第48話 二年仲春 倉庚鳴く 3


 昊尚は平静を保つために静かに息を吸い込んだ。

 範玲も自分の口から出てしまった言葉に動揺しているようだった。


「……耳飾りは……そうだ。君も察していたとおり、私からだ」


 漸く聞くことができた昊尚の言葉に、範玲が顔を上げる。

 しかし、それに続いたのは、範玲が思ってもいない言葉だった。


「だから……君は、私へ感じている恩を錯覚しているのではないだろうか。それに、君が触れて大丈夫だったのは私だけだった。だから、その安心感が、そう思わせたのではないか?」


 昊尚が努めて穏やかな声で言う。

 範玲の顔に困惑と悄然とした色が広がった。

 昊尚は決して範玲にそんな顔をさせたいわけではない。昊尚の胸が痛んだ。

 しかし、静かに言葉を続けた。


「その新しい耳飾りを着ければ、人との接し方も変わるだろう。他の者ともこれまでより気兼ねなく接することができるようになる。そうしたら、たまたまこれまで距離が近かった私でなく……恩を感じている私ではなく、君の本当に好きな男が現れるかもしれない」


 範玲は昊尚の言葉を黙って聞いていた。

 昊尚の真意を読み取ろうとするように、じっと昊尚を見つめている。

 その碧色の瞳に次第に水の玉が盛り上がってきた。

 水滴がこぼれ落ちると同時に、範玲は頭を下げた。


「……耳飾りのこと、本当に感謝しています。ありがとうございました」


 懸命に震えを抑えようとする声がそう言うと、範玲は昊尚の顔を見ないで部屋を後にした。



「ちょっと、昊尚。彼女、泣いてたみたいだけど、どういうこと?」


 範玲が出て行った後、大雅が慌てて入ってきた。


「仲直りすると思って気を利かせたのに」

「仲直りも何も、いさかいなどしていない」


 昊尚は深い皺を刻んだ眉間に手を当てて卓に寄り掛かっていた。

 また範玲を泣かせた自分に内心で悪態をつく。


「彼女のこと好きなんだろ? 好きなのに何で泣かすのさ。彼女だって……」

「彼女は男に免疫がないから、恩があってたまたま距離が近い私に感じた親しみを錯覚しているだけだ」


 昊尚が大雅の言葉を遮り、自嘲気味に言う。


「え? 彼女に好きって言われたの? そんでそれ言ったの?」


 信じられない、という目で大雅が昊尚を見る。


「……お前、どれだけ欲張りなの?」


 大雅が、あーあ、と嘆息する。


「昊尚は他のことは頭が切れるのに、こと範玲ちゃんのことになると、突然迷走し始めるね」

「うるさい」

「そんなんだと、他の奴に取られるよ」


 大雅が、いいのか? と昊尚を覗き込む。


「……範玲殿にとってそれが最良なら仕方がないだろう」


 覗き込んでくる大雅から顔を背ける。


 範玲が自分のことを好きだと言った時は、思わず手を伸ばしてしまうところだった。

 しかしだ。

 自分はたまたま範玲と距離が近い。心を読まずに触れられる唯一の人間だったようだ。その安心感を勘違いしていないとどうしていえる。

 それに、範玲にとって、自分は耳飾りの贈り主だという恩もあるだろう。

 範玲が自分に抱いてくれている感情は、本当に自分が欲しいものなのか、確信が持てない。本当に範玲に手を伸ばして良いのかわからないのだ。


「お前、面倒くさすぎる」


 大雅の言う通りだ。


 昊尚はまた溜息を吐いた。





 範玲は屋敷に帰ると、自室に閉じこもった。英賢が心配して様子を見にきたが、こんな顔を見せられないので、申し訳ないと思いつつ範玲は寝てしまった振りをした。

 寝た振りをしたものの、夜中になっても眠れなかった。

 範玲は中庭にこっそりと出ると、池のほとりのいつもの場所に膝を抱えて座る。

 範玲の心の中とはうらはらに、見上げると月が穏やかに浮かんでいる。夜の冷たい空気は泣きはらした目にはちょうど良かった。

 範玲は周家でのことをまた反芻した。もうずっと同じことを考えている。


 あんな風に、気持ちを伝えるつもりはなかったのに、好きだと言う言葉がつい口から出てしまった。

 それに対して、昊尚は錯覚だと言った。

 確かに、これまで範玲は家の者以外の異性とは面識がなかった。それに心を読んでしまう恐れのない昊尚なら、触れることができた。距離は誰よりも近かったと言える。

 耳飾りのことで感謝していることも事実だ。

 だから、自分は昊尚のことが好きだと思ったのだろうか。

 自分に好きだと言われることは、迷惑なことだったのだろうか。だから、錯覚と言ってやり過ごしてくれようとしたのかもしれない。


 迷惑をかけてしまった。


 そう思うと、気持ちが沈んだ。

 それに、せっかく耳飾りを贈ったのは自分だ、と本人に言ってもらえたのに、あんな中途半端な感謝の言葉しか言えなかったことにも情けなくて落ち込んでいた。

 範玲は改めて自分の気持ちを思い返してみた。


 会いたいと思うのも、手を繋がれて鼓動がうるさかったのも、央凛に嫉妬したのも、あれもこれもみんな錯覚だったのだろうか。

 だとしたら、この胸の苦しさは何なのか。

 当の相手にそう言われてわからなくなってしまった。


 範玲は膝を抱えて水面を見つめた。



 範玲はしばらく中庭にいた後、とこに戻り横になった。止まったと思った涙は、時折じんわりと出てきてはまた範玲の気持ちを乱した。

 いつの間にか眠ったようで、早朝に目が覚めると、範玲の目は腫れてしまっていた。

 昨夜あれだけ泣けば仕方がない、と冷たい水で濡らした手巾で冷す。

 範玲の顔を見て、侍女は今日は史館を休んだらどうかと言うが、範玲はそれしきのことで休むつもりはなかった。目が腫れているだけで、体調が悪いわけではない。気分は落ち込んでいるが。

 せっかく昊尚のお陰で史館で働けるようになったのだ。いい加減な態度で臨んでいると思われたくはなかった。

 周りにも。昊尚にも。

 そんな張り詰めた様子の範玲に、英賢は、昨夜昊尚と何があったのか聞くことはできなかった。理淑ですら、心配そうにそわそわするだけで、範玲の目の腫れている理由を聞くことはしなかった。





 昊尚が登城すると、執務室には腕を組んで壁にもたれた英賢が待っていた。


「どうしたんですか。早いですね」


 何となく用件はわかっていたが、昊尚が敢えて聞く。

 英賢が、あ、そういう態度なんだ、という顔をして言った。


「今朝、範玲の目が泣き腫らしたようだったんだ。何でだろうね?」


 顔はにこやかだが受ける圧力が凄い。英賢が非常に不機嫌なのが伝わってきた。


「……」


 どう答えようかと昊尚が黙る。


「昊尚は範玲を泣かせるようなことはしないと信じてたんだけどな。昊尚は範玲のことをちゃんと考えてくれてると思ってたんだけど」

「……考えてますよ」


 昊尚が頭を掻く。

 昊尚は沈黙を通そうと思ったが、英賢の先を促す笑顔がそれを許してくれない。


「……範玲殿は錯覚をしているだけかもしれないじゃないですか。耳飾りをくれたということに恩を感じているだけかもしれないじゃないですか。今まで心を読む心配なく安心して触れることができたのは私だけだった。だから、私のことを慕っていると思い込んでいるだけかもしれないじゃないですか。雛が最初に見たものを親だと思うように」


 昊尚が言うと、英賢は毒気を抜かれて昊尚を呆れたように見た。


「……相当拗らせてるね」


 英賢は、やれやれ、と肩をすくめた。


「君には本当に感謝してる。君になら範玲を任せても安心だと思うから、どうこう言いたくはないんだけどね」


 一つ溜息を吐くと、あまり泣かせないで、と言って英賢は部屋から出て行った。

 と、思うと一度引き返してきて、物騒な忠告を置いて行った。


「そうそう。理淑が相当怒っているみたいだから、気をつけて」


 



 昼過ぎに昊尚が書類を見ながら皇城の回廊を歩いていると、殺気を感じてふと顔を上げる。


「昊尚っ、……殿っ!!」


 理淑が仁王立ちしていた。

 昊尚を呼び捨てにできないのは、今ひとつ理淑が状況を理解できていない遠慮からだろうか。


「どうした」


 英賢の予告があったから、用件の想像はついているが、昊尚が静かに聞く。


「どうした、って!! 姉上を泣かしたでしょっ!!」


 理淑が抜剣しそうな勢いで一歩踏み出す。が、そこで理淑は後ろから襟首を掴まれる。


「わわっ!」


 理淑がよろける。


「何をしているんですか」


 佑崔だった。


「大声で騒がないでください。迷惑でしょう。ほら、皆見てます」


 溜息を吐きながら佑崔が理淑を咎める。


「だって! 昊尚殿が!」


 むくれて抗議するが、佑崔が淡々と応じる。


「昊尚殿が何ですか」

「……わかんないけど、姉上を泣かせたみたい」


 佑崔が呆れた顔で眉根に皺を寄せる。


「わからないのに子どもみたいに首を突っ込まないでください」

「子どもじゃないし!」


 抗議する理淑を佑崔が軽く無視する。


「ほら、午後の鍛錬に遅れますよ」


 佑崔が、どうしていつも私が……とぶつぶつ言いながら、猫の首根っこを掴むようにして暴れる理淑を連れていった。

 恐らく英賢が理淑の暴走を止めてくれるように、佑崔に頼んでくれたのだろう。

 昊尚は遠ざかる二人を見送った。


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