第59話 二年季春 田鼠化して鴽と為る 3

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 範玲は西内苑の不撓の梅の元へ来ていた。

 不撓の梅は若葉をつけており、青々とした姿に変わっていた。

 満開時のとき色の滝を思わせる華やかな姿も美しかったが、範玲はこの若葉に覆われた姿も好きだと思った。樹齢二百年をも超えるというのに、若々しい生命力を感じる。言い伝えのとおり、この梅の木が元気な姿を見ると、蒼国も大丈夫だという気がする。

 ふと見ると、若葉をつけて垂れた枝が幹の元に空間を作っている。

 範玲は少し迷ったが、枝を避けて木の根元まで屈んで進み、腰を下ろした。見上げると、四方が緑に囲まれていた。緑の洞穴に入り込んだようだった。

 そこにすっぽりと収まると、少し気分が落ち着いた。範玲は膝を抱える。

 理淑が範玲の代わりに朱国に行くことになった。理淑にそんな危ないことをさせるくらいなら、自分が行く、と慌てたが、誰もとりあってくれなかった。

 範玲は自分がこんな時役に立たないことは自覚している。それにしても、妹に迷惑をかけることになるなんて、と情けなくてどうしようもなく落ち込む。

 理淑は、大丈夫、といつものとおりあっけらかんとしていた。

 でも、古利ももちろん恐ろしいが、朱国の皇子の雲起に底知れない恐怖を感じる。昊尚も古利よりも雲起を警戒しているようだ。


 もし万が一、理淑に何かあったらどうしよう。


 そう考えると、範玲は恐ろしくて仕方がなかった。

 膝に顔を埋めてじっとしていると、頭上の梅の葉がさわさわと揺れた。

 それはただ風が葉を揺らしているだけにも思える。しかし、範玲には何かを話しているように感じられた。


 そうだ。


 試しに範玲は耳飾りを二つとも外してみた。

 驚くことに、葉が揺れる音以外の雑音は聞こえなくなった。

 そして。


--何を心配している。


 すぐ近くで言葉が聞こえる。

 周りを見回しても、緑の洞には範玲以外、誰もいない。

 範玲の鼓動が激しく打つ。


--どなた、ですか。


 声を出さず、聞いてみる。


--不撓の梅と呼ばれることが多い。


 範玲は飛び上がり、木の根につまづいて転んだ。


--も、申し訳ありません。勝手に座って……!


 起き上がりながら謝ると、葉がさわさわと揺れた。

 範玲は、梅の木に向かい合うようにぺたんと坐り直す。

 どうしたら良いのか、範玲は混乱して固まる。しばらく黙ったまま座っていたが、はっと思い出した。


--蒼国を、理淑たちをお護りください。


 範玲が祈る。


--私にそのような力はない。


 淡々とした答えが返ってきた。


--不撓の梅の木が枯れてしまわれる時は蒼国が滅びる時だという言い伝えがあります。

--そう言われることもあるが、私が蒼国を守っているわけではない。


 それでも、こうして話ができる以上、普通の梅の木ではないことは明白だ。


--……では、話だけでも聞いてくださいませんか。


 範玲は迷いながらも、今の蒼国の状況を話した。不撓の梅は聞いてくれているのかわからないが、時折風が葉を揺らす。

 範玲は話し終わると、何か助言をもらえるのではないかと待った。葉を揺らしさわさわと優しい音を立てた風が範玲の頬を撫でていく。


--大した力はないが、これをやろう。持っていくといい。


 頭の上から、もう咲いていないはずの梅の花が、ふわりと落ちてきた。

 範玲は慌ててそれを両手で受け取る。鴇色の花弁をつけた梅の花が一つ。


--これ……


 どうしたら、と聞こうとしたところで、急に風の音が大きくなった。

 何か言葉が聞こえたような気がしたが、不意に目の前が暗くなった。




 気がつくと範玲は木の根元に蹲っていた。葉が風で揺れる音が耳に響く。


「んん……」


 蹲ったまま眠ってしまったのか、と頭を上げる。

 風で葉がざわざわと擦れる音の大きさに、範玲は耳に亀甲形の耳飾りがないことに気づく。

 慌てて耳飾りを探すと、それは範玲の座っているすぐ横にあった。手を伸ばそうとして、範玲は自分が何かを握っていることに気づく。

 手のひらを広げてみると、そこには鴇色の梅の花が一つあった。が、手を開くとすぐに、その梅の花はバラバラにほぐれ、貝殻のように硬くなった花弁が五枚残った。


 あれは、夢ではなかったのか。


 範玲は艶やかな貝殻のようになった鴇色の花弁を見つめた。





 不撓の梅からもらった花弁は、それを入れられるように袋状にした結び飾りを編んで紐をつけた。理淑に一つ渡して裙の紐に結んでもらうことにする。何かあった時にきっと不撓の梅が力をくれるだろう。

 佑崔にも、くれぐれも理淑をお願いします、と同じものを渡した。それと、護衛について行ってくれる右羽林軍の葛将軍にも。四つ目も理淑に付いて行ってくれる他の誰かに渡してほしい、と英賢に託そうとしたが、「これは絶対範玲が持ってた方がいいと思う」と押し返された。


 そして、範玲にはもう一人どうしても渡したい相手がいる。


 昊尚とはあのやけに甘かった時以来、会っていない。昊尚が忙しかったこともあるが、範玲も会いたい気持ちを抑えていた。

 自分から望んでそうしてもらったのではないとはいえ、好きな人と婚約ということになって、自分だけ不満のない状況、というのが何とも居心地が悪かった。

 どう抑えても会えば嬉しく感じるだろう。でも、そんな風に浮かれていていい状況ではない。自分を守るために理淑が危険な目に遭うかもしれないのだ。

 それでも、昊尚が朱国に行く前に一目だけ会いたかった。

 範玲は周邸を夜になって訪ねたが、翌朝早くに朱国へ発つというのに、まだ昊尚は帰っていなかった。昌健は昊尚が帰って来るまで待てば良いと言って引き止めてくれたが、いつになるかわからなかったし、それほどに忙しいのならばと遠慮して帰ってきた。

 屋敷に帰ると、範玲は理淑の部屋へ声をかけた。理淑はいつもと全く変わらない、屈託のない笑顔で範玲を迎えた。


「理淑、これを」


 範玲が理淑に差し出したのは、亀甲形の耳飾りだった。範玲は常に亀甲形の耳飾りをつけているから、代わりをするのならば必要だろうと思いついて持って来たのだ。

 昊尚にもらった三つ目の耳飾りは古利に手を掴まれた時に砕けてしまったので、持ってきたのは二つ目の耳飾りにあたる。今範玲がつけているものよりも青味が薄い。

 理淑が耳飾りを手に取ると、灯りに透かしたり指で撫でてみたりした後に耳につけた。


「ん? 何か……いつもより少し音が小さくなったような気がする」


 理淑が首をかしげた。

 玄亀の耳飾りは理淑の聞こえ方も少し調節するらしい。


「なんか不思議だね、この耳飾り」


 外したりつけたりしながら、あーあー、と声を出してみたり、珍しそうに色々と試している。そんな理淑を範玲は複雑な思いで見つめる。


「……ごめんね。理淑」


 泣きそうな範玲の声に、理淑が目を丸くする。


「やだな。姉上。大丈夫だよ」


 言って範玲をぎゅっと抱きしめる。桃のような頬が範玲の頬に触れる。


「こんなこと言ったら怒られそうだけど、私、嬉しいんだよ。蒼国や姉上のために何かできるって、今までになかったから」


 その言葉に胸が詰まって範玲が理淑を抱きしめ返す。引き締まった体は華奢だが生命力が溢れているようだ。


「……無茶しないでね」

「大丈夫。佑崔殿が付いてくるから、無茶はしたくても絶対に止められる」


 理淑が不満気な声で言うが楽しそうだ。

 理淑がいると、周りが自然と明るくなる。お日様みたいな妹だ。

 範玲は改めて理淑を抱きしめた。


 

 やはり眠れなくて、範玲はまた夜中に中庭の池のほとりで膝を抱えて水面を見ている。

 結局、昊尚には不撓の梅からもらった花弁を渡せていない。

 明日の朝、出発前に渡せるかな、と手にした結び飾りを見る。


 あれ?


 範玲はまじまじと結び飾りを見つめた。

 暗闇で見たのは初めてだったが、結び飾りの中のその花弁がぼんやりと光っていた。編み目に隠されて全体は見えないが、隙間から光が漏れている。

 明るいところでは気にしてなくて気付かなかったけど、ずっと光っていたのか。

 そう思いながら見ていると、門の方で人の声がしたのが聞こえた。英賢が帰ってきたようだ。

 使用人の声と、もう一人、会いたかった人の声がしたような気がした。

 結び飾りを落とさないように懐に仕舞い、立ち上がって耳をすませていると、中庭の方に向かってくる二人分の足音が聞こえた。


「本当だ」


 英賢が範玲を見つけて驚く。その隣には昊尚がいた。


「ね。いたでしょう? 少しだけ、話をさせてください」


 昊尚が愉快そうに笑いながら言う。

 英賢は昊尚と範玲を交互に見ると、複雑な顔をして眉を下げた。


「もう遅いんだから、あまり長くならないようにね」


 昊尚が、すみません、と笑うと、英賢は片手を振って去って行った。

 英賢が母屋へ消えると、昊尚が範玲に向き合う。


「きっとここにいるだろうと思って、英賢殿に入れてもらった」


 昊尚が目を細めて笑うと、いつもは冷たく見える青みがかった黒い瞳が少しだけ幼くなる。


 ああ、やっぱり好き。


 範玲の胸がじんわりと切なくなる。


「聞いていると思うが、明日、朱国に発つ。明々後日には帰ってくる予定だから、大人しく待ってるように」


 昊尚の顔をじっと見つめたままの範玲の左手をとる。


「聞いてる?」


 昊尚が範玲の顔を覗き込む。

 範玲は自分の左手を包んでいる昊尚の手に右手を添えると、自分の頬にあてて小さく呟いていた。


「会いたかった」


 自分の口から溢れた言葉が耳に届き我にかえる。


 な、何を私は……。


 範玲は慌てて手を離したが、昊尚は範玲を逃さず抱き寄せた。


「私もだ」


 頭の上から聞こえる昊尚の低く深い声に、範玲の鼓動は早くなる。

 存在を確かめるように、昊尚がぎゅっと範玲を抱きしめなおした。範玲は昊尚の腕の中に埋もれた。


 ああ、どうしよう。こんな時なのに幸せだ。


 範玲は罪悪感を覚えながらも、頬を昊尚の胸に預け、恐る恐る手を昊尚の背中に添える。

 範玲の頬に当たった昊尚の冷えていた袍がほんのり暖かくなった頃、昊尚が呟いた。


「……婚約のことだが、気にしなくていいから。今まで通りにしてて」


 範玲はどう答えようかと迷うが、はい、と返事をするのみに留めた。

 そうだ、と範玲は昊尚の腕の中でごそごそと懐を探る。


「……お渡ししたいものがあって」


 範玲がそう言うと、昊尚が腕を解く。

 不撓の梅からもらった花弁を入れた結び飾りを範玲が差し出す。


「これは?」


 暗い中でぼんやり光を放っている結び飾りを不思議そうに見つめる昊尚の問いに、不撓の梅の元であったことを話す。


「それは、凄いな」


 編み目の隙間から見える硬くなった艶やかな花弁をまじまじと見る。


「光ってる。……不思議な光の出方だな。編み目のせいか?」


 裏返してみたりとじっくりと結び飾りを見る昊尚に、範玲がもじもじする。


「あまり編み目はじっくり見ないでください。私、不器用なので、不揃いで不恰好になってしまってて……」


 言い訳をする範玲に昊尚が目を細め、手にしている結び飾りを親指で撫でる。


「却って効果がありそうな気がする」


 決まりが悪そうな顔の範玲に昊尚が微笑む。

 範玲はふいに真顔になって昊尚を見上げる。


「理淑のこと、お願いします」

「ああ。佑崔もいるし、大丈夫だ」

「くれぐれも無茶はしないでくださいね」

「君こそ、明日から三日は朱国に行っていることになってるんだから、外には出ないように、屋敷で大人しくしてるんだぞ」


 昊尚が肩に垂らした範玲の絹糸のような髪を手で弄びながら言う。


「引きこもっているのは得意です」

「それは、笑っていいのか?」

「笑ってください」


 髪に触れられて範玲がくすぐったそうにはにかむ。

 昊尚がそれに笑み返すと、名残惜しそうに範玲を見つめる。


「もう遅いから、戻ろう」


 そう言って範玲を部屋の入り口まで送ると、おやすみ、と去って行った。


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