第66話 二年季春 戴勝桑に降りる 3

**


 いつものとおり史館では黙々と作業が続けられていた。

 執務時間の終わりまであと半刻はんとき程となった頃、戸口から音を耳にして範玲が目線を移すと、見たことのある門番が顔を覗かせていた。


「陶志敬様ってどなたですか?」


 入口に立って門番がきょろきょろしながら声をかけた。


「……私ですが……?」


 急に名前を呼ばれた志敬が目を丸くして顔を上げる。


「これ、預かってきたんですけど……」


 門番がそう言って戸口で見せたのは結び文だった。


「何だ? 恋文か?」


 順貴が珍しく戯けた口調で首を伸ばす。


「誰からですか?」


 志敬が席を立って受け取り、不思議そうにその結び文を裏返したりしながら門番に聞く。


「すみません。自分は丁度退勤の時間だったので、代わりに持ってきただけでその辺はわかりません。預かった者はまだ勤務していますので……」


 気の良さそうな門番は済まなそうに答え、では、と帰って行った。

 志敬は訝しみながら文をほどく。

 広げると、何かがさらりと落ちた。びっくりしてそれを見つめ、そして、慌てて文に目を戻す志敬の顔色が変わった。


「どうした」


 ただ事ではない志敬の様子に、順貴が真顔に戻る。


「……珠李が……」


 文には、珠李をしばらく預かる、とだけ書いてあった。

 広げた文から落ちたものは、麻糸で結ばれた一房の髪の毛だった。濃い茶色の真っ直ぐな細い髪だ。


「これ……珠李殿の?」


 順貴が落ちた髪を拾いながら言う。


「……色は似ている気もするけどわからない……」


 志敬は順貴から髪を受け取り、呆然としたままそれを見つめる。


「……今日は休みで家にいるはずだけど……。ちょっとごめん、家に帰る」


 文と髪を握りしめたまま、足取りも覚束ない志敬が青い顔をして慌てて部屋を出て行った。


「私も行く」


 順貴が後を追う。戸口で振り向いて、範玲と正宗に、尚食に珠李がいないか確認することと金吾衛に知らせることを言い置いて出て行った。


「では、私が珠李殿が出勤していないか確認に行きます。ついでに兄にも知らせてきます」


 範玲は尚食を引き受け、正宗は金吾衛へ知らせに行くことになった。


 一人では出歩かないようにと言われているが、宮城内ならば大丈夫だろう。それに、今は珠李の方が心配だ。


 範玲は、以前昊尚と一緒に行った尚食の控え室へと急いだ。


 珠李は拉致されたのだろうか。無事だろうか。


 ざわざわとする気持ちとともに尚食の執務室に着くと、部屋には以前来た時に見た若い女官が一人いた。突然現れた夏家の県主ひめに驚いている。


「ごめんなさい、突然。珠李殿はいますか?」


 説明するのももどかしく、室内に視線を走らせながら聞く。見る限り珠李はそこには居ないようだ。

 範玲の慌てた様子に気圧けおされながら女官が言う。


「……珠李は、今日はお休みですが……」

「今日は姿を見ていないんですね?」

「はい。見ていません……」

「ありがとうございます」


 範玲は礼を言うと、英賢の執務室へ向かおうと尚食の控え室を出たところで、ふと結び文を受け取ったという門番はどうしただろう、と思い至る。

 文を預けた人物について知っているのは彼だけだ。一緒に連れて行った方が良いだろう。確か、先程来たのは皇城の東側の真義門の門番だったはずだ。

 範玲は英賢の元へ行く前に真義門へと向かうことにした。



 真義門に着くと、若い門番が立っていたので、声をかけた。


「先程、史館の陶志敬殿への文を受け取ったのは貴方ですか?」

「……そうですが……」


 急に声をかけられて門番が身構える。


「突然ごめんなさい。陶志敬殿と同じ史館の者です。文を渡したのはどんな人物でしたか?」


 範玲が焦りながら聞くと、門番は戸惑いながらも記憶をさかのぼらせる。


「……若い女性でした。顔は……どうだったかな。……申し訳ありません。よく覚えていません。……多分あっちの方から来たと思うんですけど……」


 門番が真義門から出て指差した方向は、花街などのある繁華街である。

 人を隠すためには賑やかな方が適した場所にも思われた。

 範玲は一瞬迷ったが、門の陰に隠れると、深呼吸をして耳飾りを外した。何か手がかりがあるかもしれない。

 耳飾りを外した途端、例の如く音の波が押し寄せる。まだ人の流れが多い。その音の波に呑み込まれないように深呼吸しながら耐える。人の動く音、人を呼び込む声、扉の開く音、閉まる音、物のぶつかる音、ざわざわと雑多な音を掻き分けながら意識を北へ向かわせる。

 その中に、かすかに聞き覚えのある声があった。


--離してったら! だから、あなた誰なの!?


 あれは珠李の声だ。自分を拉致した人物に食ってかかっているのだろうか。

 髪を切って送りつけるなんて、普通の人間ではない。怪我をさせられても不思議はない。早く助けないと。


 焦りのせいか、耳飾りを外して集中したせいか、動悸がして手が震える。もどかしく耳飾りを付け直すと、範玲はその方向へ走っていた。

 ちら、と昊尚の眉根を寄せた顔が浮かぶ。


 場所だけ。場所だけ確認したら、すぐ引き返します。そして兄上に知らせるから。


 範玲は珠李の声の聞こえた方向へと向かった。  


 



**




 

 ガタガタと耳障りな音と振動が直接頭に響いている。

 頭が酷く痛む。おまけに、時々体が跳ねてあちこちが硬いものにぶつかる。

 範玲が重い瞼をこじ開けると、薄暗い中、見慣れない近い天井が映った。


 ここは、どこだろう。

 動いている? ……馬車……?


 戻って来た意識の中でぼんやりと考える。


 なに、これ。


 目に入った自分の腕は手首が縄で縛られていた。足も動かない。


 ……そうだ。珠李殿……。


 範玲は珠李を探していたことを思い出す。


 一体何が起きたんだろうか。


 考えがあちこちして全くまとまらない。


「お目覚めですね。夏家の県主ひめ様。ご気分はいかがですか」


 聞こえてきた声に思わずぎくりとする。

 そろりと目線を横に向けると、若い女が無表情でこちらを見ていた。


「……誰?」


 範玲の問いには答えるつもりはないようで、じろじろと無遠慮な視線で範玲を点検する。


「大丈夫そうですね。手荒な事をして申し訳ありませんでした」


 勝手に判じていかにも形だけの謝罪の言葉を口にした。それにより、この若い女が範玲の今の状況を作り出しているということは理解できた。


「……そう思うのだったら、せめてこの縄を解いて」


 精一杯の抵抗として声を絞り出してみたが、「今はそれは出来かねます」と、眉一つ動かさず抑揚のない声で返された。

 その女は範玲のことを知っているようだ。しかし、記憶力に優れた範玲であるが、その顔に見覚えはない。目や鼻や口、それぞれ整っているが、それらを組み合わせた顔の特徴を述べることができない。どんな人だったかと聞かれたら、若い女性、と表現するのが精一杯だろう。

 志敬宛ての文を受け取った門番が、それを預けた女の顔を覚えていなかったのを思い出す。


「……貴女が志敬殿に文を送ったの……?」


 その問いにも無表情に範玲に視線を返しただけだったが、肯定と受け取る。

 範玲はこめかみの奥が冷たくなるのを感じ、激しい後悔に襲われる。

 今自分がこうして拘束されているということは、あの文は珠李を囮にして自分をおびき出すためのものだったのだろう。


「……珠李殿は? 無事?」


 女の反応のなさに、無駄かもしれないと思いつつも、せめて珠李の無事だけは確認したかった。珠李の居所を確認しようと繁華街へ向かい、一軒の酒楼の前へ行きついたところまでは覚えているが、その後の記憶がない。珠李の姿を確認していないのだ。


「あの女は騒々しいので置いてきました。……まあ、そのおかげで、県主ひめ様に早く気づいていただけたようですが。手間が省けました」


 ちらりと視線を寄越して女が淡々と言う。

 やはり自分を捕まえるためだった、と範玲が唇を噛む。まんまとそれに引っかかってしまった自分に腹が立った。珠李は無事そうなのがわかったのが、せめてもの救いだ。

 ただ、状況がすこぶる悪いということは変わらない。


「何処へ行くの?」

「……そのうちわかります」


 女はそう言ったきり、一切の質問は受け付けないという意志の見えない壁を作り前を向いた。

 先日昊尚が、雲起の目当ては範玲だと言っていた。これは雲起が指図していることなのだろうか。


「朱国?」


 範玲の言葉が全く耳に届いていないように、女はじっと前を向いたまま反応しない。


 どうしてこんなことになってしまったのか。


 昊尚の顔が浮かび、目の奥が痛くなってじわりと涙が滲む。


 珠李を見つけようとして勝手なことをしたからだ。一人で行動しないようにと、昊尚や英賢にあんなに言われていたのに。


 自分の愚かさに死にたくなる。

 涙が溢れそうになるが、ここで泣いても何の解決にも繋がらない、と範玲は自分に言い聞かせた。

 この状態では文字どおり手も足も出ない。騒いでも体力を無駄に使うだけだ。好機を逃すことがないように、今は様子を見るしかないのだろうか。

 馬車の座面から伝わってくる振動は、どんどん蒼国から遠ざかっている証に他ならず、範玲を益々暗澹とした気持ちにさせた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る