第56話 二年仲春 雷声を発す 4


 昊尚が夜遅く屋敷に帰ると、まだ灯りのついている部屋があった。

 覗いてみると昌健が何かを熱心に読んでいた。


「まだ起きていたのか」


 突然父親を亡くしてしばらくは塞ぎ込んでいた甥を心配したが、最近は外へも出かけるようになった。覇気が戻ってきた様子に安堵する。


「あ、叔父上。お帰りなさい。遅かったですね」


 声をかけられるまで気づかなかったようで、驚いた顔で昊尚を見る。


「範玲殿にお借りした本が面白くて」


 止めどころがわからなくなっているという。


「よく夏家に行くのか」

「ええ。今日も行って来ました」


 本に目を戻して昌健が答える。


「あまり遅くならないように休めよ」


 苦笑しながら昊尚が部屋から出ようとすると、それを昌健の声が追いかける。


「叔父上は範玲殿が好きなのですか?」


 足を止めて昊尚が振り返る。


「どうした。いきなり」


 一息おいた後に聞くと、昌健が昊尚を真っ直ぐに見た。


「私も範玲殿が好きなんです」


 昌健が昊尚の反応を窺うように言う。


「そうか」


 昊尚は昌健に視線を合わせて静かにその言葉を受け入れる。その様子に、昌健の顔に不満の色が浮かぶ。


「……範玲殿はどう見ても叔父上のことが好きなのに、叔父上は何だかはぐらかしているように見えます」


 昊尚の反論を待つように、昌健が少し間を置いた。しかし、昊尚が何も言わないとみると、本を閉じた。


「叔父上がそんなんだったら、私は諦めなくていいんですよね。私は叔父上に似ているようなので、私に勝機がないとは言い切れませんよ」


 昌健はにっこりと一見邪気のなさそうな笑顔で言うと、じゃあおやすみなさい、という言葉で部屋から昊尚を追い出した。

 一回りも年下の甥に宣戦布告され、昊尚は頭を掻く。

 後ろ手で戸を閉めながら、以前見た光景を思い出す。



 昊尚が中書省の建物から出てくると、蒼翠殿の向こうに史館の職員達が揃って退勤するところが見えた。

 範玲も子常に付き添われているが、順貴と何やら話しては笑っている。

 その寛いだ範玲の様子に昊尚も笑みが漏れる。

 史館で皆と上手くやっているのだな、と安心する。

 その範玲の楽しそうに笑う姿に、ふと思った。


 そうか。


 仕事とはいえ、ほぼ毎日一日の大半を一緒にいるのだ。親しくなるのは当然とも言える。

 そうやって一緒の空間で過ごすうちに、そのうちの誰かに好意を持つというのは極めて自然な流れだろう。自分のような、範玲にとって特殊な存在を選ぶよりも違和感がない気がする。

 例えば、順貴は一見とっつきにくいが、誠実で頼りになる良い人物だ。範玲が好意を持っても全く不思議なことはない。

 あの笑顔を誰か他の者に持っていかれるのは非常に業腹だが、それが範玲にとって一番良いことならば身を引くべきなのだろう。


 範玲たちの後ろ姿を見送りながら、昊尚はそう考えていた。





 夏家の書庫に昌健がやって来て、範玲と話をしているのはよく見る光景になっていた。

 休日のこの日も昌健が遊びに来て範玲と熱心に話していた。

 先日範玲が貸した本に書いてあった不撓の梅に、昌健が非常に興味を示したので、昊尚に教えてもらった開花の時期や様子などを範玲が教える。昌健は自分も見たかったと非常にしょんぼりするので、来年は一緒に見に行こうと範玲が誘った。

 すると、「そういえばうちの屋敷で、ちょうど白い枝垂れ桃が盛りだから見にきませんか」と昌健が言う。

 昌健の熱心な誘いに、丁度非番だった理淑も一緒に花桃を見に周邸を訪れた。


「凄い!」


 理淑が思わず声を上げる。

 周邸の東側の庭では、八重咲きの真っ白な花が、垂れた枝いっぱいに咲いていた。木々の間に立つと、春の陽気の中で、雪が舞っているような錯覚を覚える。


「とても綺麗」


 範玲も白い桃の花に感嘆の声を上げる。二人の様子を見て昌健が満面の笑みを浮かべる。


「あちらには赤白混ざった花弁の花桃があるんですよ」


 昌健が庭の奥の方を指さすと、理淑は「えっ? 本当に? 見たい見たい。ちょっと見てくる!」と走って行ってしまった。


「やだ、理淑ったら」


 範玲が理淑を追おうとすると、昌健が範玲の手をとった。


「案内します」


 屈託なく笑う昌健は、やはり最初に出会った頃の昊尚に似ていて、範玲は何だかむず痒くなる。

 弟がいたらこんな感じなのかしら、と繋がれた手を見る。


「範玲殿?」


 そこへ声が掛かった。

 振り向くと、休日にもかかわらず、皇城で仕事をして来たと思われる昊尚がいた。

 それを横目で見て、もう帰ってきちゃった、と昌健がぼそりと言う。


「範玲殿と理淑殿にうちの花桃を見せようと思って」


 先程の呟きは空耳かと疑う程に、昌健が屈託のない笑顔に戻る。その笑顔を見て昊尚が眉を下げると、「昌健」と手招きして呼ぶ。


「何ですか」


 範玲の手を離して、にこにこしながら昌健が昊尚の元へ行くと、範玲に背を向けて昊尚が昌健の肩に手を回す。


「手を繋ぐ必要はないだろう」

「あ、叔父上。妬いてますね?」

「馬鹿を言え」

「叔父上がはっきりしないなら私だって諦めません、って言いましたよね」


 範玲に向ける無邪気な態度とは異なる昌健がじろりと昊尚を睨む。そして、ふん、と鼻を鳴らした。


「でも、叔父上が来たときのあの嬉しそうな範玲殿を見ちゃったからなぁ。仕方ないですね。今日のところは範玲殿を譲ってあげます」


 そう言うと、一個貸しです、と言い置いて理淑を追って行ってしまった。

 昊尚が溜息をつきながら昌健の背中を見送ると、範玲から声がかかった。


「今日はもうお仕事はいいんですか?」


 昊尚が、ああ、と答えると、少し頬を染めた範玲の花がほころぶような笑顔が返ってくる。

 昊尚は英賢に言われたことを思い出す。

 こんなに真っ直ぐに気持ちを向けられて嬉しくないはずがない。

 しかし、範玲のこの気持ちを本当に受け取ってしまって良いのか、昊尚はまだ少し迷っている。一度手に入れてしまったら、範玲が勘違いだったと思ったとしても、手放してやることは到底できないと自分でわかっているからだ。

 白い桃の花の間で、花のように微笑む範玲に昊尚の心が揺れる。


「昌健殿が言っていた二色の花弁の桃を見に行きませんか?」


 範玲が昌健の走って行った方を指差す。

 昊尚がその細くて白いその手を取ると、範玲が驚いたように目を開く。そのまま手を繋ぐと、焦ったように俯いた磁器のような頬が更に色づいた。

 この反応が見たくてつい手を取ってしまった。そういえば、先程昌健には、手を繋ぐ必要はないだろうと言ったばかりだったな、と昊尚は昌健に心の中で謝る。


「行こうか」


 昊尚が言うと、範玲は昊尚を見上げて、頬を染めたまま、ふにゃりと無防備に、幸せそうに笑った。


 ……。


 昊尚が範玲から目を逸して深く溜息をつく。

 昊尚は自分の抵抗が全く馬鹿げていたことを思い知った。範玲の無防備な笑顔の破壊力は、昊尚の頑なな自制心の壁の強度をはるかに上回っていた。

 範玲のこの顔を他の誰かに譲るのだけは絶対にごめんだな、と昊尚は更に一つ長く息を吐いた。


「ああ、もう止めた。降参」


 昊尚が眉間に皺を寄せて呟く。


 もうぐだぐだ考えるのは止めだ。


 思った以上に早く陥落したね、と英賢に笑われるのが思い浮かぶ。


「どうしたのですか?」


 突然の昊尚の呟きに、少し焦った様子で範玲が昊尚の右下から覗き込むと、ちょうど首をかしげた形になった。

 その範玲の姿に、あくまでも攻撃の手を緩めるつもりはないんだな、とほんの少し昊尚の闘争心が湧く。

 昊尚は繋いだ手で範玲を少し引き寄せ、その方向に背を屈めた。範玲があっと思う間も無く、その額に少し冷たくて柔らかいものが触れた。

 何が起きたか理解して範玲が耳まで真っ赤になると、昊尚は少し口の端をあげて、今度は繋いでいる範玲の手の甲にその少し冷たい唇を当てた。


「仕返し」

「な、何の……!?」


 真っ白な花の間で、範玲が真っ赤な顔で額を押さえた。

 



**




 その翌日、蒼国王に宛てた親書を携えた朱国の使者がやってきた。

 使者のもたらした親書は、両国の友好の証として、朱国の皇子と青公夏家の一の県主ひめとの婚姻を要求するものであった。



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