第63話 二年季春 鳴く鳩其羽を払う 4


 翌朝、昊尚も帰路についた。


 喜招堂には明遠だけを残し、他の使用人は皆家に帰し避難させた。実質、朱国の喜招堂は閉めたも同然の状態だ。

 城門に向かう前に景成を再び見舞ったが不在だった。まだ傷も癒えきっていない体で何処へ出かけたというのかと気に掛かったが、家の者も、行き先は聞いていない、と言うのみである。いつまでも待つわけにはいかないので、諦めて発つことにした。


 羅城を出て首都寧豊を後にすると、田園地帯を馬で進む。来たときよりも身軽だ。

 途中、兵士一人に護衛された馬車を追い抜いた。

 見たところ、普通の旅という様子ではなさそうだ。馬車の中が全く見えないようになっている。

 昊尚は林に差し掛かると、馬を休ませることにした。道を外れて小川へ行き、馬に水をやっていると、つい先ほど追い抜いてきた馬車が、向こう側の樹々の間を通り過ぎて行くのが見えた。

 どうにも気に掛かる馬車だ、と目で追う。


 休憩を終え出発しようかという時、馬の興奮した嘶きが聞こえてきた。必然的に先程の馬車のことが頭をよぎる。

 馬に飛び乗ると、嘶きの方へと向かう。案の定、昊尚が気にしていた馬車が見えた。道から外れたところで周りを盗賊らしき者数人に囲まれている。

 護衛は、と見ると、来た道を馬で駆けて行く後ろ姿が眼に映る。馭者も同様だ。ご丁寧に馬車に繋いでいた馬の一頭を外してそれに跨って逃げていく。


 昊尚は舌打ちをした。

 乗っている馬は喜招堂の馬だ。軍馬ではないので馬上で剣を振るうのには向いていない。

 少し迷って馬を下りると、腰に佩いていた剣を抜いた。


「何をしている!」


 声を投げると、頭目らしき大男が面倒臭そうに昊尚に振り向いた。獲物を物色しようとする殺気立った気配はない。


「ああ? 何だお前は。邪魔をするな」


 昊尚が一人と見ると、鼻で笑いながら追い払うような仕草で手を振った。


「見てしまったからには、このまま見過ごすことができない性分なんでね」


 昊尚が剣を握り直す。

 突然現れた昊尚に対応できていない間に、取り巻く盗賊たちに太刀を浴びせながら馬車に近づく。


「何しやがる!」


 切られた部下を見て頭目が低く太い声で怒鳴ると、昊尚をめ付け、手にした大物の曲刀を振り回した。

 昊尚は身をかわし、攻撃を仕掛けるが、さすがに頭目は大人しくやられてくれる様子がない。昊尚も剣に覚えはあるものの、壮哲や佑崔程ではないし、藍公を継いでからは満足に鍛錬ができていない。

 頭目の周りにいた手下たちもじりじりと昊尚を狙っている。

 昊尚が頭の中でやられないための算段を講じていると、後方から馬が駆けてくる音がした。

 その音に頭目が一瞬気を散じた隙に、昊尚が肩に斬りつけた。頭目は咄嗟に避けようと体をひねったが、避けきれず剣の切っ先が腕を斬りつける。

 呻きながらぎらぎらとした目を昊尚に向けたその時、先程聞こえた蹄の馬が昊尚の前に割り込み、馬上の人物が有無を言わせぬ様子で頭目を斬り捨てた。

 如何にも武人といった偉丈夫が、顔色一つ変えずに馬上から昊尚に振り向いた。


「勇亮殿!」


 昊尚の危機を救ったのは、朱国禁軍副官の徐勇亮だった。あの口の悪い文官、徐景成の兄である。

 自分たちのかしらがいとも簡単に斬られる姿を目の当たりにし、残りの盗賊達は何が起こっているのか理解できないようにぼけっと突っ立っていた。しかし、馬上から勇亮に睨まれると、我先にと散り散りに逃げて行った。

 勇亮は剣の露を払い、鞘にしまうと昊尚に向かい合った。


「誰かと思えば喜招堂の……いや、藍公でしたか。感謝します。もう少し早く追いつくはずだったのですが」


 勇亮は馬からひらりと飛び降りて、昊尚に礼を言う。そして馬車に向かい、外からかけられていたかんぬきを開けた。


「殿下、遅れて申し訳ありませんでした」


 中にいたのは、朱国皇太子の范武恵とその妃だった。


「どういうことですか?」


 昊尚は勇亮に説明を求めた。



 武恵は澄季を毒殺しようとしたという嫌疑を掛けられ、武恵自身は一度も認めてないにもかかわらず、結局有罪となった。義理とはいえ尊属を殺害しようとした重罪である。しかし、王族ということで死一等を減じられ、流刑となった。

 四十周年祝賀の儀が終わってすぐの騒がしい雰囲気の中、それに紛れて秘密裏に刑が執行されることとなっており、朱国の北方の森林の伐採場へ妃と共に護送されるところだったという。

 反武恵派が、護送の途中で盗賊に襲われた形で武恵を亡き者にしようとしていることを知った景成が、勇亮に言って追いかけさせたいうことだった。


「景成殿はどうされているのですか」


 杖刑で怪我を負った景成は、今朝も昊尚が訪ねた時には出かけていた。


「母を連れて後ほど合流する予定です」


 勇亮が言う。彼らの母親の貞楓は武恵の妃の侍女をしていた。揃って朱国を捨てるつもりなのだろう。


「これからどうされるのですか」


 昊尚が勇亮に聞くと、馬車から降り、じっと俯いていた武恵が憔悴した顔を上げた。


「勇亮、すまない。私を助けるために、朱国を捨てたのだろう……?」


 絞り出すように言う武恵とは対照的に、勇亮はさらりと笑った。


「我ら兄弟は、殿下をお助けするために育てられたようなものですから、むしろ本望です。それに、母も武恵様たちがいなければやることがない」


 勇亮のあっさりとした笑顔は、言葉どおり未練はないように見えた。


 二人を育てた徐貞楓という女官は前妃の静桂の侍女で、武恵が妃を得てからは、その侍女をしていた。

 貞楓は地方官をしていた男に嫁いだのを機に静桂の侍女を辞め、勇亮を産んだ。しかし勇亮が一歳になる頃、夫に一方的に離縁され、勇亮と共に家から追い出された。

 途方に暮れているところを、静桂に「侍女として戻ってこないか」と声をかけられ、乳母代わりとして武恵の世話をすることになった。まだ幼子おさなごの勇亮も一緒に育てることを許され、恩を感じた貞楓は勇亮を将来武恵を支える家臣となるよう育てることを誓ったという。


 その勇亮が七つの時、「門の外に赤ん坊が捨てられていた」といって猫の子を拾うように連れてきたのが景成だ。貞楓は、自分も静桂に拾われたようなものだから、と勇亮の拾ってきた赤ん坊を育てることにした。だから、貞楓、勇亮と景成の間に血の繋がりはない。

 しかし、共に武恵を支えるという目的が強い絆を作っている。


 武恵は勇亮の拘りのない態度に、なお苦悶の表情を浮かべた。


「すまない……。私がもっとしっかりしていたら、こんなことにはならなかった。……私にはもう何の力も無くなってしまった。父上も変わってしまわれた」


 頬はけ、顔色は悪く、目は落ちくぼんでいる。溢れる言葉には絶望しかない。しかし、その目は諦めてしまった人間のそれではなかった。


「……このままでは朱国は滅びてしまう。しかし、朱国の民にとがはない。私には父を止められなかった責任がある」


 武恵は震える声で続ける。


「だが、私一人では何の役にも立たない。……先日、紅国の慧喬陛下がお忍びで朱国に来られて、必要ならば手を貸す、と言ってくださった。……恥を忍んで、慧喬陛下に手を貸していただけるよう、お願いに行こうと思う。たとえ紅国が朱国を……滅ぼしたとしても、今の状況よりは民にとって良くなるに違いない」

「武恵様……」


 勇亮がひざまずき、武恵を労わるように見上げる。

 昊尚は目の前のこの主従に声をかけずにはいられなかった。


「……では、まず蒼国に来られてはいかがでしょう。おそらくまだ紅国の皇太子がおられます」


 武恵は驚いたように昊尚を見返すと、勇亮に目を向けた。勇亮は武恵に真っ直ぐな眼差しを返すと頷いた。


「武恵様は先に蒼国へ行ってください。景成が追ってくるはずですので、私はここで待ちます。それから蒼国に向かいます」


 勇亮は昊尚に向き直ると、深々と頭を下げた。


「藍公、どうぞ殿下をお願いいたします」


 そう言うと、自身が乗ってきた馬を武恵に渡す。


「では、殿下、後ほど追いつきますので、お気をつけて」



 武恵とその妃を乗せた勇亮の馬を昊尚が先導し、新手の追っ手を警戒しつつ先を急いだ。蒼国の国境を過ぎ、日の落ちる前に蒼国の首都采陽に着いた。


 昊尚は急ぎ登城すると、壮哲の元へ向かった。

 前日に朱国を出発していた理淑たちは、大雅たちと共に蒼国に無事に到着していた。大雅は文陽と護衛の兵士たちを先に帰らせ、昊尚が帰ってくるのを待っていてくれているという。


「陛下。ただいま戻りました。……ご報告が」


 昊尚は朱国からの帰り道でのことを話した。武恵とその妃を伴ってきたことも。


「勝手をして申し訳ありません」


 昊尚が頭を下げる。

 壮哲は話を聞き終わると、苦笑し、きっぱりと言った。


「謝る必要はない。その状況ならば、私も同じことをした。よく武恵殿を助けてくれた。今後のことは大雅殿も交えて話すとしよう」


 壮哲の許しを得たので、武恵たちを大雅に引き合わせた。

 大雅は武恵の顔を見ると、大股に近づき手を握った。


「ご無事でよかった」


 人懐こい笑顔で武恵に言う。重苦しい雰囲気の中でもいつもと変わらない大雅の笑顔は、空気を少し軽くした。お陰で武恵も少し肩の力を抜くことができたように見えた。


「当国の主は朱国のことを殊更気にかけています。何せ、朱国の今の状態は、主の妹君の澄季殿下が原因だろうからと」


 先日慧喬が朱国を隠密で訪れた本当の目的は、武恵がその気ならば支援をするつもりがあることを伝えることだったのだ。


「一先ず武恵殿は紅国へお出でください」


 大雅が誘うと、申し訳ない、と目に涙を滲ませながら武恵は大雅の手を握リ返した。大雅は壮哲を振り返ると、一つお辞儀をした。


「武恵殿は一旦紅国でお預かりします。蒼国にもいずれご協力いただくことになるかと思いますが、その際はどうぞよろしくお願いいたします」

「無論」


 壮哲が頷いた。


 武恵の紅国行きが決まった頃、勇亮が蒼国に着いたと知らせがあったため、その場に通す。

 景成と合流して共にやって来ると思っていたが、現れたのは勇亮一人だった。


「武恵様の御心を話すと、景成は、朱国で待つことにする、と母と共に帰って行きました。朱国内で味方をまとめるつもりでしょう」


 それを聞き、武恵は拳を握りしめた。


「……すまない。景成……。必ず、朱国に帰る」


 武恵は自分の不甲斐なさを詫び、それでも信じてくれる家臣を思い決意を新たにした。


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