第51話 余話 3 英賢と理淑

時期的には「元年季冬 鵲始巣 3」の後、理淑が羽林軍に入ってからのお話です。


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 空気がより冷たくなり始める夕暮れ時、英賢が羽林軍の鍛錬場にふらりと現れた。新入りの兵士の鍛錬を見ていた佑崔に理淑の居場所を聞く。

 理淑は兵士たちに混じって、剣で打ち合いをしていた。

 他の兵士に比べても明らかに動きが早く、その所作も美しい。理淑よりも体の大きな兵士と渡り合っても、何ら不安なところはなく、理淑の有利が剣術に詳しくはない英賢から見ても明らかにわかる。


 いつの間にこんなに強くなっていたのだろうか。

 あの小さかった理淑が。


 英賢は理淑の幼かった姿を思い出す。

 英賢たちの母親は、理淑を生むと間もなく他界している。だから、理淑には母親の記憶はない。範玲もおぼろげな記憶しか残っていないはずだ。

 美しく優しかった母親と過ごした記憶がちゃんとあるのは自分だけ、という妹たちに対する申し訳なさもあった。だから、母親が亡くなった時、母親の分も妹たちを可愛がろう、と決意したことを覚えている。

 でも、実際は、そんな決意など関係なく、英賢にとって妹たちはとにかく無条件に可愛く大切な存在であった。

 範玲は耳のことがあったから、尚更気にかかった。家の者たちも健康で元気な理淑よりも範玲を心配した。そんな環境でも、理淑はとにかく真っ直ぐに、伸び伸びと育った。愛らしい容姿で屈託のない素直な理淑は、あちこちに顔を出しては皆に可愛がられた。

 たまたま遊びに行った秦邸で縹公に剣の持ち方を教わると、剣術に夢中になった。縹公に懐いてよく稽古をつけてもらいに行っていた。

 長じてくると、時々壮哲のいる羽林軍に混じって稽古をつけてもらっていたとも聞いている。軍の兵士でもないのに、そんなことができるのも理淑の人柄によるものだろう。

 そんな風に熱心に稽古していた剣術だが、実戦を想定したものではない、と英賢は思っていた。


 どうして急に蒼国の役に立ちたいなどと思い立ったのだろうか。

 ああ、あれかな。啓康様の騒動からか。

 それにそれまで引きこもっていた範玲が史館に勤めだしたのも大きかったかな。


 英賢がそんなことを考えながら見ていると、鍛錬を終えて英賢の姿を見つけた理淑が駆け寄ってきた。


「兄上! 見にきてくれたの?」


 嬉しそうに頬を上気させている。

 羽林軍に入るのを認めてしまったことは今でも少し後悔している。しかし、理淑のこの顔を見ると、仕方ないな、とも英賢は思う。


「理淑は何がきっかけで蒼国の役に立ちたいと思うようになったの?」


 英賢が理淑に手巾を渡しながら聞く。

 羽林軍に入りたいと言い出した理由は蒼国の役に立ちたい、ということだったが、そう思うようになったきっかけについては聞いていなかった。

 理淑は英賢から渡された手巾で、その愛らしい顔をごしごしと無造作に拭うと、んー、と思い出すように上を見る。


「やっぱりね、この間の啓康様の件の時に、自分では強いと思ってたけど実戦では役に立たないなー、って思い知ったの。でね……」

「ちょっと待って。実戦では、ってどういうこと?」


 英賢が話を止めた。

 少し離れたところにいた佑崔が、一瞬、まずい、という顔をしたのを、英賢は見逃さなかった。


「え? 敬伯様が薬を使われて監禁されてた時に、壮哲様と佑崔殿と一緒に養安殿に助けに行ったの。その時に、禁苑で野犬の群れに襲われて、壮哲様や佑崔殿は凄く手際良く野犬を斬り捨てたのに、私は自分が思った程、剣に慣れてないんだなっていうことが分かって。それで、もっと強くならなきゃ、って思ったの」


 佑崔が気配を消して、その場から去ろうとする。


「佑崔、何処に行くの?」


 如何に気配を消すのが上手い佑崔でも、しっかり視線を合わせられていては、逃れることができるはずもない。

 英賢が微笑みながら、じりじりと間合いを詰める。


「いえ、あの、壮哲様がそろそろ」

「まだ大丈夫だから、ここに居ようか」


 英賢の笑顔は時として何よりも恐ろしい。目が全くこれっぽっちも笑っていない。それどころか、冷たく苛立ちを漂わせている。普段穏やかさを崩さない英賢だが、こと二人の妹のこととなると話は別のようである。

 蒼国随一の剣の達人の背中に冷たいものが伝う。

 理淑は、あっ、と自分の失言を悟った。

 これ、言っちゃいけないやつだった、と手で口を押さえる。


「というのは冗談で!」


 理淑が叫ぶが後の祭りだ。


「範玲と理淑を巻き込まないように、お願いしたはずだけど」


 佑崔に向けられる冷んやりとした英賢の笑顔。

 先の啓康王の騒動の際、英賢は藍公らを殺めた疑いで牢に入れられた。牢の中で、範玲が騒動に関わってきているのを知って、珠李を通して妹二人を関わらせないようにと昊尚たちに伝えてもらったのだ。


「兄上、あのね」


 理淑が英賢の腕にすがる。


「理淑はちょっと黙ってようか。……で、牢の中からの私の切なるお願いは、聞いてもらえなかったわけだね」


 佑崔が理淑を連れて行くことを決めたわけではない。

 非常に理不尽なことを言われているが、壮哲に責任を負わせることも躊躇ためらわれる。

 佑崔は冷や汗を流すしかできない。


「連れて行くだけならまだしも、何? 野犬に襲われて、それを始末させたって?」


 冷たい笑顔の圧力に佑崔が後ずさる。

 戦ったら実はこの人が最強なのではないか、と佑崔の頭をよぎる程の圧だ。

 英賢が苛立ちを笑顔に込める。


 理淑を事件に巻き込まないようにしてくれれば、連れて行かずに修羅場を体験することがなければ、理淑が羽林軍に入りたいなどとは言い出さなかったのではないか。


「兄上、違うの! あれは、私が無理やりついて行ったの。自分で決めたの!」


 理淑が佑崔に向ける英賢の視線の途中に割って入る。

 英賢よりも頭一つ分低い位置から真っ直ぐに見つめる。


「兄上が私たちのことを心配してくれていたのは、ちゃんと分かってた。あんな状態でも、自分のことより私たちのことを想ってくれていたって! でもね、兄上、ごめんなさい。私は、ついて行ってよかったと思ってる」


 理淑の真剣な眼差しが英賢を射る。


「それまで、もちろん毎日に不満なんかなかったけど、あの時、もっと強くなる目標ができてから、何だろ、地に足が着いた感じがするの。だから、今回も兄上が羽林軍に入ることを許してくれて、本当に感謝してる!」


 英賢は理淑の熱気に気圧けおされる。


 いつの間に、こんなにしっかりしてしまったんだろう。


 英賢はその成長が嬉しいと同時に、そこはかとない寂しさを感じた。

 しばらく英賢と理淑の視線が無言で押し合う。

 理淑の意志を顕す熱い瞳が英賢に押し勝つ。


 こんな目に敵うはずがない。


 英賢は、ふぅ、と一つ息を吐いて理淑の頭をぽんぽんと撫でた。


「分かったよ。……もう佑崔を責めないよ」


 佑崔に目を向け、無茶言って悪かったね、と苦笑いすると、佑崔が、いえ、と口ごもる。


「ありがとう。兄上」


 理淑の強い瞳がいつもの明るいものに変わり、満面の笑みをこぼす。


 ああ。やっぱり少し寂しいな。


 英賢が心の中で独りごちる。


「じゃあ、戻るね」


 英賢はそう言うと、安堵の表情で見守る佑崔に手招きする。

 訝しがりながら佑崔が英賢に近寄ると、英賢が顔を寄せて理淑には聞こえない音量で囁いた。


「もう責めないから、その代わり、理淑のこと、よろしくね。危ないことをしそうになったら止めてね」


 有無を言わせない笑顔を佑崔に向ける。


 何故、自分が……。


 そう思ったが、佑崔は口に出すことができなかった。


「う、……は、い……」


 無理矢理承諾させられた佑崔は、それ以降、英賢に理淑の暴走を止める役を押し付けられることになる。




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※この後、壮哲と昊尚が英賢に嫌味を言われました。


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