第58話 二年季春 田鼠化して鴽と為る 2
*
朱国への返書は、六省の長官を交えた会議を経て作成された。蒼国への言いがかりに対しては事実を調査した報告書を添えて、そのような認識は誤りであることを客観的に記した。ただし、蒼国の鉱石採掘場での労働の結果で病に罹ってしまった者に対しては、個別に__朱国へではなく__蒼国の民と同様に誠意を以って補償等の対応をする予定である旨を示した。
朱国皇子と夏家の一の
なお、夏家の一の
*
範玲はその事を、やり切れなさやら、怒りやら、申し訳なさやら、いくつもの感情に疲れ果てた英賢から知らされた。
昊尚の様子がおかしかったのは、これが原因だったのかと範玲は合点がいった。
「ごめん。本当は言わずに済ませたかったんだけどね」
英賢が眉を下げて言う。
「あっちの皇子が範玲を望んでいるようなんだよ。だから、今回は、親書に書かれているような事実がないから両国の友好の証として婚姻を結ぶことには意味がない、と断っても、改めて婚姻を申し込まれる可能性がある。それで、もう婚約済みとすることになったんだ」
申し訳なさそうに謝るが、全て自分のためだということは範玲にもわかっている。
「そんな。謝らないで。兄上」
聞いたときは頭が真っ白になるほど驚いたが、王族が国のために婚姻を結ぶことも、家同士で嫁ぎ先を決めることも普通にあることだ。自分の身にだけは起こらないなんてことはない、と改めて範玲は思う。
でも……。
「相手は昊尚なんだけどね」
英賢が複雑な顔で言った。
「こんな形になってしまって、ごめん。まだ昊尚は喪に服している身だから、婚姻はまだ先ということにしてるけど」
謝られて、範玲は逆に申し訳なく感じる。
どんな顔をしていいのかわからない。昊尚が相手だと言われても、昊尚も望んだことでもないだろうし、現実味もなさすぎてただ戸惑うばかりだ。
「でも、本当に、私にというのを断ってしまったら別の誰かを、なんてことはないのですか?」
もしそうであったら、自分だけよかったなんてほっとしているわけにはいかない。
「いや、向こうの目的は範玲の耳だろう、と昊尚が言ってる。私もそう思う。だから、範玲じゃなければ意味がないんだ」
**
返書を携えて、朱国の使者が帰っていった後、朱国からの反応は如何なものかと警戒を強めていると、数日後、再び朱国からの使者がやって来た。
今度は何を言ってきたのかと、壮哲始め警戒する。
その内容は、範玲に朱国徳資王の在位四十周年祝賀の儀に出席してほしい、というものだった。
要約すると、次のようなことが書かれていた。
先に送った親書の内容のような事実がないことは諒解した。また、鉱石の採掘場で罹患してしまった朱国民への対応も感謝する。朱国内でも民の誤解を解く努力をする。
朱国皇子との婚姻の申し込みは大変残念だが取り下げることとする。代わりに、蒼国の青玉のごとく美しい夏家の一の
使者は、朱国でお待ち申し上げます、と返事を待たずに帰って行った。
*
「駄目に決まっているでしょう」
英賢が美しい眉を顰めると、壮哲が天井を見上げて腕組みしながら唸る。
「しかし、今回は拒否しづらいな。要求自体は、祝典に出席してほしいというものだけだし。断る理由はない」
昊尚はじっと考え込んでいる。
「急病で行けないことにすればいいのではないですか」
英賢が不機嫌な顔でおざなりに言う。
「範玲殿を連れて行けば、そのまま返してもらえない可能性がありますね」
祝賀の儀に出席するのは昊尚であるが、範玲を連れてなど行きたくはない。どんな危険な目に合うかわからないからだ。
「しかし、来賓として訪れている者に対してそこまでするだろうか」
縹公がごく真っ当な疑問を口にする。
「普通ならば、しないでしょうね」
雲起の普通ではない行いを考えれば、無茶が予想できる。
そこへ、扉の外から軽やかな声がかかった。
壮哲が入室を許すと、失礼します、と入って来たのは理淑だった。
「どうしたの」
英賢が驚いて聞くと、理淑が英賢ににこりと微笑み、壮哲に向きなおって口を開いた。
「朱国から、姉上に記念祝典に出席してほしいと申し出があったと聞きました」
「ああ。それが?」
「朱国へは、私が姉上の代わりに行きます」
お遣いへ代わりに行くことを申し出るような口調で言った。予想していなかった言葉に、その場にいる者たちは皆呆気にとられる。
「いや、何言ってるかわかってる? 理淑?」
英賢が理淑に歩み寄り肩に手を置く。
「わかってます。兄上、いえ、碧公」
「そもそも朱国が来いと言っているのは範玲だよ?」
「姉上のふりをして行きます」
理淑が当然といった風情で言う。
言われて、一同思い出した。普段の言動と印象にあまりに違いがあるため忘れていたが、夏家の姉妹のその造形はほぼ同じだ。
「お化粧して、髪をもう少し黒くすれば、姉上にはかなり似ると思うの」
羽林軍に入ってから前より日に焼けた肌を化粧で白く、そして、範玲より少し茶色がかった髪を黒くすれば、瞳の色味の明るさが若干違うが、確かに外見上は範玲に見えるだろう。
「姉上の顔を知ってる人は少ないはずです。古利だって姉上の顔をじっくり見ているわけじゃないでしょ。
理淑が自信満々に言う。
「言動の決定的な違いで暴露るのでは……」
壮哲の脇に控えていた佑崔がぼそりと言う。
理淑が口を尖らせて佑崔を睨むが、佑崔は横を向いたまま気づかないふりをする。
「しかし、仮に理淑が範玲の代わりに行ったとして、危険なことに変わりはないよ。そんなことは認められない」
英賢が怖い顔で理淑に言う。
「碧公。私は羽林軍の兵士です。蒼国のために働くのは当然のことです。それに、私が代わりに行く以上に、良い案がありますか?」
理淑が真面目な顔で訴える。
「私は武術の心得があるので、突然の襲撃にも対応できます。私以上に適任はいないと思います」
じっと成り行きを見守っていた昊尚がぽつりと呟く。
「確かに、良案かもしれないな。範玲殿の耳が良いといっても、雲起はどの程度か知らないはずだ。だから、雲起は範玲殿の能力を試したがるだろう。試した結果、実際には期待したほどではないと思わせることができたら、範玲殿への興味も薄れるかもしれない」
理淑も範玲ほどではないが、通常より耳が良い。その耳を利用しているおかげで剣の腕もあるわけだが、雲起の期待しているものは違うものだろう。
「ほら」
理淑が得意げになるのをちらりと見てから、英賢が昊尚に向かって顔をしかめる。
「賛成できない」
「すみませんでした。気持ちは、わかります」
昊尚が溜息をついて引き下がる。
「大丈夫だったら。兄上。私も姉上を守りたいの」
理淑が英賢の腕を取る。理淑の碧色の澄んだ瞳が英賢をじっと見つめる。引く気配は全くない。
それを見ていた壮哲は、以前、縹公が養安殿に監禁されているのを救出に行った時のことを思い出した。あの時も理淑は自分も行くと言って引かなかった。
壮哲は机に肘をつき、顔の前で手を組んで思案する。
「無下に拒否してあちらに余計な口実を作ってやらない方がいいかもしれないしな。……もし理淑が行くとするならば、護衛は十分につける。……佑崔、行ってくれるか?」
壮哲が言うと、佑崔はちらりと壮哲を見る。
「陛下のご下命とあらば」
英賢は恨みがましく壮哲を見返す。
蒼国一の腕を持つ王の護衛をつけると言う。しかも理淑の決意は固いようだ。どう言っても行くつもりだろう。
英賢は長い溜息をつくと、渋々、嫌々、取り敢えず承諾をした。
「その代わり、絶対に理淑から片時も離れないでね。片時も、だよ」
佑崔に念を押した。
*
「うわ! 誰?」
部屋へ入った途端、理淑が頓狂な声を上げる。
「……」
佑崔がじろりと理淑を睨む。
しかし、理淑が驚くのも無理はない。
部屋には、壮哲たちの他に女官姿の佑崔が不機嫌に立っていた。英賢に、理淑のそばを片時も離れないようにと、要求され、結果、いかなる時も
元々細身の体躯で涼やかな女性のような顔をした佑崔に化粧を施すと、彼の姉にそっくりな美女が出来上がった。少々女性としては背が高くしっかりとした体格のような気もするが、柔らかく光沢のある布地の襦裙と半臂を纏った姿はまさに女性であった。細いが筋肉のついている腕はゆったりとした袖の襦で隠され、半臂から覗く細い腰に流れる裙は美しい線を描いていた。
「やっぱり、佑崔殿って女顔だよね。きれー」
まじまじと見つめる理淑の遠慮のない目に、佑崔が冷たい視線で以って返す。
そう言う理淑は、範玲の代わりをするという提案を納得させるために、白粉で少し日焼けを隠しつつほんのりと化粧をし、髪を黒く染めていた。
普段は他の兵士と同じ男子の格好をしているが、範玲の代わりをするために、佑崔と同じく襦裙を着ている。
見た目は、本人が言ったように、範玲にとても似ていた。
「……確かに範玲殿に見えるな」
壮哲が理淑を見て言った。
「いや、何を言っているんですか。やっぱり全く違います。理淑にしか見えません」
英賢が肯定の声に被せるように抗議する。
「碧公はそうだろうが、私には似て見える」
壮哲が苦笑する。
「昊尚も似てないと思うよね」
英賢が昊尚を巻き込もうとする。昊尚もやはり範玲とは違うなとは思ったが、「まあ、見慣れない目で見ると、まあ……」と言葉を濁すと、英賢が睨む。
そのやりとりを横目で見ながら佑崔が言う。
「でも、問題はその言動ではないですか? 本当に大丈夫なんですか?」
佑崔に顔をしかめられ、理淑がむっとする。
「大丈夫だってば。毎日一緒にいる姉上の真似は、私以上にうまくできる人はいないって」
そう言うと、理淑は咳払いを一つする。
「……皆様、いつもご苦労様です」
にこりとはにかむように微笑む。
普段より声の高さも抑えている。いかにも
「……貴女も
佑崔が感心して言うと、縹公も壮哲も同意を示す。英賢は範玲の真似の完成度に、ううっ、と言葉を詰まらせ、昊尚は思わず吹き出した。
「でしょ!」
褒められたのかどうかわからない言葉に対して、はははっ、と大口を開けて笑う理淑に、佑崔が溜息をついた。
「やっぱり不安だ……」
英賢とは別の意味で全面的には賛成しかねる佑崔だった。
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