぎゅっと噛むと、鋏の刃を導火線の根元に当てて、両手に力を込めた。

 二枚の刃に挟まれた導火線は、押し切られ、火毬から離れて落ちた。


 ……間に合った……。


 安堵で力が抜ける。


 後はここから逃げるだけだ。


 しかし、残念なことに範玲は火毬の導火線を切った後のことは考えていなかった。とにかく火毬を使えないようにすることだけを考え、自分の安全の確保については疎かにしていた。というか、どう考えても見つかる可能性の方が高いため、後のことは考えないようにしていたというのが正しいだろう。

 範玲は額の汗を袖で拭うと、ふらつく足元を励ましながら登ってきた方の馬道へ引き返そうとした。しかし、そちらからも兵士が来る気配を感じ取る。慌てて建物に戻り、やってくる兵士たちからは見えない、南側に回って隠れる。

 もう一方の馬道からは雲起も登って来ている。

 逃げ道は無い。そう自覚して、範玲は、捕まった後の自分、というものに漸く頭が回るようになる。


「敵軍が宮城の中に入ったようです!」

「何だと!?」


 兵士たちの慌てた声と足音が益々近くなってきた。

 この状況で見つかったら、ただで済むとは思えない。

 心臓は激しく脈打っているのに、頭の奥が冷たくなる。


 自分に何かあったら兄上と理淑は悲しむだろう。兄上は大丈夫だろうか。理淑のあの太陽のような明るさに、影が射すようになってしまうのだろうか。


 そう思ったら、目の奥が痛くなり、視界がぼやけてきた。

 ごめんなさい、と声にならない声で呟くと、涙が溢れた。


 それに。


 範玲は外したままの左の耳飾りをぎゅっと握りしめた。

 昊尚の普段は冷たく見える青みがかった黒い瞳が、ふと優しくなる瞬間を思い出し、胸が締め付けられる。


 ここで捕まったら、もう会えないのだろうか。

 もう一度でいいから昊尚に会いたかった。きっと心配しているだろう昊尚に謝りたかった。


 最後に会ったのは、朱国から帰った昊尚が、会いに来てくれたあの夜だ。両手を広げて範玲が来るのを待っている昊尚が目に浮かぶ。

 喉の奥が詰まって声が漏れそうになる。


 ……ああ、あの時、抱きつけば良かったな。


 兵士たちがこちらに来る気配を感じながら、範玲がそう思った、その時。


「範玲!」


 一番聞きたかった声が範玲を呼んだ。



 

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