第49話 二年仲春 倉庚鳴く 4
*
珍しく珠李が夏邸を訪れていた。
特に個人的な付き合いがないのに珠李がここに来たのは、範玲から会って話がしたいと文をもらったからだ。
客間に通され、茶が出される。
珠李はどことなく元気がない範玲が気になる。
「お話とは何でしょう」
きっと宮城の立ち話で済ませるようなものではないのだろう、と珠李が身構える。
「教えていただきたいことがあって」
範玲が躊躇いながら視線を合わせると、珠李が居住まいを正す。
「男の方を好きになる、というのはどういうことでしょう」
予想していなかった範玲の言葉に珠李がむせる。
「ど、どうしたのですか? 何故私に……?」
「すみません。こんなこと。私、知り合いが少ないので、お聞きできる方がいなくて。うちの書庫にもなかなかそういったことが書いてあるものもないので……」
珠李はそう言って俯いた範玲をまじまじと見る。真面目に困っているようだ。
珠李は、この間まで引きこもっていらしたからな、と自分を選んだことには納得する。ただ、返答は一体何があってそれを聞きたいのかにもよるな、とどう答えようかと考えるための時間稼ぎに茶を口元に運ぶ。
「珠李殿は、兄上がお好きなのですか?」
珠李は思わず茶を吹いた。
「な、何をおっしゃるのです?」
口元を拭いて範玲に向き直る。
英賢様はいらっしゃらないですよね、と慌てて珠李が辺りを確認する。
あまり本人に聞かれたい話ではない。
「あの青蓬門での件で、皆さんが言ってました」
ああ、と珠李は納得した。
青蓬門での発言により出回った、珠李が朱国の回し者だという噂を打ち消すために央凛が流した噂のことだ。
叶わぬ恋と分かっていながら恋い慕う英賢を庇うために、珠李が我が身を顧みず芝居を打った、ということになっている。央凛の脚色によるものだ。その方が女官の間で噂は広まりやすいし、味方も得やすい、というのが央凛の言だ。
おかげで、あの後しばらく女官仲間に会うたびに、生ぬるい笑顔で肩を叩かれたり励まされたりした。
「確かに、私は英賢様のことをお慕いしております。ただ、多分、範玲様のおっしゃっているものではないと思います」
皆にも誤解されているが、と珠李が付け足す。
「どう違うのですか?」
範玲が身を乗り出すと、うーん、と珠李が考えながら話し出す。
「……英賢様を尊敬していますし、お役に立ちたいし、あの麗しいお姿もお顔立ちも大好きです。私の一番の望みは、英賢様がお幸せでいらっしゃることです。でも、何て言うのでしょう……。私の場合、恋、というのとは少し違うのです。そうですね……英賢様は私の生きる活力、と言いますか」
話の途中から珠李がうっとりとして目を瞑り手を合わせる。
何やらいつもと違う珠李に少したじろぎつつ、範玲は自分に当てはめてみることにする。
尊敬、している。
役にも立ちたい。
姿、顔……。
ほんの少し青みがかった黒い瞳が、不意に笑いかけてくれたのを思い出し、思わず顔が熱くなる。
……。
「触れたいとかは?」
範玲が聞くと、珠李はとんでもない、と手を振った。
「そんな畏れ多いこと、考えたこともありません」
それを聞いて、そうなんだ、と呟く範玲を珠李が覗き込む。
「範玲様はそう思う方がいらっしゃるのですか?」
こんなことを聞いたらきっと英賢様はやきもきされるな、と思いながら珠李が言うと、範玲は何を想像したのか、長い睫毛を震わせ、その美しい顔を真っ赤にして俯いた。
う、わ。
この顔は卑怯だ。
こんな顔を見せられたら、これは好きになってしまう。
思わず珠李もつられて赤くなる。
「範玲様はその方のことがお好きなのですね」
珠李が、んん、と咳払いをして顔を両手で扇ぎながら言うと、範玲は、はっ、と顔を上げた。
「やっぱり、私は昊尚殿が好きなのですね?」
範玲が珠李にすがった。
*
珠李と話をした数日後、執務を終えて帰ろうとする志敬に範玲が改まった口調で言った。
「手を出していただいてもよいでしょうか」
言われた志敬が訳も分からず、こうですか? と両手を差し出す。
すると、範玲が、ちょっと失礼します、とその手をぎゅっと握った。
「おわ!? どうしました!?」
志敬が驚いて声をあげる。
しかし、範玲はかまわず志敬の手を握る。更に志敬の目をじっと見つめた。
突然のことに志敬は固まって動けない。
瞬きもせず見つめていたが、範玲は首を傾げると、手を離した。
「突然すみませんでした。ありがとうございました」
心なしかしょんぼりして頭を下げる。
理由も聞かされず、手を握られた志敬はわけがわからずおたおたしている。
近くにいた順貴を振り返り、目で問うが、順貴は首を振る。
「私もさっき同じことをされた」
その横で三人目の同僚の正宗も頷く。
「君山殿にも同じことしてた」
範玲のその行動の意味がわからず、三人は首を捻るばかりだった。
*
「範玲殿」
冷んやりとした夜の空気を感じながら、範玲が屋敷の中庭で膝を抱えて池の水面をぼんやり眺めていると、背後から名前を呼ばれた。
その声に反応して心臓が、きゅう、と締まる。振り向かなくても誰なのかわかる。
「相変わらず夜に出歩いてるのだな」
返事ができないでいる範玲の横に昊尚が腰を下ろした。ほんの少し風が揺れて範玲の胸がどきりと脈打つ。
何の用だろうか。
範玲の意識が昊尚がいる方に集まり、左半分が固まったように動かなくなる。
昊尚も少し黙る。
どう切り出そうか迷っている気配がした。
「……最近、何か、おかしなことをしていると聞いたが……」
目線を外してようやく絞り出した言葉は、昊尚にしては珍しく要領を得ない。
「……? 何のことですか?」
範玲はつい昊尚を見た。
その反応に昊尚が困った顔をする。昊尚は眉間に手をやると、言い方を変えた。
「……志敬殿たちの手を握って、君は何をしたかったんだろうか」
その日の夕刻、昊尚が執務室で上がってきた書類に目を通していると、珠李がやって来た。
躊躇いながら、「お節介かと思いましたが……」と切り出した話によると、範玲が志敬らの手を握っては何かを考え込むという謎の行動をしているということだった。
珠李は「兄たち史館の職員は範玲様には免疫がありますから大丈夫ですけど、そうでない者たちは……。被害者が出ていますので、何とかしてください」と若干責めるように昊尚を見た。範玲に訳も分からず手を握られて見つめられた者たちの何人かが、範玲に熱を上げてしまっているようだ、というのだ。
何故自分に言うのだ、と昊尚が見返すと、「事情はよく存じませんが、昊尚様が適任だと思いましたので」と、いつも昊尚を呼ぶときは"藍公"と言う珠李が、珍しく名前で呼んで、お願いしますね、と言い置いていった。
範玲は昊尚に言われた言葉に再び俯いた。
史館の同僚たちの手を握ってみた後、理淑のいる羽林軍へも行ったのを思い起こす。
「……試してたんです」
「何を」
「どうなるか」
昊尚が怪訝な顔をする。
「どういうことだ?」
範玲は俯いたまま横を向き、黙秘しようとした。
「範玲殿」
昊尚が少し怖い声を出したので、ぽつりと話す。
「だって。昊尚殿があんなことを言うから」
「あんなこと?」
「昊尚殿じゃない人に触れてみたら、本当に好きな人が出てくるかもしれないって」
昊尚は絶句した後、はあーっ、と大きく溜息をついた。
「……どうしてそんな短絡的なことになる? 誤解されたらどうするんだ。……いや、誤解されてるぞ」
「だって。わからないんです」
範玲は俯いて掌を見つめている。
昊尚はその頼りなげな横顔を見た。
自分の言ったことが原因だとなると、強くも言えない。
「そういうことは慌てて試さなくていい。もっと、自然にわかるようになるものだと思う」
範玲が水面を見ながら聞いていると、昊尚の立つ気配を感じた。
範玲はもっと怒られるのかと思っていた。しかし、もう遅いから戻った方がいい、とこの話は終わりになってしまった。
きっと呆れられてしまったのだろう。
範玲は悲しいのと同時に、何だか割り切れない気持ちになった。
昊尚に好きだと伝えたら、それは錯覚だと言う。だから本当にそうなのかと確かめようとしたら、それも
思えばやり方はまずかったのかもしれない。
でも、じゃあ、どうすれば正解なのだ。
「……昊尚殿じゃない人の手を握っても、何ともなかった。昊尚殿に触れた時だけすごくどきどきした。それでも、私は、昊尚殿のこと好きなわけじゃないのですか?」
範玲は立ち上がってそう昊尚の背中にぶつけた。
昊尚が立ち止まり、振り返った。
月の明かりだけでは、昊尚がどんな顔をしているのか、範玲にはわからなかった。
「昊尚殿と手を繋いで心臓が痛くなったのは、錯覚なの? 昊尚殿に会いたい、触れたいって思う気持ちも錯覚なの?」
碧色の目に涙の膜が盛り上がる。
範玲はこぼれ落ちそうな涙を瞬きをしないことでやり過ごそうとしたが、意志とは裏腹に簡単にぼろぼろと落ちていく。
どうしたらこれは止まるのだ。
袖でごしごしと拭いても拭いても止まりそうにない。止めたいのにどうしようもなく湧いてくる涙に混乱する。
胸の中にある気持ちも溜まる一方で逃がし方がわからない。
ああ、もうだめだ。
もう我慢ができない。
「……昊尚殿が、好き。大好き」
涙と一緒に
磁器のように滑らかな頬を真っ赤にしながら、範玲が顔を涙でぐしゃぐしゃにして呟く。
一度
「好き、好き、好き。ど、どうしていいか、わ、わかん、ん、んない」
泣く勢いが強すぎてしゃくりあげてしまい、上手く喋れなくなる。
迷子になった子どものように途方に暮れて泣きじゃくる姿が、一層と心細く月夜に佇む。
昊尚は頭の中で駄目だと自分に言い聞かせながらも、涙で息がつまるほどに泣く範玲に無意識に手が伸ばしていた。
気がつくと昊尚は範玲の細い肩を引き寄せていた。
左肩の痛みを気にする余裕もなく、華奢な範玲を腕の中に包んだ。
昊尚の腕の中で範玲はえぐえぐとしゃくりあげる。
「お、恩、んとか、じゃ、な、ない」
範玲は、昊尚に言われた後に何度も考えたが、この気持ちを錯覚だと片付けられるのはやっぱり納得がいかなかった。
「ちゃんと、聞くだけは、きい、聞いてほ、ほしい。私のこと、す、好きじゃな、なくても」
範玲が途切れ途切れに訴える。
昊尚は大きく息を吐くと、範玲の背をゆっくりとさすった。
「ごめん。わかったから、泣かないでくれ」
範玲のしゃくりあげる声が月の下で響く。
その間、昊尚はずっと範玲の背をさすりながら黙っていた。
範玲は、昊尚を困らせている、と思ったが、どうしても止めることができなかった。その代わり、今日この気持ちを聞いてもらったら、もう困らせるようなことは言わないようにしよう、そう昊尚の腕の中で決めた。
その時。
「好きだから」
昊尚の声が範玲の頭の上から降りて来た。
「……?」
自分のしゃくり上げる声で何と言ったのかよく聞こえなくて、範玲が顔を上げる。
昊尚と目が合う。
「君のことが好きなんだ」
昊尚が困ったような、気まずいような顔で見おろす。
「……嘘だ」
範玲が思わず呟く。
「嘘じゃない。多分、初めて会った時から。君の屋敷の書庫で会ったのを、本当は覚えてる」
放心したように見上げる範玲の目からは、際限なく涙が溢れて来る。
「頼むからもう泣くな。ごめん」
昊尚が右手で範玲の小さな頭を包み、再び胸に抱く。
「だ、だって。そん、んなの、聞いてない」
昊尚の腕の中でくぐもった声がしゃくり上げる。
「まあ、言わなかったから」
「だって、あん、ん、な、いじわる」
「そんなつもりじゃない。でも、悪かった」
昊尚は観念したように言う。
範玲はぎゅうっと昊尚の袖を掴み、顔を昊尚の怪我をしていないところに押し付けた。しゃくり上げるのを止めようとして息を止めると、しゃっくりは呻くような余計におかしな声になった。
そんな範玲の頭を包む昊尚の手はこの上なく優しかった。
顔を押し付けている昊尚の胸からは鼓動が聞こえた。こんなにも昊尚の近くにいることが範玲には信じられなかった。
昊尚に触れてもいいのだと思うと、目が壊れてしまったのかと思うほど涙が溢れた。
昊尚は、泣くなと何度も言いながらも、範玲が泣き止むまで腕の中に置いてくれた。
範玲の目はまたも腫れてひどいことになったが、今度は英賢も理淑も昊尚に詰め寄ることはなかった。
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