第57話 二年季春 田鼠化して鴽と為る 1


 外廷の回廊を英賢が怖い顔で先を急いでいる。いつもの穏やかさとかけ離れた雰囲気に、すれ違った者たちが見間違いかと振り向く。

 壮哲の執務室につくと、おとないの声をかけるのもそこそこに扉を開ける。


「どういうことですか……!?」


 開口一番、誰をともなく問い詰める。


「碧公、落ち着きなさい」


 その場で最も年長の縹公がたしなめる。しかし、常に物静かで冷静な英賢の唯一と言われる弱点が攻められて、苛立ちを隠すことができない。

 英賢は壮哲の横に立つ昊尚を見る。


「よく落ち着いていられるね」


 昊尚は眉間に深い溝を刻んだまま、珍しく英賢に反抗的な目を向ける。


「そう見えますか」


 極北の海のように冷たい声で昊尚が返した。その声で少し頭が冷えたのだろうか。英賢が、すまない、と呟く。

 英賢が席に着き、場が落ち着いたのを見計らって、壮哲が声を発した。


「朱国からの親書を」


 立ったままの昊尚が顔から表情を消すと親書を広げて読み上げた。

 親書には要約すると次のことが書かれていた。



 先日、朱国の民が蒼国から帰国しようとしたところ、蒼国の兵士に急追された。朱国の民が一人連れ戻され、もう一人は怪我をして朱国に戻って来た。また、朱国の民が蒼国の鉱石の採掘場で劣悪な環境下、安価で労働させられている。そのことについて抗議に行った者が殺害された。

 これらのことに対して朱国内では蒼国への不信感が蔓延し、これまで築いて来た両国の信頼関係が崩壊しようとしている。

 ついては、国民の不信感を払拭し、今後の両国の友好関係を深めるために、朱国皇子と蒼国王族夏家の一の県主ひめ__つまり範玲との婚儀を申し入れる。



 昊尚が親書をつくえにぱさりと置くと、英賢が吐き捨てた。


「何、これは。話にならないね。本当に朱国王からの親書なの?」


 英賢が訝しそうに親書を手に取る。末尾には朱国王の署名と印影が確かにあった。


「これを作ったのは徳資様というより、雲起殿でしょうね」


 昊尚は先日慧喬が言っていたことを思い出す。雲起が古利を使って、朱国王の意思を操作しているのだろう。


「無論、拒絶しますよね」


 英賢が壮哲に向き合う。

「ああ。まあ当然だが……」


 壮哲が溜息をつく。


「まず、内容が全て言いがかり、というかもやは虚言です。聞いてやる義理もありません」


 昊尚が感情を消した声で淡々と言う。


「一つ目に挙げられている、朱国の民が蒼国の兵士に追い回されて怪我をした、というのは、恐らく理淑殿が広然を追いかけて行った時のことでしょう。連れ戻された朱国の民というのは珠李でしょうね。珠李はそもそも、もう蒼国の民です。言うなれば蒼国の民が拉致されたのを取り返しただけです。どちらが正当な行為なのかなど一目瞭然です。二つ目のことも全くの言いがかりです。賃金が高いから、朱国の農民が畑を捨ててわざわざ蒼国にやってくるんです。労働環境については、確かに良かったとは言い難い状況ですが、決して朱国民だからと不当な待遇をしているわけではありません。また、それについて朱国の者が抗議に来て殺害されたなどという事件は起きていません。これは、古利の脱獄騒動の時の朱国の若者のことを捻じ曲げて言っているのでしょう」


 昊尚が一気に述べた。


「だが、朱国内では蒼国を悪く思っている朱国民が多くいるのは事実だな」


 壮哲がこめかみを指で揉む。


「事実としては、そのようです」


 昊尚が控えめに言う。


「そうやって、朱国への不満の矛先を蒼国に向けてはいるが……、もし、仮に、仮にだぞ」


 壮哲が英賢と昊尚を意識して、仮の話であることを強調して言葉を続ける。


「……そこに書いてある要求を受けたら何か変わるのか? 朱国に対する民の不満が解消されるわけではないだろうに」


 そのとおりだと昊尚が頷く。


「だからこそ、徳資様の意思ではないだろうと」


 壮哲がふむ、と呟く。


「ところで朱国の状況は改善する見込みはあるのか」


 朱国の民の不満はそもそもここのところの作物の不作から始まっている。見当違いな怒りを蒼国に向けさせたところで、何の解決にもならない。


「皇太子の武恵殿が色々と試みたようですが捗々はかばかしくないようです。朱国は農耕神である后稷神の加護を持つというのに、この有様は通常であれば考えられません。当国でも、穀物等の輸入はここ最近は朱国よりも紅国からの方が多くなっています」


 昊尚が資料をめくりながら言う。


「そんな状況なのに、澄季殿下の浪費は以前と変わらず、いえ、むしろ酷くなっているそうです」


 朱国の民が食うものも十分ではない状況であるのに、後宮では澄季に仕える女官が溢れかえり、煌びやかな衣装が日に何枚も作られ、珍しい食べ物を遠くから取り寄せ宴会三昧、宝石も変わらず収集しているという。

 民から取り上げた作物は、国外への輸出に充てられ、民に還元されることはない。国内の食糧不足に備えたはずの義倉すらも、なかなか民のために解放されなかったとか。このように民を蔑ろにする者が為政者として失格であるのは自明である。

 先日慧喬も言っていたが、元は家臣の話にも耳をかたむける公平さを持ち、柔軟な考えを持った王だったはずだ。古利が入り込む以前から、朱国は崩れ始めていたのだろうと推測できた。


「この親書が輿入れに範玲殿を名指ししてきているのは何故だ」


 縹公が聞くと、それまで表情を消していた昊尚が一瞬嫌そうな顔をしたが、再び無表情を装い口を開いた。


「以前、範玲殿の耳についてお話ししたことを覚えていらっしゃいますか?」

「もの凄く耳が良くて遠くの会話も聞き取れるということか」

「はい。そのことを知るのは蒼国でもここにいる者と夏家の古くからの使用人くらいです。……いえ、でした、というべきでしょう」


 言葉を一度切ると、昊尚は深く溜息をついた。


「範玲殿をよこせと言ってきたことから、恐らく範玲殿の耳の話は、朱国の雲起が知るところになったと思われます」


 昊尚はもう雲起に敬称をつけることをやめたようだ。


「雲起は人に触れることで暗示をかけることができる長古利に固執しています。人を殺めることすら厭わず、自分の手元に置いておこうとしました。特殊な能力というのに固執する傾向があるようです。恐らく、範玲殿の耳の話は、それを偶然知った古利から雲起に伝わったのだと思われます。それで、範玲殿に興味を持った雲起がこのような要求を言ってきたのだろうと」


 無表情が崩れ、不快極まりないという顔になった昊尚が言う。ここまで感情を表に出す昊尚は珍しい、とそこにいる誰もが思ったが、口には出さない。


「婚姻の相手の、朱国側の皇子、とは、誰のことだ? 皇子としか書いてないが」

「皇太子の武恵殿にはすでに妃がいらっしゃいますし、第二皇子の雪昇殿には婚約者がいます。となると、相手は雲起ということになります」

「どの面を下げて言うんだろうね。この間は啓康様のまだ幼い公主(ひめ)に婚姻を申し込みにきていたじゃないか」


 英賢も、不快であることを隠そうともせず、言い放つ。


「申し出を拒否することに異論はないが、どのように返答するかだな」


 縹公が眉間に皺を寄せる。


「この親書の内容が根拠のない言いがかりであることは、朱国も承知の上でしょう。拒絶は織り込み済みなのでは。断った後にどう出るつもりなのかが問題ですが」


 昊尚が机の上の親書をとんとんと指で叩く。


「戦を始めるきっかけにするつもりなのかもしれないな」


 壮哲が言う。


「幾らこちらに非がなくても、戦になって得るものなど何もない。一番迷惑するのは民だ。できる限りそれは避けたい」


 蒼国は豊かな国ではあるが、小国である。戦となれば数で朱国には敵わないだろう。紅国に支援を求めれば手を貸してはくれるだろうが、いずれにせよ戦は最後の手段だ。多少のことを我慢して避けられるのならば、それに越したことはない。



**



 夕刻、範玲が子常に付き添われて周邸を訪れた。先日どこかに入ってしまっていて見つからなかった、昌健が見たいと言っていた本が見つかったので届けにきたのだ。周家で訪いを告げると、顔見知りの使用人が出てきて中へどうぞと気安くいざなわれた。

 本を渡してもらえればよかったのだけどな、と思いながら奥へ続く回廊を進む。

 範玲が中庭に目を遣ると、木亭あずまやに背の高いすっきりとした立ち姿があった。何かを考え込んでいるように池の方を向いて腕を組んで立っている。

 居るとは思わなかった昊尚の姿を見つけて、範玲がつい名前を呼んだ。

 昊尚が振り返り、範玲がいるのを見ると、少し間があった後に手招きした。


「何してるんですか?」


 範玲が近寄ると、昊尚は表情を変えずに範玲の顔を少し首を傾けて黙ったまま見る。

 昊尚の目に苛立ちのような、やり切れなさのような複雑な色が見え隠れする。その目が範玲をじっと見つめるが、昊尚の表情の意味が読めなくて範玲に戸惑いが混じる。

 あの、と範玲が言いかけたところを、昊尚が一歩近寄り、範玲を腕の中に閉じ込めた。


「こ、昊尚殿……?」

「少しこのまま」


 昊尚が腕の中であたふたする範玲の頭の上で呟く。


 し、し、心臓に悪い……! それに!


「し、子常が……」


 範玲の言葉に昊尚がちらりと子常を見ると、回廊のところで待っていた子常と目が合う。すると子常はぺこりと頭を下げて、そろりと引き返して行った。


「今、帰った」


 え、ええっ……?


 心臓が口から出そう。と範玲が焦る。

 しかし、頬にあたる昊尚の胸から鼓動の音を感じると、不思議と落ち着いてきた。

 大人しくなった範玲を昊尚が黙ったままじっと抱き込む。

 いつもと何だか違う様子に、範玲が顔を上げて昊尚の顔を見ようともぞもぞとしてみる。が、昊尚が顎で範玲の頭を挟んでそれを阻む。


「どうしたんですか? 何か、ありました?」


 範玲は上を向くのを諦めて聞く。そして、どうしていいかわからずに宙に浮いていた手を、そっと昊尚の背中に置いた。すると、昊尚は腕の力を強めて、更に範玲を腕の中に閉じ込める。


 何か変だ。

 しかし、理由は話したくなさそう。


 範玲が戸惑いつつどうすべきか考えていると。


「よし」


 昊尚が何かを振り切ったように言い、腕の力を弱める。


「回復した」


 範玲の頭越しに一つ息をついて呟くと、次に範玲に目を細めて笑いかけ、唇を髪にそっとつける。

 わわ、と慌てながらも、範玲は昊尚の様子が気にかかる。


「何があったんですか?」

「うん? ああ」


 問いに答えるつもりはないようだ。

 昊尚の背中から離れていく範玲の手を、昊尚がそっと握る。握る手の親指が範玲の手の甲を撫でる。いつもより範玲に触れる昊尚に、範玲の心臓が再びばくばく打ち始める。


 それにしても、やっぱりどこか変。何か気掛かりな事があるんだろう。


 心配そうに見上げる範玲に、昊尚は困ったように微笑むと、額に唇を寄せた。


「すまない。引き止めて」


 そう言うと、赤い顔でわたわたしている範玲から昌健に渡す本を引き取り、範玲を夏邸に送りとどけた。「出かける時は決して一人きりにはならないこと」と範玲に念を押すと、昊尚は去って行った。

 あまりに甘い昊尚に、その背中を見送りながら、範玲は逆に不安を感じずにはいられなかった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る