第71話 二年季春 戴勝桑に降りる 8
*
朝餉の支度に使う水を下働きの女が運んでいる。水の入った瓶が重いのだろう、体勢を崩してよろけた。
「危ない」
背の高い女官が、水瓶と転びそうな下働きを抱きとめて支えた。
「も、申し訳ありません。…ありがとうございます」
水瓶を落とすところを助けられた下働きが、抱きとめてくれた人物を仰ぎ見て礼を言うと、背の高い女官がにこりと微笑む。
「いいえ。どういたしまして」
すらりとして中性的な雰囲気の美しい顔で返されて、言われた方の顔が赤らむ。
「大変ですね。手伝いましょうか」
「い、いえ、大丈夫、です……」
顔を赤くした下働きは、慌てて俯くとそそくさと行ってしまった。
その背中を見送り、この光景を見ていた華奢な女官が背の高い方に言う。
「……何? 今の」
「何って、水を溢したら大変でしょう」
それまでと打って変わって無表情な顔で振り向いたのは、女官姿の佑崔だ。
「そうじゃなくて。何か、いつもの佑崔殿じゃないよね」
これも女官姿の理淑が半眼で言うと、佑崔がしれっと言う。
「女性にはいつもこうですよ。女性には、親切にするようにと姉たちに言われているので」
”女性”という言葉を強調した言い方に、理淑が口を尖らせる。
それを受け流して、外の様子を見てきます、とその場を離れる佑崔を、口を尖らせたまま見送ると、それにしても、と理淑は鼻を鳴らして屋内を見渡した。
ここは朱国の後宮だ。贅を凝らした細工の家具に、手持ち無沙汰にお喋りをする女官たち。
朱国の今の後宮に妃は澄季だけである。にもかかわらず、一人に仕えるためにこの女官の数は幾ら何でも多い。これも澄季の浪費の一種なのか、と理淑が呆れる。
人の入れ替わりが激しいから、見覚えのない者がいても大して怪しまれない、という武恵の言葉は正しかった。澄季の後宮に、理淑と佑崔、それに月季の三人が女官として紛れ込んでいるが、お座なりな様子で何人かに「新入り?」と聞かれただけだった。
紅国から大雅が親書を持って蒼国にやって来た際に、壮哲を通して理淑と佑崔に依頼されたことがあった。それは、武恵が朱国に軍勢を引き連れて来る前に、月季と共に一足先に後宮へ潜り込むことだった。
澄季を拘束し後宮を制圧した後、宮城の内側から門を開け、朱国の都城へ入った武恵の軍勢を引き入れるためだ。
ちなみに、この申し入れに対して、また女装……と佑崔は嫌な顔をしたが、壮哲からの下命には大人しく従った。なお、英賢からもいつもの如く圧力をかけられている。
理淑らを後宮に入れる手引きをしてくれたのは、徐葉扇という若い女官だ。あの口の悪い元文官の徐景成の血の繋がらない従兄妹にあたる。景成に協力して引き受けてくれたというわけだ。
その葉扇は、景成に連れられて三人と引き合わされると、感嘆の溜息を漏らした。
「まあ……! 皆様お美しくて……本当に軍の方ですか?」
殊更月季には目が釘付けになる。
「特に月季様は妃殿下に面差しが似ていらっしゃって……」
言われた月季が嫌な顔をする。月季は、澄季に似ている、と言われることが昔から嫌いだった。その表情の変化で月季の内心を察した葉扇が、今の言葉を口にした理由を続けた。
「すみません。月季様のような方がこの後宮にいらっしゃったら、大変なことになっていたかもしれない、と思ってしまって……」
「どういう意味?」
月季は、自分が澄季と似ているということだけならば、いつもそうしてるように聞き流すつもりだったが、続いた葉扇の言葉に思わず反応した。
「妃殿下はご自分より美しい者をお許しにならないのです」
月季の横で理淑が怪訝な顔をすると、葉扇が、澄季は月季のような若くて美しい者がいると目をつけて苛めるのだということを教えてくれた。
「それなら理淑殿だっていびられるんじゃないの」
月季が綺麗な眉間に皺を寄せると、葉扇がふるふると首を振った。
「勿論、理淑様もお美しいです。でも、お美しさの系統が違います。妃殿下にとって美の基準はご自分なんです。だから妃殿下にお顔立ちが似ている月季様が、まさしく妃殿下の基準どおりのお美しいご容貌というわけです」
「……何それ……」
月季が益々嫌そうな顔をした。
葉扇は困ったように頷くと、少し
「……この間、毒入りのお茶を飲んで亡くなった侍女も、華やかで少し妃殿下に似た感じのとても綺麗な子でした。……もしかしたら、本当は妃殿下が……なんて噂もありました」
聞いていた理淑があからさまに顔を顰める。
もし本当ならば正気じゃない。てっきり雲起の仕業だとばかり思っていたが、事実は違う可能性もありうるのか。その出来事を反武恵派が利用したということなのかもしれない。
胸のもやもやは増えるばかりだった。
理淑が澄季の無駄な後宮を眺めながら、そんなことを思い出していると、様子を見に行った佑崔が戻ってきた。
佑崔は理淑と月季に目配せし、二人を促した。
武恵が月明門を破って都城へ入ってきたのだ。
既に、朝早くに後宮の門を守る兵士達は三人で手分けして昏倒させ、縛って倉庫に押し込めてあった。後宮の門は直接宮城の外へ通じていないため、そこから近くの別の門へ行き開門することで宮城への入口を作る予定だ。そのためには人質としても澄季を捕えておかなくてはならない。
後宮の中を守るのは、男子禁制なだけあって男性兵士はおらず、後宮付きの女性兵士のみだった。三人が澄季の部屋へ着くと、扉前で待機していた女性兵士たちが何事かと向かってくる。しかし、蒼国随一の剣の腕を持つ佑崔や、理淑らに敵うはずもなく、早々と剣を叩き落とされ手際よくその身は拘束された。
月季を先頭に、理淑と佑崔の三人が澄季の部屋に踏み入った。
「何だ、騒がしい」
中では澄季が起き抜けの気だるさを纏ったまま、精緻な彫刻が施された
猫のようにするりと入って来た月季を認めると、澄季が細く整えた眉をあげた。
「お前は、姉上の……」
それに応えるように、月季は顔色を全く変えることなく澄季の前に進み出た。
澄季は、目の前のしなやかな美しい立ち姿を見上げた。
先日の宴席で見た時、澄季は月季のその美しさに激しい嫉妬を覚えた。それ以来ずっと苛々した気分から抜け出せないでいる。いくら侍女達に全身を磨かせようと、宝石で飾りたてようと、一向に気持ちが晴れない。月季を思い出すたびに胸に黒いものが湧き、侍女達に当たり散らしていた。
その不快の原因が目の前に再び現れた。
「武恵様のご意向です。貴女を捕えに来ました」
月季が手にした細身の剣を澄季に向けた。
侍女達の悲鳴が上がる。
幾人かが忠義心からか、短剣を構えて澄季の前に進み出ようとするが、理淑があっという間にそれらから刃物を取り上げる。
「ごめんね。危ないから大人しくしてて」
理淑が剣を見せて侍女達を澄季から離した。
すると澄季は脇にあった文箱からおよそ実戦には不向きな、宝石で装飾された短剣を取り出し、月季に向けた。
「無駄です。叔母上、大人しくしてください」
煌びやかな衣装を纏い輝く宝石に飾られた澄季と、女官用の地味な襦裙に身を包み、髪をただ一つにまとめただけの月季が対峙する。
澄季はこれまで自分の美しさを疑ったことはなかった。
しかし、今、目の前に立つ自分の面差しに似た美しい若い娘__自分の姪にあたるその
化粧気がないのに頬は滑らかで輝くような艶と生気を感じさせる。絶妙な角度で描かれたような鼻梁は高貴な印象を与え、形の良い唇も紅をさしているわけではないのに色付き良く美しい。そして、本物の琥珀以上に強い光を湛えた琥珀色の瞳は、それを縁取る長い睫毛が強すぎる輝きを和らげ、殊更に目を奪われる。
自分を見透かすように真っ直ぐ見据えるこの瞳に、澄季は覚えがあった。
慧喬の目だ。
勿論、月季と慧喬のそれでは形も大きさも異なり、顔の美を構成するという役割においては似ていない。しかし、その目は慧喬を思い起こさせた。
月季の目に見える美しさに加えて、まるで慧喬に見据えられているようでもあり、澄季は胸がえぐられるように感じた。
澄季は、誰よりも賢く、誰からも信頼され敬われ、澄季が何をしても少しも動じない慧喬が嫌いだった。慧喬には一生
唯一容姿を除いては。
誰もが容姿に関しては澄季の方が優れていると認めた。皆が、誰よりも美しい、と澄季を褒め称えた。
慧喬よりも美しい容姿が澄季の全てだった。
だから、何時如何なる時も、誰よりも完璧に美しくなくてはならなかった。そうして実際にそうであったはずだ。
それなのに。これはどういうことだ。
自分が最も美しくあるためには、何を犠牲にしても構わなかった。そのために何でもしてきたというのに。
月季を前に、自分の持っているものを根こそぎ取り去られたような焦燥感に襲われた。月季から見せつけられている美しさは自分も持っていたはずだ。しかし、いつの間にか失くしてしまったというのだろうか。
自分が誰よりも美しいという自信は、その琥珀色の瞳で射られると、全て思い込みだと否定され、無理やりねじ伏せられる気がした。お前の紛い物の美貌を、あらゆる物に優先させて維持することにどれほどの意味があるのか、と問われた気がした。
脇にある鏡に映る自分の姿が澄季の目に入る。鏡の中から自分を見返すその顔は、毎日眺めてはこの上なく美しいと思っていたものだ。それなのに、目の前に立つ月季を見た後では、なんと不自然な美貌に映るのか。一瞬そう思ってしまった自分に、澄季は恐怖を感じた。
月季は、自分を憎しみのこもった目で睨みながら青ざめていく澄季に、慧喬の言葉を思い出す。
「澄季は自分の美しさに絶対的な自信を持っている。確かにあれは美しい。しかし、あの美しさは、民からの搾取の上に成り立っている。月季、お前は嫌がるが、お前の顔立ちは澄季によく似ている。だが、何も飾らないお前の方が美しい。飾らないお前よりも劣るような美貌が、民を犠牲にしてまで守るべきものではないことを澄季に知らしめろ。自分に似た、それも自分よりも美しい者に捕らえられることで、敗北感を植え付けてくれ。そうしないとアレはいつまでも懲りはしない」
静かに、しかし強い光で見つめ続ける月季を前に、澄季は青ざめた面持ちで短剣を持つ手を下げた。
「貴女は王妃としての義務を果たさなかった」
そう言うと、月季は澄季に近寄り、一片の同情も見せず、佑崔に渡された縄でその腑抜けてしまった身体を拘束した。
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