第60話 二年季春 鳴く鳩其羽を払う 1
朱国への出立の朝は、範玲の不安を空に映したかのようにどんよりした雲が広がっていた。
昊尚と理淑、佑崔、そして右羽林軍の葛将軍とその精鋭の配下らが列を連ねる。
朱国の首都寧豊への道のりでは、理淑は馬車に乗せられている。理淑は馬で行きたがったが、範玲の代わりならば馬車だと言われて渋々従った。紅国の首都華京へ行くよりも距離があるため、朝出ても日が落ちる頃に
朱国の領内へは割とすぐに入ったが、そこからが長い。進むに連れて農業国らしい風景が広がってきた。
しかし、米を作る田だと思われる土地で、土の手入れもされず、放置されているものが多く見られる。大雨で流されたのだろうか、壊れた農機具が畑の真ん中に放置されたままになっているものもある。
作物がきちんと作られている畑が少ないように感じる。
「何か……荒れた感じ……」
理淑が率直な感想を口にした。
城門を通り首都寧豊に入ると、宮城に近づくにつれて少し賑やかになってきた。蒼国とは随分趣きが違うが、店が並び、人が増えた。ただ、路地に座り込んでぼんやりしている者もちらほら見られる。
通りを走る馬車に立ち止まって視線を送る人々を何度も見かけた。やはりまだ蒼国への反感は拭えていないのだろうか。
朱国では喜招堂に滞在することとしていた。朱国の大鴻臚から滞在先を紹介されていたが、藍公の私邸でもある喜招堂を利用するからと変更をした。
朱国にある喜招堂は邸店を営んではいない。店舗の奥は屋敷となっており、今回の一行が滞在するには十分な広さである。高価なものを扱う店であることもあり、侵入を警戒する造りになっている。どの程度雲起の手が回っているかわからないため、自陣である喜招堂にいた方がまだ安心であることもこちらを選んだ理由だ。
鼓楼の夕刻を知らせる鐘が鳴る頃、昊尚らは喜招堂に着いた。店には休業の札が掛けられており、店舗の横の門から奥の屋敷に向かう。使用人は何人か残っており、一行の身の回りの世話をすることにしてあった。
「ちょっと知り合いのところに行ってくる」
着いて早々に昊尚が出かけた。行き先は、喜招堂の彰高として親交のあった、朱国の文官の徐景成と言う人物の屋敷だという。
*
一刻ほどして帰ってきた昊尚は浮かない顔をしていた。
「お知り合いとは会えなかったんですか?」
理淑が聞くと、いや、と考え込みながら返事をする。
「思ったより朱国の状況は悪いようだ」
昊尚が一点を見つめながら黙ってしまった。理淑と佑崔は自ら話してくれるまで声をかけるのを控える。昊尚が待っている理淑と佑崔に気づいて再び口を開く。
「明日は皇太子は出席しない。先日慧喬陛下がおっしゃっていたとおりになったようだ。武恵殿は廃太子されて投獄されているらしい」
「投獄って……! お祝いなんかしてる場合じゃないじゃないですか」
「ああ。全くだ」
昊尚は眉を
*
昊尚が訪ねて行った徐景成は朱国の農政に関わる官吏だ。景成には禁軍の副官を務める勇亮という兄がいる。また、二人を育てた貞楓は皇太子妃の侍女をしている。
昊尚が喜招堂として朱国で活動していた時に、突然店に尋ねてきた景成から新しい種苗の輸入の相談を受けたのが知り合ったきっかけだ。口は悪いが行動力があり、第一に民のことを考える姿勢に好感を覚えてそれ以来親しくしている。
藍公を継いでから、なかなか景成に会う機会もなかった。朱国の農業が芳しくない状態の中、農政に関わる景成がどうしているのかと気がかりで、今回訪ねてみることにしたのだ。
景成は屋敷にいたが、面会を申し入れると、使用人にしばらく待たされた。ようやく通された部屋にいたのは、怪我をして床に臥せる景成だった。
役人である景成が杖刑に処されたというのだ。それだけでも驚きであるのに、明らかに違法なほどに杖で打たれて怪我をしていた。通常、重傷を負うほど杖で打たれることはないのにだ。
「大丈夫ですか」
昊尚の声に、景成がうつ伏せに寝ていた体を起こした。
「……これは、藍公殿。……見苦しい姿を見せて申し訳ない。……先日はありがとうございました。皆喜んでいました」
起き上がるのに手を貸すと、景成が背をもたれさせないように座る。
「いや、召し上げられるくらいならば、配ってもらったほうがいいから」
朱国が喜招堂の財産を召し上げようとしていると密かに教えてくれたのは、この景成だった。それを聞いて、没収されるくらいならばと、食べ物に困っている人々に渡してくれるように、明遠に言って貯蔵していた売り物の食料を全て景成に引き渡していた。景成は秘密裏に食料不足に悩む人々へそれを配分してくれた。
「で、この有様はどうしたのですか。まさか……」
情報を漏らしたことが
「いや。違う違う。何、大したことはしていない。会議の席で上官殿達に”お前ら馬鹿じゃないのか”と言っただけです」
景成が、いててて、と顔をしかめながら自嘲する。
情報を昊尚に流したことが原因ではないことに少しほっとしながらも、どうしたことかと昊尚が訝しむ。
「いくら口の悪いあなたでも、普通はそんなことを言わないでしょう。何があってそんな暴言を吐くことになったんですか」
景成は少し躊躇ったが、まあ、もうどうでもいいか、と呟くと話しだした。
ひと月半程前、澄季の侍女が一人頓死した。
その侍女は、澄季妃が飲むはずだった茶を飲んだという。
調べてみると、茶に附子(ぶす)毒が入っており、茶葉にそれが付着していたことがわかった。
その茶葉は皇太子の范武恵が贈ったものだとの証言がでた。
武恵は茶葉を贈った覚えはない、と否定した。しかし、その後武恵の起居する東宮から同じものが出てきた。
一貫して武恵は否定を続けており、真偽が明らかになるまではとりあえず謹慎処分となった。徳資王の在位四十周年祝賀の儀もあるため、ことを大きくして表沙汰にしたくないという事情もある。
数日後の会議の席で、その件について調査していた官吏が、この澄季妃の毒殺未遂事件は武恵によるものであるという報告をあげた。それを受けて、武恵の廃太子を王に上申することが決まった。そこで、「本気で言ってんの? お前ら馬鹿じゃないの?」と言ってしまったという。
景成は農政に関わる官吏としてだけでなく、彼を育てた貞楓が武恵の乳母がわりをしていたこともあり、昔から武恵を知る近しい家臣である。武恵がいくら澄季を苦々しく思っていたとしても、毒殺などという安易なことをするような者ではないとわかっている。だから、明らかに武恵を陥れようとする輩たちのその空々しい猿芝居に嫌気がさし、我慢できずに言ってしまった言葉だった。
景成の言葉に激怒した反武恵派の者たちは、何かと言うと歯に衣着せぬ物言いで正論を押し込んでくる景成を、これ幸いと罰することにした。
本来ならば実刑に処せられるようなものでもないのに、理由をつけて杖刑とし、おまけに官位を取り上げてしまった。杖刑を執行するにあたっても、本来はこのように強く打つものではないのに、肉が裂けるほどに打ちつけたのだ。
皇太子の武恵は、王の長子で、亡くなった前妃のとの間の唯一の子だ。
王と前妃は仲睦まじかったが、長く子に恵まれず、武恵はようやく生まれた待望の
武恵は前妃に似た穏やかな性格で、大人しそうには見えるが、芯のある清廉な人物である。王は、先の言を覆して澄季を娶り、溺愛することになっても、武恵を皇太子とすることに対しては全く迷うことはなかった。
それなのに、王は高官たちの上申を受けて、武恵の廃太子を承諾してしまったのだ。
朱国は、農耕神の后稷を守り神として祀る国である。肥沃な国土と、后稷の加護を得て、朱国では豊富な農作物の収穫を以って国が成り立ってきた。ところが、徐々に以前のような豊作の年が減り、二年程前から天候の不良などにより、朱国での農作物の収穫が激減した。当然国庫も不安になる。
それまで武恵は澄季の浪費について、王に時折苦言を呈することはあったが、半年程前からその機会も頻繁になった。そして、王もその頃から武恵の言葉に一切耳を傾けなくなった。
そこで起こった澄季の毒殺未遂事件は、何度も澄季の浪費を改めさせて欲しいと王に訴えていたにもかかわらず、王の腰が上がらなかったことにしびれを切らした武恵が直接手を下したものと判じられた。
貴族たちの中には清廉な武恵を煙たく思う者たちもいる。武恵に比べて、第二皇子の雪昇は、貢物により味方につけられる澄季の言いなりで、御し易いであろうと考える不届きな者も多かった。そんな思惑もあったのだろう。
廃太子となった武恵は、景成が拘束されている間に、義理とはいえ母親を殺害しようとしたという罪を着せられ、異常な拙速さで流刑という刑罰も確定してしまったという。
「この国はもう駄目だ。もう朱国などどうにでもなれ、だ」
景成が自嘲する。今までの人生の全てを朱国のために捧げてきた口の悪い優秀な官僚が、自暴自棄になっている。
昊尚は痛ましい思いで景成を見つめる。半年程前といえば、古利が朱国に来た頃だ。徳資王の変心は古利も一枚噛んでいるに違いない、と考えると苦い思いが湧き出る。
「しかし、武恵殿下はどうするのですか。まだ投獄されているのでしょう。武恵殿下も見捨てるのですか」
昊尚が言うと、景成の瞳にわずかに揺れた。
「……武恵様の廃太子が決定してしてしまったんだ」
ぽつりと景成が呟き、傷だらけの手がぎゅっと握られる。
「……流刑に……」
そう言ったままじっと動かなくなった景成を昊尚は静かに見守った。
暫くすると、景成が何やらぶつぶつと呟き始めた。
無体な暴力に気を削がれて停止していた景成の頭が、動きだしたことを昊尚が察する。
すると、景成が顔を上げた。
「悪いが、彰高殿、いや、藍公、まだくだらない祝賀の儀とやらがあるのだろう。今日のところはこれで帰ってくれないか」
昊尚はいつもの調子に戻った景成に、少しほっとする。何かを計画し始めたようだが、今は何も答えてくれはしないだろう、と取り敢えず辞することとした。
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