第70話 二年季春 戴勝桑に降りる 7



 誰かが階段を上がってくる音が聞こえたので、範玲は窓を閉めて壁際の椅子に座り直した。

 少しすると、見張り番が挨拶する声の後、ガチャリと鍵の音がして、入って来たのは雲起であった。


「ちょっと手伝って」


 入ってくるなり範玲の顔も見ず、窓辺を目指して歩きながら言った。


「外の音はどの辺りまで聞こえるの?」


 窓の外を指差す。


「……あの辺りでしょうか……」


 範玲も窓辺へと移動し、下を見て少し考えた後に、少なく見積もって木亭あずまやの辺りを示す。


「なんだ。じゃあ駄目だな」


 雲起が少し苛立ちを見せながら呟き、外を見て何かを考え込んだ。

 もっと遠くのことを知りたいのだろう、と範玲が察する。

 窓の外を凝視しているその横顔に、ふと、雲起が何を考えているのか知ることができたら、逃げるのに役立つのではないか、と頭に浮かんだ。

 雲起が自分に注意していないことを確認すると、範玲はこっそりと右の耳飾りを外した。鼓動が早くなるのを抑えるため、静かに大きく息を吸い込み吐き切ると、手をのばした。


「……どうしたのですか……?」


 念のため心配する風を装って声を掛け、範玲は窓枠に置かれた雲起の手に触れた。


 冷たい。


 そう息を詰めたのと同時に、昏いものが手から流れ込んできた。


 苛立ち。侮蔑。


 まず最初に感じた負の感情に、範玲は手が震えそうになるのを懸命にこらえる。

 そして、門の上から火毬ばくだんを人の群に撃ち込む様子が流れ込んできた。苦しむ臙脂えんじ色と藍色の甲冑の兵士たち。

 さらに、砒霜ひそ、という言葉。

 範玲は手が震えるのを抑えられなくなった。手を離そうとしても、固まってしまったように動いてくれない。


「……ま、なるようにしかならないな……」


 雲起はそう呟くと、自分の手に触れている範玲の白い手に気づき、窓枠から手を引いた。


「何? 触れたら舌を噛むんじゃなかったの?」


 皮肉な笑みを浮かべると、窓辺を離れて戸口に向かう。


「君はしばらくここにいて。また役に立ってもらうこともあるから」


 そう言い残して雲起は部屋を出て行った。

 範玲は雲起がいなくなると、外していた右の耳飾りを急いで着け直した。雲起に触れていた震える左手を、裙で何度も拭いながら、今雲起から読み取ったことを考える。


 臙脂色は紅国の、藍色は蒼国の甲冑の色だ。雲起は火毬を紅国と蒼国の軍勢に撃ち込むつもりなのだ。雲起の思考の中に見えた門は、ここに来るときに左手の方向に見えた門のようだった。その門の向こうに広場があるのだろう。しかも、火毬には砒霜を仕込んでいるらしい。砒霜は毒だ。身の内に取り込めば命の危険があるものだということが本に書いてあったのを思い出す。


 不意に理淑の屈託のない笑顔が浮かぶ。

 蒼国軍には理淑たちもいるかもしれない。理淑が苦しむ姿がちらりと頭をよぎり、不安で吐きそうになった。


 そんなものを使わせるわけにはいかない。このことを蒼国軍らに知らせなくてはならない。


 範玲は窓から下を覗いた。


 窓から出て屋根を伝い、この鍵のかかった部屋から逃げ出すことができないだろうか。


 正直を言って、範玲は理淑と違って身体的な能力については全く自信がない。逃げ出すどころか落ちてしまう危険性は低くないだろう。

 しかし、窓の下の屋根の思ったより近くに、その下の階の屋根が見えた。下の屋根は重層になっており、上からの距離が近い部分があるのだ。そこに降りれば、範玲でも下の階の部屋に移れないだろうか。


 範玲は唇を噛んでその屋根を見つめた。


 逃げる機会が訪れるのを待つか、逃げる機会を自分で作るか。

 待っている間にその火毬を使われて、沢山の人が死ぬかもしれない。そんなことになったら、悔やんでも悔やみきれない。それに、自分が人質として何らかの交渉材料に使われる可能性だってある。

 ……だったら、選ぶ道は一つしかないのではないか。


 ……決めた。


 範玲は耳飾りに触れ、そして不撓の梅の花弁を握りしめた。花弁から延びる細い光を見て、理淑も朱国軍にいるのかもしれない、と思うと更に決心は固くなった。


 ここから逃げよう。


 まず、耳飾りを外し、部屋の外の様子を探る。扉の外の見張りの他にこの楼閣に人の気配がないことを確かめると、耳飾りを戻した。 

 窓の下に、壁際にあった椅子を移動させて踏み台にする。椅子に上ると、全開にした窓の上側を持って、枠に座るように足を出した。

 裾が邪魔になることを教えるように、裙が風ではためいた。

 外からこちらを見る人がいないことを祈りながら、窓枠をしっかり持って右足から恐る恐る屋根の上に出る。瓦の上で足が滑ったので慌てて座って素足になる。手をついて座ったまま、ゆるゆると屋根の端に移動する。肌触りの良い生地きじは、屋根の上を移動するにはこの上なく不向きだった。布がつるつる滑るのにも耐えないといけない。

 地上からの高さは同じ筈なのに、部屋の中から見るのと、屋根の上から見るのとでは、体感は全く違った。周りに囲いがない状態では、それだけで酷く心細く、恐怖心を煽った。

 屋根の端から、下の階の重層になっている屋根が見えた。

 そろそろとうつ伏せになり、屋根に張り付きながら足を下ろす。足を踏み外して転ぼうものなら、そのまま屋根から落ちることになるだろう。


 怖い。


 範玲は恐怖で声を上げそうになるのを奥歯を噛み締めて押さえ込み、屋根の端を掴んで体重を下の屋根に乗せた。

 足が滑ってひやりとするが、全ての指に力を入れて屋根に張り付く。

 体勢が安定してから、深呼吸をしてそろりと視線を横にずらす。

 窓が見えた。

 範玲は心の中で歓声をあげると、慎重に横方向へ移動した。

 手の握力がなくなって来る。足は震え、力を入れ続けている足の指がりそうだ。


 もう少し。


 ようやくたどり着いた窓に手をかけると、上の階同様に鍵はなく、容易に開いた。開けた窓にまず上半身を入れ、足を引き上げて床に降りようとするが、窓枠に裙を引っ掛けて不格好にずり落ちた。

 上の階の見張りに気付かれてはならない。声を上げそうになるのを抑えることは辛うじてできたが、痛いのととりあえず生きていることに涙が出た。

 心臓が悲鳴をあげ、手はぶるぶると震えて握る力が無くなっている。

 範玲は袖で涙を拭くと、手をついて立ち上がろうとした。しかし、膝が萎えて立ち上がることができなかった。脚を何度もさすりながら深呼吸をする。

 漸く膝が言うことをきいてくれるようになると、窓枠に掴まりながら立ち上がった。

 部屋の奥には階段が見えた。階段の上をそっと仰ぎ見てみるが、見張りに気付かれた様子はない。まさかひ弱そうな女が窓から逃げ出すとは思っていないのだろう。

 念のため耳飾りを外して様子を確認した後、転びそうになる脚と気持ちを叱咤して、音を立てないように階段を下りた。

 そのすぐ下の階は広くなっており、欄干があって物見台のようになっていた。どうやらここでは月見などをするようだ。宴に使うものだろうか、花器や高坏などがある。

 物入れがあったので思いついて物色すると、目当てのものが見つかった。範玲はそれを一緒にあった手巾で包み胸元にしまうと、周りの音に注意をしながら、そろりと階段を下りた。





 月明門では朱国軍の兵士たちが不安げに待機していた。


「門を開けよ」


 門外から武恵が呼ばう。その背後には臙脂色と藍色の甲冑に身を包んだ兵士の大軍勢が控えている。

 この状況を門の上から朱国兵士たちが弓を手に窺う。門を開けろと言われても、他国の兵士達を連れた廃太子となった皇子に応じることはできない。

 羅城の高さは十五尺程あるので、乗り越えることは容易ではない。朱国兵士たちはこの門を開けなければ大丈夫だろうと思っていた。

 そのうち加勢も来る。


 しかし。


 門を守る兵士たちの前に現れたのは、味方の兵士ではなかった。

 徐景成だった。

 その背後には人の群を引き連れていた。しかしこれも兵士ではなく、商人や農夫などの民だった。




 景成は振り返り、自分に従ってくれる群衆を確認すると背筋を伸ばした。


 今から自分がやろうとしていることは、反乱だ。


 それを改めて自分の胸に刻み込んだ。




 豊富だった農作物の収穫が、年々、少しずつだが減ってきていた。収穫が激減したのは一昨年おととしだ。それまで体験したことのない長雨や豪雨で農作物がやられた。景成は農政を担う部署の職員として、何とかしようと武恵とともに色々と試して来たが、結果はどれも芳しくなく、農民たちは困窮する一方となった。

 農耕神である后稷の加護を受けているはずなのにこれはおかしい、と疑問を胸に抱き悶々としていた頃、武恵から愕然とする事実を打ち明けられた。

 さすがに事が重大すぎて他に言うこともできずにいた。

 そんな中、武恵が澄季を毒殺しようとしたという疑いで拘束された。

 王家の浪費の最も目に見える形は澄季だ。景成は一度武恵に、澄季妃を排除するしかないですね、と冗談で言った事がある。しかしその時、武恵は、冗談でもそんな事を言うな、と怖い顔で景成を叱った。武恵にとって澄季は義理であっても母親なのだ。そんな武恵が澄季を毒殺などするはずがないのに。


 武恵が無実の罪で捕らえられると、もうこの国はお終いだ、徳資王は駄目だ。と景成は思った。

 武恵を流刑先へ護送する途中に亡き者とする計画を知って、景成は武恵を助けたら本当は共に他国へ亡命するつもりでいた。しかし、勇亮から武恵の意志を聞いて朱国へ戻った。

 幼い頃から仕えてきた武恵がまだ朱国を見捨てないと言うのならば、それに従うまでだ。

 幸いこの国にも、良心を持った官吏はいる。信頼のできる仲間に極秘で声をかけ、武恵を迎える準備を大急ぎで整えた。同時に、民たちにも声をかけた。普段から民たちと距離の近い景成の話は、案外すんなりと受け入れられた。民達もこれ以上は限界だと感じていたのだ。それに、武恵が民たちのために奔走していたことを知っているというのもあった。

 手はずが整うと、決行の日の前日、普段は都城の外に暮らす農民たちも城門をくぐって、武恵が到着するまで身を潜めて待った。それがこの人数だ。




「その門を開けてもらおうか」


 景成が声をあげた。


「お前……。役人じゃないか。裏切るのか」


 景成の顔を見知っていた兵士の一人が言う。


「もうとっくに免職されている」


 景成が清々とした顔で返す。


「それに、裏切ったのは王だ。もう我々民のことを考えてくれない王は必要ない。このままでは近いうちにこの国は滅びる。朱国を任せられるのはもう武恵様しかいない。だから武恵様をお迎えする」


 高らかに宣言する声に、景成の後ろに従っていた民達が、そうだそうだ、と声をあげた。

 月明門を守る兵士たちは、この押し寄せる群衆の熱に尻込みする。

 そこへ門を守る兵士の中から声があがった。


「私は景成に賛同する」


 城門校尉に指揮を任された副官だった。その表明に兵士達に更に動揺が走る。


「お前たちの中にも、作物の収穫ができず、困窮する家族を持つ者もいるはずだ。そんな時、誰が手を差し伸べてくれたか、よく考えてみろ」


 その言葉に、兵士の中には黙り込んでしまう者もいた。武恵が方々を回って民たちに寄り添っていたのを知っている者たちだろう。

 しかし、一人の兵士から怒鳴り声が上がった。


「裏切り者が!」


 腰に差した剣を抜き、大声で続けた。


「こいつらは皆、綺麗事を言っても謀反人だ! こいつらを始末すれば褒美があるぞ!」


 言いながらその兵士は副官に斬りかかった。それが合図となり、我に返った兵士達も慌てて剣を抜いて群衆に向けた。城壁の上では、本来城外の敵に放たれるはずの矢が内側に向けてつがえられる。

 兵士と民たち群衆の争いは、予想以上に混戦となった。城壁の上では、矢を射ろうにも、敵味方が混在しすぎて狙いを定めることができないでいる。

 集まった群衆が各々手にしている農具や棒切れなどは、本来ならば兵士に敵うはずはない。しかし、副官が景成側についたことにより、統制をとる指揮官のいない兵士達は圧倒的な数で迫る群衆に押された。そして、あろうことか兵士達はからくも敗走することになってしまった。城壁の上で矢を放とうとしていた者達も引きずり下ろされた。

 群衆はときの声をあげると、月明門のかんぬきを引き抜き、重い門扉を開けた。



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