第64話 二年季春 戴勝桑に降りる 1



 今夜の月は丸いはずだが雲に隠れていてその姿は見えない。昼間は丁度心地よい陽気だったが、夜になると少し肌寒くなった。

 範玲は落ち着かない気分で中庭の池のほとりのいつもの場所に座っている。


 一昨日、理淑たちが朱国から帰ってきた。

 理淑から朱国であったことを聞いて、範玲は胸が潰れるかと思うほど驚いたが、佑崔や昊尚たちが理淑を守ってくれたことに心から感謝した。

 昨日は理淑と西内苑の不撓の梅の元へ行った。不撓の梅の声が聞こえることはなかったが、事の顛末を伝え、理淑たちが無事だったのはもらった花弁のおかげだと礼を言って来た。

 昊尚が理淑たちより遅れて帰国すると聞いて少し心配したが、昨日の夕方、無事に帰ってきたとのことで胸を撫で下ろした。しかし、何やら宮城内が非常に取り込んでいるようで、今日も範玲は昊尚の顔を見ることはできなかった。

 英賢もまだ宮城から帰ってきていない。理淑が一度慌てて来ると、昊尚からの、「今夜少しだけ顔を見に行く」という伝言をくれた。その理淑もまた宮城へ戻っていった。


 忙しいのだったら無理はしないでほしい、と理淑に言付けを頼んだが、本音のところは、昊尚の顔が見られるのはただただ嬉しい。


 そう思ってしまう自分を範玲は反省する。


 ゆるい風が範玲の頬を撫でる。心地よく感じながら、月が雲からゆっくりと顔を出してくるのを眺めていると、中庭をやってくる足音を聞いた。範玲が振り向くと、昊尚が歩いてくるところだった。

 範玲は立ち上がると、待ちきれず昊尚の方へ歩み寄った。


「ただいま」


 昊尚が優しい深い声で言う。声を聞いて範玲の胸がきゅっとつまった。

 顔を出した月の明かりで昊尚の姿が見えた。疲れた顔をしているが、範玲に目を細めて微笑んだ無事な姿にほっとする。


「お帰りなさい」


 きっと今、緩みきった顔をしていると自覚しながら、範玲が言うと、昊尚が立ち止まって両手を広げた。


 え? え? どうせよと?


 範玲が固まっていると、昊尚が三歩近寄り、範玲を腕の中に囲った。


「抱きついてきて欲しかったんだけど」

「……むむ、無理ですっ……」


 範玲が焦って言うと、昊尚が笑いを堪えている振動が伝わってきて、揶揄からかわれたのに気づく。

 昊尚は笑いを堪えている間中、範玲を腕の中に留め、それが収まると腕を解いた。昊尚が笑みを残した顔で範玲を見る。

 口を尖らせている範玲に、ごめんごめん、と言いながら、手近な石に座るよう促し、昊尚も並んで腰掛けた。


「朱国での話は聞いた?」


 池の水に映った丸い月を見ながら、昊尚の問いかけに範玲が頷く。


「すまない。理淑殿を危険な目に合わせてしまって」


 昊尚が申し訳なさそうに謝った。


「いえ、そんな。ちゃんと助けてくださったのだし、理淑も自分が玄亀の耳飾りを着けていればあんなことにならなかったって」

「君にもらった不撓の梅の花弁がなかったら、どうなっていたかと思うと冷や汗が出る。英賢殿にも散々嫌味を言われた」


 佑崔が付いていたので、何とかはなっただろうが、不撓の梅の花弁のおかげで大事に至る前に助けることができたのは幸運だった。


「君は不撓の梅を持ってる?」


 昊尚がふと聞いた。


「はい。兄上に持っているようにと言われたので」

「そうか。よかった。どんな時も必ず身につけておいて」


 昊尚が真面目な顔で範玲を覗き込む。


「雲起の目当てはやはり君だった。とても諦めるとは思えないんだ。絶対に一人で出歩かないように」


 範玲はこくりと頷く。それを確認すると、昊尚が目元を緩めた。


「……まだ宮城へ戻らないといけない」


 昊尚が珍しく残念そうな声を出した。そんなに忙しいのにわざわざ来てくれたことが申し訳なくて、範玲が慌てて口走る。


「お忙しいところお越しいただきありがとうございました」

「何だ、その言い方」


 立ち上がりながら昊尚が吹き出す。

 昊尚は一緒に立ち上がった範玲に向かい合うと、範玲の肩に垂らした髪を一房手にとってさらさらと滑らせた。


「顔がどうしても見たかったから来たんだ」


 低めの声で届いた真っ直ぐな言葉と甘い眼差しに、範玲は熱くなった顔を思わず伏せた。


「……私も……とても会いたかったです」


 範玲が昊尚の袍を摘んで、俯いたまま精一杯の言葉を呟くと、昊尚が範玲の頬に触れた。


 いつも昊尚の手は暖かい。


「顔を見せて」


 昊尚のやけに優しい声が範玲の鼓動を早くする。

 恐る恐る範玲が顔を上げると、昊尚の少し青みがかった黒い瞳がすぐそこにあった。

 あまりの近さに、やっぱり睫毛が長い、と範玲が見とれていると、それが視界からいなくなり、手の添えられている方と反対の頬に、昊尚の冷たい唇が触れた。そして、次に範玲の唇にほんの少しだけ触れた。


 思考が完全に止まってしまった範玲が、ぼうっと昊尚を見上げる。昊尚の瞳が優しい色を帯び、触れている指が範玲の頬を少し撫でる。


「隙がありすぎ」


 昊尚は苦笑すると、手をつないで部屋まで送ってくれた。


「おやすみ」


 昊尚の言葉に、範玲は返事をしたか覚えていない。部屋に入ると、暫くそのままぼんやりと立っていた。

 が、止まっていた思考が動き出し、先ほど起こったことが頭の中で再現されると、手で顔を覆って声もなく膝から崩れ落ちた。


 

**



 朱国から明遠が帰って来た。


 昊尚が朱国を去った翌日、役人がやって来て喜招堂の財産を没収していったという。払うべき税を払っていないから差し押さえに来たとのことだ。朱国以外の商人には税を上乗せして払う義務がある、といきなり言われたと明遠が眉をしかめながら報告した。これまで聞いたことがなかった制度が急にできたらしい。

 目当ての宝飾品が残っていないことを知ると、腹を立ててか、屋敷を荒らして帰ったということだった。




 それから二日後に、朱国から使者がやって来た。


 先日、蒼国から、理淑を監禁しようとしたことに対して抗議の書面を送ったところだ。その返書かと思いきや、使者が携えてきた文書は、またもや目を疑う内容であった。

 蒼国の印璽を寄越せと言ってきたのだ。理由は、藍公が朱国の罪人として護送中の武恵を拉致した罪を贖うため。武恵と印璽を寄越せば不問に付す、というものだった。


「申し訳ありません」


 朱国に口実を与えてしまったことに対して、昊尚が壮哲に頭を下げた。


「よせ。謝る必要はない、と言っただろう」


 壮哲が苦笑する。


「そろそろ我慢の限界だと思っていた」


 これまで戦になるのを避けるため、朱国の無理な言い分にも穏便に済ませてきたが、印璽を寄越せというのは主権を渡せと言っているのと同じだ。

 受け入れるつもりは毛頭ないし、ここまで言わせておくことはない。


「澄季殿下が蒼国で一番大きな青玉、ということで、印璽に興味を持っていました。それも関係があるかもしれません」


 昊尚が朱国での澄季との会話を思い返す。そして、少し考えながら慎重に切り出した。


「玉皇大帝の宮に何者かが侵入した件を覚えておいでですか?」


 宮に侵入したと思われる者が頭と腹、腕を食いちぎられた死体で見つかった件だ。


「ああ」


 壮哲が頷き話の先を促す。


「その時に、食いちぎられた腕の手首から先が残っていました。その掌には怪我の跡があったのですが……」


 昊尚は自身の言葉に誤りがないか検証するように、一旦間を置き、そして続けた。


「先日、澄季殿下が蒼国の印璽に執着したことで思い至りました。あれは、あの窮奇に襲われた死体は、古利を連れ出した、雲起の侍従の馬広然ではないかと思われます。掌の傷跡は理淑殿が珠李を連れ戻しに追いかけた時につけたものかと」


 先日雲起に広然のことを尋ねてみた時のことも付け加える。

 それを聞いて壮哲が眉間に皺を寄せた。


「まさか……」

「はい。我が国の印璽は、玉皇大帝が御自ら玉座の飾りを取ってお作りくださったものです。玉座にはもう一つ、青玉の飾りがあります。それを奪うために侵入したのではないでしょうか」

「馬鹿な」


 壮哲が唸る。

 顔の前で手を組み、これ以上ないほどに眉間に深い皺を刻むと、深いため息をついた。


「駄目だ。どうあっても我慢ならん」


 壮哲が吐き捨てた。



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