第50話 余話 2 央凛と珠李
「元年季冬 鷙鳥厲疾す 5」の続きです。
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建物から出ると冷たい風が肌を刺す。しかし、珠李の心には、先ほどの英賢の笑顔がほんのり温もりを残していた。
裏切り者との疑惑で捕らえられていた御史台から解放されて内廷へ向かう回廊で、央凛の後ろ姿を見つけた。
珠李は小走りで駆け寄り、央凛の名前を呼んだ。
呼ばれた声に振り返った央凛に向かって、腰を深く折る。
「ご心配をおかけしました」
「あら。珠李! ……良かったわ。お帰りなさい。……大変だったわね」
央凛が珠李の肩を軽く叩いて頭を上げさせる。
珠李が顔を上げると、央凛の笑顔が曇る。
「可哀想に。可愛い顔になんて事するのかしら。広然とか言った? あいつ、絶対に許せないわね」
躊躇いもなく珠李の顎に手をかけて、広然に殴られた跡の残る頬を見る。
「喜招堂の
真剣な眼差しで検分すると、後であげるわね、と珠李の顎を離す。
珠李が御史台に捕らえられていたことについて特段追求することもなく、普段通りの央凛に少し戸惑っていると。
「珠李なの?」
同年代の同僚たちの声に呼ばれたと思ったら、そのうちの一人が駆け寄り抱きついてきた。
そんなに心配してくれたのか、と面食らっていると、同僚が抱きついたまま言う。
「知らなかったわ! 全然そんなこと話してくれないんだもの」
……何の話?
実は英賢様の部下だったってこと?
どう答えたものかと戸惑っていると、ゆっくり歩いて近寄ってきた別の同僚が腕を組んでしみじみと言う。
「本気の想いほど軽々しく言えないものよ」
訳知り顔に頷いている。
「私たちが英賢様のことで盛り上がっていても、話に乗って来なかったじゃない。むしろ壮哲様の方が素敵とか言って」
抱きついてきた方の同僚が、手を緩めて珠李を解放しながら口を尖らせる。珠李の頬を見て慌てて、ごめん痛かった?と気遣う。
「だから、そこが秘めた本気の恋、ってことよ。あんたにはわからないかもねぇ」
どんどん話が進んでいるが、一体何を話しているのかと珠李は頭の回転数を必死で上げる。
「ほらほら、貴女たち。少府へ食器の相談をしに行く途中だったのではないの?」
珠李そっちのけで盛り上がる二人に央凛が声をかけると、あ、そうだった、と真顔に戻る。
「じゃあ、また後でね」
そう言うと、二人は大袈裟に手を振って去っていった。
何だか以前より二人からの距離が近くなったようなのは気のせいか。
角を曲がる二つの背中を腑に落ちない顔で見送っていると、央凛から声がかかった。
「えっと。ごめんなさいね。少し脚色させてもらったわ」
若干申し訳なさそうな声だ。
「あの。二人が何の話をしてたのか、よくわからないのですが、それと関係がありますか?」
珠李が央凛に向き合うと、苦笑いが見えた。
「藍公からは聞いてないのね?」
頷くと、央凛が教えてくれた。
青蓬門で珠李が自分は朱国の雲起に仕えていると言った件が、それだけで一人歩きしてしまって、珠李は裏切り者だという噂が広まった。また、人質に取られた珠李を助けるために英賢が古利たちを逃してしまったことにも、一部から批判が出ている。それを義理人情という勢いでねじ伏せるために、昊尚が央凛に、珠李が危険を顧みず身を挺して古利を捕らえさせようとした、ということを美談として広めてほしい、と頼んだのだと言う。
「でもね、ほら、私たち女官って、ただの忠義の美談よりも、恋愛絡みの方が好きじゃない? その方があっという間に広まると思って。それに、味方もその方が増えるし」
ふふ、と央凛がいたずらっぽく笑う。
「え、あの、何て言ったんですか?」
恐る恐る聞いてみると。
「あら。私はそんなに大袈裟なことは言ってないのよ」
一つ咳払いをして央凛はシナを作った。
「"こんなことになるなんて、切ないわ……珠李の気持ち、報われるといいのに"、……って溜息をついだだけよ」
目まで潤ませて再現してくれる。
「もう、後はみんな色々想像して聞いてくるから、私は、"私の口からは言えないわ"、って言っただけ」
うふふ、と楽しそうに笑う。
いや、それで結局一体どういう話になったのだ。
「まあ、大筋は、英賢様に恋する貴女が、英賢様のお立場を守るために、我が身の危険を顧みず裏切者の振りをした、っていうところよ。貴女が英賢様に恋してる、ってことが付け足されただけだから安心して」
枝葉末節はともかく、と央凛が言葉を濁す。
付け足されただけだから安心して、って。簡単に…‥。
しかもその枝葉末節は恐ろしくて聞けない。
「この先英賢様にどんな顔でお会いしたら……」
珠李が情けない声を出すと、央凛は頬に手を当てて首をかしげた。
「でも、実際には、恋してるわけではないでしょう? だから、大丈夫だと思って。もし貴女が英賢様を本気で好きだったら、茶化すようなことはしないわ」
央凛がちゃんと見極めた上で流した噂だというところは、流石と言わざるを得ない。
昊尚からの依頼であれば、英賢も承知のことだろう。自分の気まずさを堪えるだけで、英賢様の役に立てるのならばお安い御用だ、と思い直す。
「それとも、誰か好きな人が他にいて誤解されると困る?」
央凛の目がきらりと光る。
「そういうわけじゃないですけど」
慌てて否定する。
「じゃあ適当に受け流しておけばいいわ。……ううん。少し本音を話してもいいかも」
央凛が切長の目を細めて言う。
「恋じゃなくても英賢様を好きなのは本当なのでしょう? こうなった以上、英賢様を好き、と公言してしまった方が、却って英賢様のお仕事はしやすいのじゃない? あ、大丈夫よ、珠李が英賢様の部下だってことはうやむやになっているから」
珠李が本当は英賢に仕えていることを、昊尚が央凛には伝えているようだ。
央凛が妹をいたわるような目で珠李を見て言葉を繋ぐ。
「……それにね、みんな、貴女がそんなになる程、熱い想いを持っていたって知ったことが嬉しいのよ。……嬉しいなんて、あんな大変な目に遭った貴女に言うような言葉じゃないわね。勿論、無事だったから言うのだけど。ほら、珠李って誰にでも分け隔てなくて親切だけど、誰とも深く付き合わなかったじゃない? 感情の波って見られなかったし。だから、今回の件で、みんな貴女を身近に感じたみたい。暫くは構われると思うけど、好かれてると思って、受け入れなさい」
央凛が珠李の腕をぽんぽんと叩いた。
朱国で澄季に仕えていた時は、いつも誰かに足を引っ張られるのではないかと気持ちの糸を張り詰めていた。もちろんそこには友と呼べるような人間はいなかった。
ここに来てからも、基本的にその姿勢は変えなかった。同僚たちとどんなに仲の良い振りをしても、心から信頼することなどなかったと思う。
皆と特段親しくなろうなんて考えてなかったし、自分が仲間として受け入れられているなんて思ってもみなかった。
だから、ここが自分の居場所だなんて、考えもしなかった。
だけど、ここは、自分の居場所だったんだ。
思い至った考えで少し目の奥がじわりと痛くなる。それを誤魔化すために、珠李は話を変えた。
「央凛殿こそどなたか好きな方がいらっしゃるんですか? そういえば藍公はもういいんですか?」
珠李の言葉に央凛は途端に顔が険しくなった。
「そうなのよ。本当に残念。喜招堂の彰高殿が好きだったのに。まさか青家の方だなんて!」
出入りしていた商人が、実は、見た目よし、血筋よし、将来性よしの超優良物件だったとわかって、女子たちは皆色めきだったというのに、央凛はそうは思わなかったようだ。
「何が不満なんですか?」
「不満って言うか、もちろん、藍公が素敵なのは変わらないわ。でもねぇ…全くそういう対象として見られなくなっちゃったのよねぇ」
ほう、とため息をつく。
「何て言うのかしら、若いのに身一つで各国を飛び回って商売を切り盛りしているって、ところが好きだったのよ」
「でも、彰高殿も藍公も同一人物じゃないですか」
「そうなんだけどねぇ。王族というのがねぇ。……面倒そうじゃない。……と、あら、嫌だ。こんなこと言ったって内緒ね」
央凛が唇に指を当てる。
「そうそう。彰高殿の後を任された方、かなりのやり手らしいの」
あくまでも商人がいいのか、と央凛の嗜好の方向を垣間見る。
「でも、私よりも年上みたいなのよね。残念だわ」
「若い方がいいんですか?」
「当たり前じゃない!」
何が当たり前なのかはよくわからないが、いつもと変わらない央凛に、珠李は思わず吹き出した。
あら、何がおかしいの!?と憤慨する央凛を見て、珠李は初めて、ここが好きだ、と思った。
気がつくと目の前が滲んでいたが、それは笑いすぎたせいだ、ということにした。
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(註)「元年季冬 鷙鳥厲疾す 5」で、昊尚が央凛のことを「いや、央凛殿はなかなかやるな、と思って」と評したセリフを引き出した内容です。
この件は「二年仲春 倉庚鳴く 4」にも、珠李と範玲の会話で出てきます。
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