第47話 二年仲春 倉庚鳴く 2


「範玲、いい?」


 扉の外から英賢の声がかかった。

 範玲はぐずぐずの目元を拭いて、はい、と応えると、英賢が手に何かを持って入って来た。

 泣きはらした範玲の顔を見ると、英賢の美しい眉が曇った。


「大丈夫?」

「平気です。ちょっと目にゴミが」


 慌てて答えるが、英賢の曇った眉は戻らない。


「兄上こそ、どうしたのですか?」


 範玲が目を逸らすと、英賢は何かを言いたげに範玲を見たが、用件を伝えることにしたようだ。


「……新しい耳飾りが届いたよ」


 え?


 思わず英賢を見る。


「この間いただいたばかりですよ。それに凄く調子がいいので、新しいものは別に……」


 困惑する範玲に、英賢が微笑む。


「とりあえず、着けてみて」


 手渡された青い亀甲形の耳飾りは今着けている四つ目の耳飾りの石よりも、少し透明度が高い。


「一つ……?」


 範玲が聞くと英賢が頷く。

 右耳の耳飾りを外して、渡されたものに付け替えてみた。


 何が違うのだろうか。

 聞こえ方は変わらない。


 不思議そうに見上げてくる範玲に、英賢が、どう? と聞く。


「違いが、わからないのですが……」


 そう言った時、英賢の指が範玲の目の下に触れた。


「誰に泣かされた? 目が腫れてる」


 言われた内容にもどきりとするが、英賢が範玲に触れたことに驚き、一瞬身構える。


 ……。


 しかし、頬に触れたにもかかわらず、英賢の考えていることは範玲に流れ込んで来なかった。

 英賢の指の温かい温度を感じるだけだ。


「……え?」


 英賢が範玲を注意深く、探るように見る。


「……どう? 私が今何を考えているかわかった?」


 英賢の問いに、範玲はふるふると首を振った。

 すると、英賢は天を仰ぎ、大きく息を吐いた。

 そして、笑いながら範玲を抱きしめた。


「凄いな!」


 英賢に抱きしめられた範玲は、何が何だかわからない。ぎゅっと抱きしめられても英賢の思考は流れてこない。


「え? どういうことですか? 兄上も修行したの?」


 昊尚と同じく、英賢も思考を漏らさない技を身につけたということだろうか?


 それを聞いて英賢がさらに笑う。


「違うよ。その耳飾りだよ!」


 今渡された耳飾りのお陰だという。にわかには信じられない。

 英賢の笑い声を聞きつけて、理淑がやって来た。


「何!? どしたの!?」


 上機嫌な英賢の説明を聞いて、理淑は快哉を叫んで範玲に飛びついた。


「姉上!」


 理淑の桃のような頬をぎゅうぎゅう押し付けられても、その態度からは凄く興奮して喜んでいるのはわかったが、理淑が何を考えているのかは、感じられない。

 二人にもみくちゃにされながら、範玲は呆然とする。


「本当に?」


 まだ信じられない。


「じゃあ、それを外して私に触れてごらん」


 英賢がいたずらっぽく笑う。

 言われた通り、範玲は右の耳飾りを外して脇机に置くと、英賢の手を恐る恐る握った。


--昊尚の奴。範玲を泣かせるなんて許せないな。


 範玲は驚いて手を離した。


 ど、どこで聞いて来たのか……。


 範玲が慌てる。

 英賢はそんな範玲を見て微笑んだ。


「その耳飾りを着ければ、触れてもその人の心を読まなくて済むよ」


 四つ目の耳飾りのお陰で、音の問題が解決して、それだけで十分だったのに。

 範玲は考えもしなかったことに頭の整理ができない。


 こんなことがあるなんて。


「……兄上、これはどなたが……?」


 震える手で青く透明な亀甲形の耳飾りを取り、改めて見つめる。


 もしかして。


 心臓が痛い。

 切なくて泣きたくなる。


「ごめん。私の口からは言えない」


 英賢からは相変わらずの答えが返って来た。しかし、範玲の顔を見て眉を下げると、範玲の手を取った。

 すると、英賢から、昊尚が玄海に行っていたことと、昊尚への感謝の気持ちが伝わって来た。

 範玲は英賢を見上げた。


「そういうことだよ」


 では、昊尚のあの怪我は、この耳飾りを得るために、玄海で負ったものだということだろうか。

 範玲の顔が不安に染まるのを見て、英賢が言った。


「昊尚の怪我は、文始先生が作った薬を大雅殿が届けてくれたから、もう大丈夫だそうだ。心配かけてすまなかった、って昊尚が言っていたよ」

「昊尚殿が来たのですか?」

「ああ。さっきね」


 範玲は居ても立ってもいられなくなった。


「……あの……」


 そわそわする範玲に、英賢は、仕方ないな、と言って、出かけるのを許可してくれた。



 子常に付き添われて周邸に着き、おとないを告げると、中へと通された。

 客間へ案内され、椅子に腰を下ろしてみると、範玲はどういう顔でいたらいいのかとたんに不安になり始めた。

 座ったり立ったり部屋の中をうろうろとしていると扉が開いた。

 入って来たのは、昊尚ではなく、昊尚の甥の昌健だった。


「申し訳ありません。叔父上はまだ帰っていません」


 すまなそうに教えてくれるが、会いに来たのに、会えなくてほっとする。いないとわかって緊張していた範玲の気持ちが緩む。


「範玲殿がうちにいらっしゃるなんて珍しいですね。今日はどうされたのですか?」


 昌健が嬉しそうに言う。昌健は亡くなった昊尚の兄の長男だ。

 昌健は先日十三歳になったばかりだ。本来ならば、周家の当主である藍公は昌健が担うはずだが、まだ若すぎるため、代わりに昊尚が藍公を引き受けている。

 父親が亡くなった後しばらくは屋敷に籠っていたが、本が好きだということで、最近夏家の書庫へ時々来るようになった。自然、範玲とも話す機会ができた。


「少しお話をさせていただきたくて。でも、いらっしゃらないのならまたにします」

「まだ早いですし、待たれては? 叔父上も今日は遅くならないと思います」


 範玲が腰を浮かしかけると、昌健が引き止める。


「では、少しだけ待たせていただきます」


 再び腰を下ろすと昌健も嬉しそうに向かい側に座る。話し相手になってくれるつもりのようだ。あれこれと最近読んだものの話をする。

 昌健のほんの少し青みがかった黒い瞳が昊尚に似ている。

 そういえば、昌健は初めて会った時の昊尚と同じ歳だ。こんな感じだったな、と思うと自然に範玲の顔が綻んだ。


「範玲殿」


 不意に呼ばれて範玲が振り向くと、昊尚と大雅が扉口に立っていた。昌健と似ている青みがかった黒い瞳には、一瞬戸惑いの色が付け足された。

 範玲が思わず立ち上がる。

 大雅は昊尚と範玲二人を交互に見ると、「ちょっと見せたいものがあるんだよ」と、昌健の肩を抱え、子常も引っ張って部屋から出て行った。

 扉は開いているものの、部屋には範玲と昊尚の二人きりとなってしまった。

 話をしに来たのに、どう話すか考えてこなかったのに気づき、範玲が途方に暮れていると、昊尚が口を開いた。


「……昼間は、申し訳なかった」


 あの後、昊尚は大雅に懇々と説教をされた。大雅は範玲の例の力のことを知らないはずなので、昊尚の本当の意図は理解していないだろうが、叱られても仕方のない言い方をした。今も腫れぼったい範玲の目元を見て、昊尚の心は痛む。


「いえ……。そんな。……それで、あの、怪我は、大丈夫ですか?」


 あくまでも怪我を心配する範玲に、昊尚は改めて昼間の自分を悔いる。


「ああ。ありがとう。もう本当に大丈夫だ。大雅が届けてくれた薬が効いてきたから」


 範玲が執務室を訪れた時、ちょうど大雅が薬と耳飾りを持って来たところだった。

 文始先生のくれた薬を飲むと、傷の痛みが和らいだ。新しい軟膏も今使っている。

 範玲が、よかった、とほっと息を吐いた。

 そのまま沈黙が降りる。


「……あの」


 範玲が意を決したように口を開いた。


「耳飾り、ありがとうございました」


 範玲が真っ直ぐに昊尚の瞳を見た。少しの心の動きも見逃さないようにするかのように。

 耳飾りが喜招堂経由だというのは以前に昊尚自身が認めたことなので、昊尚はそのまま範玲の言葉を受け入れる。ただ、表情を崩さないように範玲を見返す。


「……兄上や理淑に触れても、大丈夫でした」


 右の耳飾りに触れながら、範玲が言った。


「……そうか。それは良かった」


 昊尚は安堵の息をついた。


 よかった。耳飾りは成功だ。


 なのに、範玲の表情が晴れない。どうしたのかと昊尚が訝しむ。


「その怪我は、玄海で?」


 昊尚を真っ直ぐに見つめる範玲の瞳が震える。

 英賢が昊尚が玄海に行っていたことを言ってしまったことを昊尚は察した。それはこの耳飾りが昊尚からだと言っているようなものだ。


「……いや」


 昊尚が言うと、範玲の瞳が傷ついたように大きく揺れた。


「どうして、隠すのですか?」


 範玲の声が掠れる。昊尚は何と言葉を返そうか逡巡する。


「私に感謝されるのは迷惑ですか……? 心配もしてはいけないのですか?」


 範玲は必死で涙を堪える。


「貴方が好きなんです」


 涙は堪えられたが、気持ちはこぼれてしまった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る