第61話 二年季春 鳴く鳩其羽を払う 2


 その夜は葛将軍率いる右羽林の精鋭たちが抜かりなく喜招堂を警護し、大した騒ぎもなく夜が明けた。一度蒼国への不満を持つ朱国の民が石を投げ込みに来たが、葛将軍の一喝ですごすごと帰っていった。


 翌朝、一行は祝賀の儀に参列すべく宮城へ向かった。範玲は、長い間病のために外へ出られなかったという設定により佑崔を付き添いとして帯同し、会場である外廷の丹輝殿に三人で入った。


「昊尚」


 聞き覚えのある朗らかな声に振り向くと、紅国王族の正装である紅色の袍に身を包んだ大雅がひらひらと手を振っていた。隣には濃淡の紅色を基調とした巧緻な、それでいて上品な織りを施した絹地の襦裙と半臂、気の遠くなるほど細密な刺繍の施された薄桃色の披帛ひはくを肩に掛けた月季がつまらなそうに立っている。

 元々化粧をしなくても目立つ並外れた美しさに加えて、目元と唇にさした紅色が琥珀色の瞳をさらに引き立てている。きりりとした中に艶やかさを加え、殊更に目をひきつける美麗さを醸し出していた。


「ああ、早いな」


 その煌びやかな二人に普段通りの態度で昊尚が応じると、大雅がにこやかに昊尚の一歩後ろに声を掛ける。


「範玲殿、久しぶりです」


 範玲に成り代わっている理淑が少し頭を下げる。


「ご無沙汰をしております」


 範玲に似せた花のような笑顔で応えると、大雅が一瞬目を見開き、昊尚へ目線をわずかにずらした。昊尚が目配せをする。


「いや、相変わらずお美しいですね。こちら、月季。妹です」


 何事もなかったように、先程よりさらに不機嫌そうな顔になった月季を紹介する。佑崔は一度月季に会ったことがあるので、顔を見られないように後方に静かに三歩下がった。


「お初にお目にかかります。蒼国の夏範玲です」


 理淑が内心どきどきしながら、はにかんだ笑顔で初対面の挨拶をすると、月季がにこりともせずに応じた。


「芳月季です」


 月季の遠慮のない視線が理淑の頭の天辺から爪先まで二往復する。

 今日の理淑は蒼国の国色である青色を基調とした襦裙を身につけている。薄く紅をさした程度に見える化粧と、瀟洒な刺繍を施した上質な絹の衣装は、清楚な範玲としての姿をより美しく仕上げている。


 見た目は完璧に範玲だが、理淑は内心、暴露たのかな、と焦る。


「そういえば文陽殿は?」


 昊尚が月季の関心の矛先を逸らすように尋ねる。紅国からは文陽も従って来ると聞いていた。昊尚の言葉で月季の視線が昊尚に移動する。


「庭を見に行ったわ」


 月季が言うと、昊尚は目を細めた。

 庭を見る、というのは、文陽の場合、色々と聞き取れる耳により情報を集めてくる、という意味の隠語として使っている。

 言いながらもまた理淑に視線を戻し、射るような目で見つめる月季に大雅が苦笑する。


「いい加減にしないか。威嚇しない」

「威嚇なんてしてないわ」


 月季は大雅を睨むと、ぷい、と鮮やかな衣装を翻して行ってしまった。


「ごめんね。月季は昊尚のことがお気に入りだから、範玲殿に取られたと思って、臍を曲げているんだよ。あんまり気分は良くないだろうけど、許してあげて」


 大雅が理淑に謝る。

 月季に理淑だと暴露たわけではなかったのか、と取りあえず理淑は胸を撫で下ろした。


「月季がこんな場に来るなんて珍しいな」


 昊尚が言うと、大雅が悪戯っぽく笑う。


「そうなんだ。陛下から目一杯綺麗にして出るように、って言いつけられて仕方なく来たんだよ」


 その意図するところの説明はなかったが、慧喬のことだから何か考えがあってのことだろう。月季は立ち去った先で頬を染めた若者に話しかけられ、更に苛々と不機嫌になっていた。

 それを見て昊尚は大雅と顔を見合わせて苦笑する。


 そんな一見平和な雰囲気ではあるが、そろそろ雲起が出てくる頃ではないかと、理淑を始め警戒を強める。控えの間として割り当てられた部屋で時間を潰すが、その間も雲起の姿は見なかった。

 却ってそれが不気味にも感じる。



 祝賀の儀に来賓として参列した国は、朱国に隣接している峯紅国、青蒼国、脩墨国、橦翠国の四カ国のみだった。墨国からは全身黒色の無愛想な皇太子の秀騎駿が、翠国からは少し頼りなさそうな若い皇太子の桐恭仁と、有能そうな美しい女性の高官が来ていた。

 昊尚は墨国や翠国からの客人とも知己のようで、大雅と共に和やかに談笑する。つい数ヶ月前に蒼国の国政に関わり始めたようには見えない。


 祝賀の儀が始まると段取りどおりに粛々と進み、朱国の民も陽豊門に面した広場に集まってきていた。

 集まった者の中には土で汚れた服を着た、祝賀という雰囲気ではない者たちも多くいる。式典の後に、食べ物が振る舞われるのを目当てとしているらしい、と誰かが囁いているのが聞こえて、理淑はこんな浮かれてお祝いをしている場合じゃないじゃないか、と心の中で呟いた。



 祝賀の儀が終わると、宴席が設けられていた。

 朱国王、澄季らと高官、それに来賓が大きな卓を囲んだ。

 澄季は朱色の衣装に身を包み、幾重もの深い朱色の珊瑚の首飾りをつけていた。四十半ばを過ぎているというのに、その美しさは衰えるどころか、妖艶さが加わって益々美しい。

 卓に着くと、自分の美しさを見せつけるように一同を見渡す。しかし、月季に目を留めると僅かに眉を上げ、憎しみを込めた目で見る。が、それも一瞬のことだった。元のとおり、自信に満ちた顔でこの宴席の主人であるかのような顔でゆったりと座る。


 卓上には如何にも贅を凝らした料理が並べられた。理淑は予め昊尚に料理には口をつけるなと言われていたので、少しずつ食べるふりをする。

 食べ物を求めて外に並んでいる人たちのことを思うと、胸が痛む。理淑は手のつけられない目の前の食べ物に心の中で謝ると、宴席で交わされる会話に耳を傾けた。


 朱国王は、隣国からの客にその国の産業について細かに尋ね、朱国でも可能かどうかを知りたがっているようだった。墨国の秀騎駿には、墨国で取れる地下資源について熱心に尋ねた。翠国の桐恭仁には、豊かな森林資源の活用方法について聞き、皇太子が答えあぐねていると、供として来ていた女性がさりげなく補足していた。

 昊尚へは、範玲との婚約の祝いの言葉を述べた後は、蒼国の鉱石の採掘について尋ねた。あの親書の言いがかりは何だったのかと思うほど、何食わぬ顔で鉱山の経営方法などを聞いて来た。もちろん謝罪の言葉などはない。

 蒼国の鉱石の採掘の話題の途中、澄季が話に割り込んで来た。


「蒼国で採れる青玉は素晴らしいですわね」


 口の端を美しい角度に上げて、艶やかな笑顔を披露する。


「ありがとうございます」


 昊尚はにこりと表面だけの笑みを浮かべる。


「蒼国の御璽が一番大きな青玉と聞きましたけど、本当ですの?」


 妖艶な笑みの中で、真っ赤な唇が絡みつくように言葉を吐き出す。


「そうですね。……ただ、御璽の材質は青玉ですが、宝飾品ではありませんから」


 昊尚が全く笑っていない目で微笑みながら答える。


「そうなんですのね。でも一度拝見してみたいわ」

「妃殿下は愉快なことをおっしゃいますね」


 ははは、と乾燥した笑いで昊尚がはぐらかす。

 なおも話を続けようとする澄季の気配を遮って、大雅が微妙な話を振り出した。


「そういえば、今日は武恵殿はいらっしゃらないのですか? 式でもお見かけしませんでしたが」


 その言葉に、朱国王は苦虫を噛んだような顔をする。


「武恵殿は体を壊しておりますのよ」


 澄季が代わりに答えた。


「そうですか。それは心配ですね。後で見舞いに寄ってもよろしいでしょうか」

「それには及びませんわ。申し訳ありませんが、ゆっくり休ませてあげてくださいな」


 大雅の言葉に澄季がきっぱりと断った。

 そんなギスギスした会話を横目に、怖い宴会だ、と大人しくしていた理淑だが、なんだか視界がぐるぐる回っているような感覚を覚えて気持ち悪くなって来ていた。

 おかしいな……。目が回る。

 まっすぐ座っていられず、体が傾いてくる。

 理淑の様子に気づいた昊尚が声を掛ける。


「顔色が悪いな」

「すみません。何だか目が回って」


 理淑の顔が白くなっている。


「何か食べたか?」


 小声で聞くが、理淑は首を振る。

 昊尚が後方に控えていた佑崔を呼ぶ。


「申し訳ありません。旅の疲れが出たのでしょう。夏家の県主(ひめ)の気分が優れないようなので、これで失礼いたします」

「それはいけないな。県主(ひめ)君は別室で休むといい。せっかくの目出度い席だ、藍公にはまだ絹織物の技術のことで聞きたいことがある。もう少し付き合ってもらいたい」


 昊尚が理淑を連れて退室しようとすると、朱国王が引き止めた。宴の主人に引き止められては無下にはできない。


「では、もう少しだけ」


 そう答えると、佑崔には小声で言った。


「じゃあ、すぐに行くから、先程の控えの間で待っててくれ」


 理淑を佑崔に任せた。



 佑崔が足元がふらつく理淑を抱えるようにして宴の会場から出ると、待機していた女官が驚いて駆けよって来た。


「どうされました」

「気分がすぐれないようで」


 佑崔が言って、先ほど使用した控えの間に行こうとすると、女官が困った顔をした。


「先ほどお使いいただいていた部屋は、片付けてしまって、もうお入りいただけないんです。よろしかったらこちらへ」


 佑崔は迷ったが、顔色が真っ白になっている理淑を休ませてやることが先だと女官の後をついて行く。

 女官に案内された部屋に入ると、理淑を榻(ながいす)に横にする。


「大丈夫ですか」


 こんなに大人しい理淑は見たことがないので、さすがに佑崔も心配になる。


「……何か、目が回って……。真っ直ぐしてられない」


 理淑が両手を顔に当てて、うーん、と呻く。


「本当に何も食べてないんですか?」


 佑崔が毒物を警戒して聞いたと同時に、扉が開いた。


「おや、どうしたんです?」


 入って来たのは雲起だった。


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