第65話 二年季春 戴勝桑に降りる 2


 武恵らを連れて紅国へ戻った大雅が、月季を伴い再び蒼国を訪れた。

 大雅はいつもの軽装ではなく、紅国の国色の袍を身につけている。月季は紅国の禁軍の制服を纏っていた。


「今回は、正式な使者として来ました」


 普段の朗らかさが影を潜めた厳かな声で、玉座の壮哲へと紅国王からの親書を差し出した。

 慧喬からの親書は、紅国が武恵の支援をすること、そして蒼国にも協力を請うという内容だった。最後に、朱国を滅するためではなく、朱国を救うために是非力を貸して欲しい、と添えられていた。

 兵力ならば紅国のものだけで事足りる。実を言えば既に整っている。以前からの朱国の情勢を鑑み、武恵からいつ支援の要請がきても対応できるように備えはしてあった。更に、先日朱国で文陽が収集してきた情報から、その日も近いと予測していた。

 しかし、慧喬は朱国のこの先を考慮し、紅国だけではなく周辺国が武恵を支援するという形を選んだ。蒼国以外に、翠国と墨国にも親書を送っている。ただし、かの二国へは、これまでの朱国の関係性から出兵の要請は求めず、武恵への支援の合意書を得ることにしたという。

 壮哲が親書に目を通したのを確認すると、大雅が慧喬の意を補足する。そして、少しの沈黙の後、大雅が静かに続けた。


「朱国はもう抜き差しならない状態になっているようです」


 大雅は武恵が紅国で慧喬に話した内容を語り始めた。





 朱国は農耕神である后稷の加護を受け、肥沃な国土で育つ農作物が国を支えていた。加護を与えてくれる后稷を祀るのは王家の最も重要な責務であり、武恵も皇太子として関わってきた。

 ところが、二年程前、后稷の立像の安置されているへやの扉を解放することが王により禁止された。皇太子である武恵ですら、后稷像のあるへやへの立ち入りを禁じられた。后稷が王の夢枕に立ち、今後は王の立ち入りのみを許可すると告げたからだという。突然のことで戸惑いは拭えなかったが、神勅であれば従わざるを得なかった。


 その年、これまで体験したことのない長雨や豪雨に見舞われた。


 神勅といい、大量の雨といい、后稷の不興を買ってしまったのかと、室へは入ることができなかったが、武恵はこれまで以上に真摯に祈った。

 結局、その年の収穫はかつてないほどに減少した。しかしまだ、それまでの蓄えがあったため、民もとりあえず乗り切ることはできた。次の年はこれまでどおりの収穫ができると信じて耐えた。

 ところが次の年も前年と同じく、時折不安定な天候に見舞われた。これまでのような恵まれた環境には戻る兆しがなかった。

 そこで、武恵は景成らと郷を回り状況を聞き取り、水害に備えた護岸や暗渠あんきょの工事、天候に左右されにくい作物の調査、採用など必要な措置を講じる努力に力を注いだ。

 しかし、そんな努力も虚しく、これまでは当たり前だった十分な日照時間や適切な降雨量も思うように得られず、育った作物もその品質は以前と比べて格段に劣ったものとなった。

 初めの頃は、王も武恵の行う対応策に耳を傾け支援していたが、次第におざなりになって来た。


「そのようなことをしても無駄だ。それよりも農業とは別の産業で収入を得られるよう検討せよ」


 王のその言葉に、武恵が自分が何か見当違いなことをしていると察した。

 武恵が詰め寄り、懇願すると、王は深い溜息をついて、武恵を后稷を祀る宮に連れて行った。

 それまで固く閉ざされていた后稷像を安置する室の扉が開かれた。しかし、そこにはあるはずの立像がなかった。


「どういうことですか……」


 武恵は愕然とした。

 王は、その時から遡ること一年半程前の、朝の祈請きせいの儀に起ったことを語り始めた。





 后稷への朝の祈請の儀は王家としての毎日の義務である。王と王妃が専らその任にあたる。

 その日もいつものように祈請を行うはずだった。

 澄季は決められた時刻に姿を現したが、よく眠れなかったのか、体調が思わしくないのか、殊更に苛々していた。

 澄季は数年前から身体の不調を訴えていた。医師に見せても薬を飲んでも改善はされず、眠れない、手足が痺れる、目眩がするなどの身体の症状に加え、理由もなく苛立ったりといった様子が目立つようになった。それを紛らわせるように益々浪費が激しくなっていた。

 この時の澄季は、苛立ちを隠そうとせず、大きく溜息をついてみせながら、扇で自分の裙を叩いたり不満な態度を露わにしていた。


「后稷様の御前だ。御無礼の無いようにしなさい」


 徳資王の言葉に、その美しく整えられた眉を吊り上げると、手が白くなるほど扇を握りながら澄季が声を荒げた。


「……全く、どうしてこのわたくしがこんなことをしなくちゃいけないの……! 毎朝、毎朝、何年も何年も同じことばかり! もう我慢できないわ! 祈ったところで米とか芋とかばかりで大したものなんか取れやしないじゃないの。青玉でも採れるならまだしも! ああ、もううんざり!」


 溜め込んでいた言葉を放つと、握りしめていた扇を后稷像に向かって投げつけた。投げた扇は后稷像の脚部に当たった。


「澄季!」


 徳資王が青ざめ、立像に近寄り無事を確認する。立像にはどこも損傷したところはなく、胸を撫で下ろした。扇を神像に向かって投げるなどという行為に、流石に後悔し焦っているだろうと澄季に振り向いたが、そこにその姿は既になかった。

 徳資王は大きく溜息をつくと、その日は一人で祈請きせいの儀を終えた。


 翌朝、澄季は后稷の宮へ現れなかった。呼びにやると、具合が悪く朝の祈請には行けないという返事が返ってきた。無理やり連れて来てまた昨日のような態度をとられるよりは、と徳資王一人で祈請きせいの儀を行った。

 その日、祈請の際に徳資王はどこか違和感を感じた。しかし、その違和感の正体がわからないままその日は祈請を終えた。

 翌朝の祈請きせいにも澄季は現れなかった。どうしたものかと后稷像に目を移すと、前日に感じた違和感の正体が判明した。


 ほんの少しだが、后稷の立像の頭頂が消えていたのだ。


 徳資王は慌てて立像の間近へ寄ると食い入るようにその頭頂を見上げた。欠けている部分は、ほのかに透けて向こう側が見える。

 恐ろしさに戦慄わななきながら、徳資王はいつもより念入りに祈請の儀を行なった。


 何かの間違いだ。明日には戻るに違いない、そう信じて祈った。


 しかし、翌日もその欠けた部分は戻ることもなく、その範囲が大きくなっているように感じた。最早澄季が祈請きせいに来ないことなど重要な問題ではなくなっていた。むしろ下手に来られて澄季に知られ、騒がれる方が面倒だった。


 徳資王は后稷の立像を安置してある室の扉を閉め、何者も立ち入ることを禁じた。


 恐らく一時的なことだ。もし万が一、仮に、立像が消えたところで、后稷様がいなくなる訳ではない。これまでずっと朱国を見守ってくださったのだ。きっとお守りいただける。


 そう自身に言い聞かせてその恐怖を誤魔化した。

 しかし、一月ひとつき後には、后稷像の頭部が消えてなくなってしまった。

 立像はその後も胸部、腹部と順に消えていった。

 半年程経った頃、安置されていた后稷の立像は、すっかり消えてしまった。


 それから間もなく、しとしとと降り注ぐ雨が何日も続いた。そして、止んだと思ったら、今度は激しい雨に見舞われた。

 その長雨と豪雨で、せっかく実った農作物の多くが収穫できずに終わった。また、無事に収穫できたものも、前年に比べて質の良いものは少なかった。

 その報告を受け、徳資王は朱国が后稷の加護を失ったことを嫌が応にも認めざるを得なかった。

 あるじのいなくなった宮に立つと、改めてその事実をひしひしと感じた。

 加護あってこその王家だ。后稷の加護を失ったとなると王の座にある理由がない。朱国はもうお終いなのだろうか。

 そう考えると、徳資王は誰にもその事実を告げることができなかった。





 王の言葉を武恵は愕然として聞いた。そして全ての疑問が符合した。


 后稷像が消えてしまったという時期と、状況が急に崩れ始めた時期が重なる。

 まさか加護を失っていたとは。


 この続く不作は加護を失った影響が覿面てきめんに現れたということだったのだ。

 天候の変化に強い作物を植えたり、水害に備えて設備を整えたり、なんとかしようと足掻いたことも、加護を失った国には焼け石に水だったのだ。この状況を見ると、加護を失ったどころか、怒りを買ったのではないかとすら思われる。


「后稷様の御加護を失った原因は……」


 武恵の震える声での問いに王は諦めの混じった声で答えた。


「加護を失う理由は一つ。誓約を破った時だ」


 この誓約とは、后稷の加護を得る際に誓った、民のことを第一に考え、民に尽くすというものだ。

 それを聞いて武恵の中で、無意識に無理やり心の隅に追いやっていた、やはりそうかという思いが頭をもたげた。以前から漠然と抱いていた不安が現実のものになったのだ。

 民から徴収した税は、民のために使うべきものだ。しかし、長く続いた安寧で、高官の中には自身の懐を肥やすことに熱心な者が増え、王家が必要以上の贅沢のために浪費することにも鈍感になってしてしまっていた。豊かな収穫は、加護のもと、民達が地道に努力した結果であるのに、その上に無頓着に胡座をかいて来たのだ。

 大きな変化ではなかったが、徐々に収穫が減少してきたことには気づいていた。それなのに何ら改めることもせず、ずるずるとその状況に甘んじていたことを今更ながら悔いる。皇太子の座にありながら、目を瞑り続けていた自身の責任に武恵は目眩を感じた。

 澄季が扇を后稷像に投げつけたのは、きっかけに過ぎない。全てそれまでの蓄積なのだ。


「……民のことを第一に考えて尽くせば、后稷様は再び御加護をくださるではないですか」


 しかし、簡単なことではないだろう。それまでは何とか国を存続させなくてはならない。浪費などしている場合ではない。

 武恵は王にすがりついた。


「まずは我が王家から姿勢を正していかなくてはなりません。父上、民のために、義母上の浪費をやめていただいてください」


 しかし、王は黙したままだ。


「父上!」

「もう后稷様から御加護をいただくのは難しいだろう。……それよりも、朱国が農業ではない方法で国をたてる方法を探すのだ」


 王は頑として譲らない。武恵の願いは虚しく響くのみだった。

 それ以降、武恵は何度も王に訴え、澄季にも直接、浪費を控えるように懇願した。いつからか王は武恵の言葉に全く耳を貸さなくなってしまっていたが、それでも進言し続けた。

 しかし、その結果は、武恵が澄季を毒殺しようとした、という無実の罪であった。



 こんなことならば、本当に弑してしまった方が良かったのでしょうか、と武恵は震える声で呟いた。





 話を聞き終わった壮哲始めその場にいた者は、しばらく言葉を発することができなかった。


「……なんということだ」


 漸く出て来た壮哲の言葉もやりきれない思いのみだ。


「加護を失っていたのか……」


 再びの沈黙の後、壮哲が顔を上げ大雅に問う。


「武恵殿が朱国の王を継いだとしても……元に戻る保証はない。それでも、武恵殿は朱国に戻られる覚悟なのだな」


 壮哲の言葉に大雅が頷く。


「わかった。蒼国もできる限りのことをしよう」


 壮哲が息を吐き、重々しく告げた。



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