第68話 二年季春 戴勝に桑降りる 5

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 気がつくと、範玲は元のままながいすの上にいた。


 夢なら良かったのに……とぼんやりする頭で考える。


 部屋にいるのは範玲だけのようだが、念のため様子を窺う。誰もいないことを確認して、体を起こした。

 範玲は自分の状態を確認した。


 耳飾りは両耳とも付いている。着衣は元のままで不撓の梅の結び飾りもちゃんとある。


 気を失う前と変わりないことに安堵する。

 身体の節々は相変わらず痛いが、動かないことはない。

 範玲は、恐る恐る榻から降りて戸に手をかける。しかし予想通り鍵がかけられているのか開かなかった。それにこの部屋には窓もない。

 一人こんなところに連れてこられて、逃げ出すすべもない。

 心配する昊尚や英賢たちの顔が不意に浮かび、涙が溢れる。


 駄目だ。

 今は泣いている場合じゃない。泣いたって何も解決しない。自分で何とかしないと。


 範玲は両手で目を覆うと、涙を払い頬をぺしぺしとはたく。震えている指先で玄亀の耳飾りに触れた。


 昊尚が付いていてくれる。


 そして不撓の梅の結び飾りを握りしめる。


 自分が朱国にいることは、昊尚ならきっと気づいているだろう。

 どうしたらいいのか考えないと。


 範玲は大きく息を吸うと、それを長く吐いて自分を落ち着かせた。


 雲起の目的は何か。自分を言いなりにさせて耳を自由に使いたいようだ。おまけにゆくゆくは蒼国を手に入れるつもりのように聞こえた。

 自分を思いどおりに使うために、古利__更真を使って自分に暗示をかけるつもりだ。

 じゃあ、それを防ぐにはどうしたらいいのか。

 ……昊尚にもらった、五つ目のこの右の耳飾りを絶対に手放してはいけない。


 範玲は右の耳飾りに触れたまま考えた。


 そもそも雲起は自分の耳のことをどの程度知っているのだろう。玄亀の耳飾りのことは知っているのか。

 取り敢えず、更真に暗示をかけられた振りをして様子を窺うののが最善なのではないか。それで逃げる隙を窺う。

 自分の判断が正しいのかは確信が持てない。しかし、絶対に本当に暗示をかけられて、我を忘れてしまうことを避けないといけないことは確かだ。

 それだけは。


 範玲は上がって来た脈拍を、深呼吸をして落ち着かせる。


 まずは状況を把握することが必要だ。兵法の書でも情報収集が重要だと言っている。


 範玲はゆっくりと耳飾りを外した。

 部屋の中は静かだが、部屋の外は意外と音が多い。耳が慣れるまで耐える。

 女官が多いのだろうか。少し高い声があちこちで聞こえた。


--……雪昇様。落ち着いてください。


 焦った女性の声が耳に入ってきた。

 "雪昇"というのは、澄季の長男、第二皇子の名前だったはずだ、と思い出すと、範玲はその部屋の音を拾うことにして意識を集中させる。


--お前たちも何故東宮に移っている。私は皇太子になどならない。私に王は無理だ。

--しかし、もう武恵様は……。

--あの兄上が母上に毒を盛るなんてことをするわけがないだろう……! あれはきっと……。


 激昂した声が何かに気づいたように途切れる。


--大きな声を出さないでください。……で、兄上、きっと、なんですか?


 雲起の声だ。その問いに雪昇の返事はない。


--貴方が皇太子になることは決まったことです。諦めて朱国王を継いでください。


 機嫌の良さそうな声だ。しかしきっと、目は笑ってなどいないに違いない。その冷たい眼差しを思い出し、範玲は身震いする。


--明後日には式が行われます。皇太子になることをちゃんと受け入れてくださいね。


 この会話によると、元の皇太子が廃太子され、第二皇子の雪昇が新しい皇太子になる予定だということだ。そんな事態になっていたことに範玲は驚く。


 そしてここは東宮なのだろう。ここが皇太子の起居する東宮ならば、宮城の中だ。


 別の部屋の様子を聞こうと、意識を集中させようとした時、足音がこちらに向かって来るのに気がついた。耳飾りを付け直し、榻に元のとおり伏せる。

 ガチャリという音がした後に扉が開いた。


「……まだ起きていないのか……」


 入って来たのは二人。聞こえた声は雲起のものだ。そのまま範玲のいる榻の前に立った。

 目を瞑っていても雲起に見られていることを感じて、瞼が震えそうになる。

 榻が少し軋む音を立てた。頭のそばで雲起の気配がする。範玲が横になっている榻に腰掛けたのだろうか。

 不安とともに恐怖がじわじわと湧き上がってくる。


 そこへ、不意に髪に触れられた気配を感じた。


 範玲は耐えきれず跳ね起きた。


「起きてたんだね?」


 冷ややかな笑顔で雲起が範玲を見る。

 範玲は榻から降りると、雲起とできるだけ距離を取って無言で睨んだ。


「何か食べたら? 温かいものを運ばせよう」


 駒として丁重に扱うつもりなのかもしれない。しかし、そう言われてもとても食べ物が喉を通る気はしない。


「君の耳はどのくらい聞こえるの?」


 更に雲起が声をかけるが、範玲は答えない。


「蒼国で珠李の声が聞こえたんでしょ? かなり距離が離れていても聞こえるんじゃない?」


 範玲は雲起と目を合わせないように顔を背ける。


「仕方ないな。やっぱり更真に教育してもらわないといけないね」


 冷たさを増した目で範玲を見ると、一緒に入って来ていた更真を近くに呼んだ。

 更真の感情のない目と相対すると、以前手を掴まれた時のことを思い出し、範玲のこめかみが冷たくなる。背中にも冷たいものが伝う。


「じゃあ、更真、お願いするよ。この県主ひめに言うことを聞かせて。あるじは私だと教えてあげて」


 榻に腰掛けたまま雲起が楽しげに言った。


「来ないで」


 範玲は更真を睨むが、更真にも全く響かない。感情の見えない無機質な目をして、ゆっくりと範玲に迫る。

 更真から遠ざかろうと移動すると机にぶつかる。手当たり次第に机の上のものを投げつけるが、気にする様子もなく近づいてくる。


 怖い。


 身体の中から湧き上がる恐怖に髪が逆立つ思いがする。

 暗示にかかった振りをしようと決めていたのに、実際にこのように目の前に迫って来られると、うまくできる自信など吹き飛んでしまった。

 投げるものが無くなり、壁際に追い詰められた範玲の腕を更真が掴んだ。


 ……!


 範玲は強く目を瞑って息を止めた。


 ……。


 しかし、範玲の腕を掴んでいる更真の掌からは何も流れ込んで来なかった。

 以前、同じように腕を掴まれた時は、怒涛のように黒く渦巻く憎悪と、"古利を逃がさなくてはならない"という考えが流れ込み、押し付けられた。

 しかし、今は何も感じない。更真に掴まれた部分が少し痛むくらいだ。


 ……そうだ。

 ……耳飾りのおかげだ。


 昊尚が命を落としそうな程の怪我を負ってまで作ってくれた玄亀の耳飾りが、範玲を守ってくれている。


 そう思うとじわりと涙が溢れそうになる。


 いけない。落ち着け。

 更真の暗示が範玲には効かないということを悟られてはいけない。

 どうする。

 ……。


 範玲はぎゅっと瞑っていた目元を緩め、そしてゆっくりとまなこを開いた。


 自分の鼓動の音が耳にうるさい。悟られてはだめだ。


 範玲はゆっくり開けた瞳を雲起に向け、更真の手を払う。

 雲起は面白そうに範玲を見ている。

 範玲は自分の意思を心の奥底に隠す。雲起に目線を合わせるが、その瞳は眼裏まなうらに映る昊尚を見つめる。

 昊尚のことを想って潤んだ碧玉色の瞳が雲起に向けられる。


「範玲」


 雲起が範玲の名を呼んだ。

 その呼びかけに、ついぞくりと嫌悪感が顔を出しそうになる。


 駄目。表に出しては駄目。


 範玲は昊尚のことを考えてやり過ごす。


「どのくらい聞こえるの?」


 雲起が範玲に聞いた。


「……三つ程向こうの部屋の声は聞くことができます」


 実際にはもっと遠くの音も拾うことができるが、本当のことを言う必要はない。


「すごいね」


 やっぱり雲起は範玲の耳がどれ程なのかはよく知らないようだ。


「ただ、遠くの音を聞くのは嫌いです。疲れます」


 範玲が雲起を見つめながら__本当は見てなどいないが__言うと雲起は、ふうん、と眉を上げた。


「自ら聞こうとするとあらゆる音が大きく聞こえます。雑音が多くてあまり聞きたくはありません」

「どうやって聞くの? やって見せて」


 雲起が身を乗り出す。

 範玲は音を立てないようにと言うと、雲起に背を向けて耳を押さえて俯いてうずくまった。見られないように、丁度ほどけている髪で顔が隠れるようにしてこっそりと耳飾りを外す。

 意識を三つ隣の部屋に向ける。先ほど聞いた雪昇のいた部屋だ。


--やはり、立太子の儀には出ない

--雪昇様……。でも……。


 先ほどと同じ雪昇と女性の声を拾う。


--皇太子には雲起がなればいい。私には無理だ。


 会話では一貫して雪昇は皇太子になるのを嫌がっている。もう少し聞いてみたいと思ったが、あまり集中すると本当に気分が悪くなるのでやめておいた。

 耳飾りを気づかれないように元に戻し、ぐったりと疲れて見えるように手をつく。


 顔色は青いはず。少しだけど消耗したのは本当だ。


「何が聞こえた?」


 雲起が範玲の顔色など気にする風もなく、興味深そうに尋ねる。範玲は耳にした会話を知らせた。


「確かに、ここから三つ向こうの部屋は兄上のだ。それに、あの人が言ってそうな内容だね」


 雲起は満足げに口の端を上げると、「……それにしても、あの人は本当に往生際が悪いな……。ちょっと話をしてこようかな」と、更真を呼んで戸口へ向かった。


「また頼むよ」


 雲起は振り向いて微笑むと、更真を連れて上機嫌で部屋を出て行った。

 雲起がいなくなると、範玲はぺたりと床に座り込んだ。

 じっとりと汗が滲んだ手を見ながら、大きく息を吐く。ようやく正常に呼吸ができたような気がした。

 取り敢えず最初の危機を免れた。でも、次もうまくいくとは限らない。いつまでもこんなことはしていられない。早くここから逃げないと。

 範玲は不撓の梅の結び飾りを握りしめた。



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