第69話 二年季春 戴勝桑に降りる 6



 閉じ込められた部屋で範玲にできることといえば、自分の耳を使って情報を集めることくらいだった。

 雲起が雪昇に立太子の儀に出るように言い含めているのを聞いた。急に雪昇が積極的になったところから、更真に暗示をかけさせたのだろう。

 東宮の女官たちの会話は、前の皇太子妃は質素だったが、雪昇の婚約者の丞相の長女は派手好きだ、とか、澄季妃の後宮にまた女官が増えた、など逃げ出すにはあまり関係ないことが大半だった。

 休み休み耳飾りを外して周りの音を拾っていると、東宮の外が騒がしくなった。

 意識をそちらに向けると、騒がしく走っている人が何かを叫んでいる。


--紅国が攻めて来た!

--軍はどうした!


 どういうことだろう。


 更に聞こうと意識を集中するが、こちらに向かってくる少し急いだ足音に、慌てて範玲は耳飾りをつける。

 扉が開くと、範玲を蒼国から連れてきた女が入って来た。


「お部屋を移動します」


 女は急いで来た割には、相変わらずの無表情で言った。


「何かあったのですか?」


 範玲が先ほど聞いた騒ぎと関係があるのではないかと聞く。 


「いいえ。何も」


 しかし、女は素っ気なく否定する。


「ついてきてください」


 女の言葉で範玲に少しの期待が芽生える。


 この部屋の外に出られるのならば、隙を見て逃げ出す機会ができるかもしれない。


 しかし、その期待は顔には出さないように注意し、気持ちを抑えるようにむしろゆっくりと立ち上がった。

 すると、開いた扉から兵士が入って来て範玲の背後へ回った。そしてそのまま女に先導されて歩かされた。

 付き添いはその女だけではないのかと、範玲は内心がっかりする。

 女の後について外へ出ると、それまで窓のない部屋にいたため時間の感覚を掴めずにいたが、まだ朝も早い時刻であることがわかった。


 範玲は歩きながらこっそりと周りに目を配った。

 東宮の建物を出ると、左手の方向に大きな門の門楼と思われる建物の天辺が見えた。恐らくあれが宮城の正門なのだろう、とあたりをつける。

 女は門とは反対の方向へ進んだ。建物の間を通り、池と木亭あずまやの横を過ぎ、向かう先には朱色の瓦が眩しい四層の楼閣が建っている。

 女は楼閣へ入ると、範玲を最上階まで登らせた。体力のない範玲が途中で座り込むと、再び立ち上がるまで黙ってじっと待っていた。女のその得体の知れなさは少々不気味でもあった。


「ここでお待ちください」


 範玲を部屋に入れると、女は鍵をかけてから、扉の外に兵士を見張りに残して去って行った。

 外に出られれば逃げられるかもしれないと期待したが、そう甘くはなかった、と範玲は溜息をついた。


 ……いや。

 がっかりしている場合ではない。


 範玲は帯につけた結び飾りから延びる細い光を見つめ、この光の先に必ず帰ることができる、と自分を励ました。

 範玲は気を取り直し、部屋を見回す。今度の部屋は窓はあるが、上層階では容易に逃げられはしない。だからここに移されたのだろう。しかしなぜ急いで移動させたのだろうか。

 窓からの景色には前方右手の方向に宮城の建物たちが広がっていた。東宮から出た時に確認した門も見える。その向こうに皇城らしき建物群、更に門の向こうに街並みが広がっているようだ。ということは、都城の位置関係から推測して、この楼閣は宮城の北東の方向にあるということだ。位置関係がわかっただけでも随分心持ちが違う。

 扉は女が鍵をかけていったので開かなかったが、窓には鍵がなく開けることができた。

 南側の建物の辺りでは人があちらこちらに向かって走っているのが見えた。


 そういえば、先ほど聞こえてきた紅国が攻めてきたというのはどういうことだろうか。


 範玲は再び耳飾りを外した。

 外を走っている者たちに集中して会話に耳を傾ける。風の音にかき消されそうだがなんとか耳に届く。


--何だあの大量の軍勢は!?

--武恵様は朱国を滅ぼすつもりか!

--紅国だけじゃない! 蒼国の旗もあったぞ!


 範玲の鼓動が跳ねた。


 蒼国軍が来ている?


 建物の向こうの方で武装した兵士たちが西側へ向かっているのが見えた。西の方を見るが、宮城の外の様子はよくわからない。

 武恵、というのは朱国の第一皇子だ。皇太子だったはずだが、先ほど聞いた雪昇たちの会話だと廃太子されている。その武恵が、紅国と蒼国の軍と一緒に攻めて来たということだろうか。ここに連れてこられる前、昊尚や英賢、理淑まで忙しそうにしていたのは、このことに関係があったのだろうか。蒼国軍が来たから自分がここへ遠ざけられたということだろうか。

 次々と疑問が湧いて出る。

 そこで範玲がふと気づく。

 蒼国の首都采陽はここ朱国の首都寧豊の北西にある。しかし、今、不撓の梅の花弁から伸びる光は、北西を指していない。それよりも南寄りの方向を指している。しかも一本は全く別の方向を指している。蒼国とは反対側だ。

 不撓の梅の花弁を入れた結び飾りを持っているのは、範玲の他には、昊尚、理淑、佑崔、葛将軍のはずだ。


 もしかして皆朱国に来ているのだろうか。


 鼓動が早まるのを感じながら、範玲は結び飾りから出る細い光を見つめた。





 朱国の徳資王の前に大司馬、丞相、御史大夫ら高官と軍の長官達が召集され、早朝から緊急の会議が開かれた。


「ぶ……武恵様が紅国と蒼国の軍を率いて……月明門に……来ています。副官に命じ、その……兵を向かわせました……!」


 羅城の門を守る部署の長である城門校尉が落ち着きなく焦って報告する。

 開門して間も無く、月明門の櫓で遠くに軍勢がいるのに気づき、門を閉めた。取り急ぎ副官が指揮して兵らを門前に配置した。


「本当に武恵様なのか?」


 軍事の責任者である大司馬が訝しげに問うと、城門校尉が自信なさげに答える。


「私は直接確認していませんが、そう名乗っているようです……」


 指揮をとるべき立場の軍の長たちには、実戦の経験もなく、普段から業務は副官に任せきりで、自身はその名誉だけ享受していた高官の子息が多い。


「偽物ではないのか」

「いえ、……それが……徐勇亮も一緒のようです……」

「一体どういうことだ……」 


 勇猛で名を馳せる禁軍副官の名前を聞いて、大司馬が唸りながら腕を組む。勇亮の上官である光禄勲卿も青い顔でいたたまれないように黙り込む。


「徐勇亮が藍公と一緒に兄上を助けたんですよ」


 いつの間にか入口近くの壁にもたれて様子を眺めていた雲起が冷ややかに口を挟んだ。


「大体貴方がたが中途半端なことをするから、こんなことになったんですよ」


 大司馬の隣で青い顔をしている丞相に視線を投げる。


「今のはどういう意味だ?」


 それまで腕を組んで黙って見守っていた徳資王が背もたれから身を起こす。


「武恵は藍公に拉致されたのではないのか」


 徳資王が雲起を問い質した。


「そこの丞相が兄上を流刑で北へ護送する際に盗賊に襲わせたんですよ。それを藍公と徐氏が助けたんです。本当は」


 雲起が嘲るように返す。


「武恵を殺そうとしたのか」


 王が硬い声で丞相に視線を移して咎めた。


「答えよ」


 一同が丞相を見る。目を伏せていた丞相が開き直ったように顔を上げた。


「武恵様は罪人です。そう最終的に判断を下されたのは陛下です。それに、廃太子された皇子ほど危険なものはありません。我が国を守るために行なったまでです」


 堂々と言ってのける丞相に、徳資王は言葉を無くした。

 武恵を有罪として流刑にすると決めたものの、徳資王は日が経つにつれて後悔の念を抱くようになった。何故武恵を拙速に有罪と判断してしまったのだろうか、と自らの判断に疑問が生まれた。だから、ほとぼりが冷めた頃に呼び戻すつもりであった。


「どっちにしろ、失敗してては意味ないよね。紅国の軍を連れてきたということは、慧喬陛下に泣きついたんだろうね。余計面倒なことになったんだよ。蒼国ならまだしも、紅国を相手にして勝てるはずがないじゃない」


 雲起の冷ややかな言葉に丞相が黙る。室内が重い沈黙で満ちる。


「……そ、それで私はどうしたら……」


 勇亮の上官の光禄勲卿が青い顔で言う。いつも頼りきっていた当の副官が敵側に回ってしまい、思考が停止している。


「蒼国との戦は覚悟していたでしょ?」


 雲起が呆れたように見る。


「し、しかし……」

「まあね、こんなに行動が早かったのは予定外だけどね」


 雲起が苛立ちを隠さない口調で呟いた。

 この混沌とした状況に、大司馬が重々しく口を開いた。


「陛下、武恵様といえども、我が国を他国の軍を以って侵略する意志がおありとなれば、申し訳ありませんが対抗せざるを得ません。どうかご許可ください」


 徳資王は渋面のまま暫く考えていたが、こめかみを揉んで低く言った。


「致し方あるまい」


 王の言葉を確認すると、大司馬は指示を待つ軍の長達に言った。


「攻撃を仕掛けられたら、即座に羅城の外で火毬ばくだんにより叩く。月明門に火毬を運び入れよ!」


 その大司馬の言葉が合図であったように、酷く慌てた様子の兵士が飛び込んできた。


「げ、月明門が破られましたっ!」

「……そんな……!」


 城門校尉が絶望の声をあげて青くなる。副官は優れた武官のはずですが、と震える声で言う。

 雲起は舌打ちをすると言った。


「あーあ。本当は城壁の外で使うつもりで用意したんだけどな。間に合わなかったね。仕方ない。火毬ばくだんは陽豊門で使う? あそこなら広いから使えるでしょ」


 雲起の言葉に大司馬が眉間に皺を寄せて頷き、武器庫の管理をしている執金吾に火毬の運び入れ先の変更を指示した。そして衛尉卿と城門校尉に怒鳴った。


「お前たちは陽豊門前に敵軍を追い込め!」

「あの火毬、砒霜どく入りだから一応人を避難させておいた方がいいかもね」


 大声を出す大司馬を横目で見ると、雲起があまり興味のなさそうな声で付け足す。


「宮城の中には入れないようにしてよ」


 その場にぼけっと突っ立っている光禄勲卿に冷たく言うと、「ほんっと、肩書き持ちばっかりで役に立たないな」と呟き、雲起はその場を後にした。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る