第46話 二年仲春 倉庚鳴く 1


 不撓ふとうの梅が散ると間も無く、西内苑の他の枝垂れ梅たちが咲き始めた。梅林は今が見頃だ。

 範玲は昊尚に連れられて不撓の梅を見に来て以来、昼餉の後に梅林に来るのが日課のようになっていた。

 範玲はとき色の 花をつけた枝の間をゆっくりと歩く。


 もう少しすると花も終わっちゃうな。


 不撓の梅よりもほんの少し色の薄い梅の花を見上げながら思う。

 不撓の梅は、あの後数日で花が散ってしまった。梅にしては随分と開花期間が短い。昊尚に連れて来てもらわなかったら、きっと見られなかっただろう。

 あの梅も見事だったが、この西内苑の梅林も、一斉に咲いている景色は素晴らしい。


 ……昊尚殿はこれを見たことがあるのかな。


 範玲は、見上げた時の、ふっと笑った昊尚の顔を思い出して一人赤くなる。


 やだなぁ。

 まだダメだ。


 熱くなった頬を手で扇ぐ。

 しかし、昊尚が紅国に発ってからの日数を思い、扇ぐ手が止まる。

 もう二十日近く経っている。


 ”上手くいけば十数日で帰って来る”と言っていたのに。帰って来ていないということは、”上手く”いっていない、ということだろうか。何をしに紅国へ行くかは聞いていなかった。

 大丈夫だろうか。


 日を追うごとに少しずつ範玲の不安は増した。

 


 その二日後、英賢から昊尚が帰ってきていることを聞いた。

 無意識に笑顔になった範玲に、英賢が躊躇いがちに言った。


「怪我をしてるみたいだよ」


 範玲は心臓に冷たい水をかけられたような気がした。

 喉の奥が張り付いたようになって声が出ない。


「……怪我、って、どんな……」


 ようやく出た声はかすれていた。


「詳しくは教えてくれないんだけどね……。とりあえず大丈夫みたいだよ。明日は宮城に顔を出すって」


 英賢も心配そうに呟く。


 怪我って……。


 範玲は動悸が止まらない胸の上でぎゅっと手を握り締める。


 宮城に来るというのだから、とりあえず無事ではあるのだろうけど。


 ざわざわとした胸の奥の感触が治らず、範玲はその夜眠ることができなかった。





 範玲は午前中の業務を何とか乗り切り、昼餉を取る時間ももどかしくて、急いで昊尚の執務室へ向かった。


 用事もないのに訪ねるのはどうかと思うし、昊尚だって溜まった仕事があるに違いない。でも、このままでは気になって午後の仕事が手につかない。


 範玲は、自分勝手だと思いながらも行くのをやめておこうとは思わなかった。とにかく一目、確認がしたかった。

 昊尚の執務室に声をかけると、ちゃんと昊尚の声が応えてくれてほっとする。

 はやる気持ちを抑えて戸を開けると、昊尚と紅国の皇太子の大雅がいた。


「……あ、すみません。お客様でしたか」


 慌てて扉を閉めようとすると、大雅が人懐こい笑顔で迎えてくれた。


「大丈夫だよー。入っておいで」


 躊躇った後、大雅の言葉に甘えて中に入る。


「久しぶりだな。変わりないか?」


 昊尚の笑顔が範玲に向いた。その顔を見て、範玲は力が抜ける。


「どうした?」


 昊尚が微笑んだまま聞く。


「お帰りと聞いて」

「会いにきてくれたのか」


 揶揄からかうように昊尚が笑う。

 揶揄われているのに、久しぶりの昊尚の姿を目にして胸が熱くなるのが不思議だ。

 怪我をしたと聞いたが、とりあえず無事そうで安心する。


「お怪我は大丈夫ですか?」

「ああ。大したことはない」


 昊尚は素っ気なく答えるが、顔色は明らかに悪い。二十日程見ていないだけなのに、随分とやつれた気がする。

 範玲は昊尚の体の左側の動きがぎこちないのに気づく。


「本当に? どこを怪我されたのですか?」

「大事ないから」


 答えてくれない昊尚に範玲が近寄ると、昊尚が咄嗟に立ち上がる。


「……っ!」


 動いた拍子に怪我に障ったのか、昊尚が思わず左肩を庇うように前のめりになった。

 範玲が驚いて昊尚を支えようとする。


「……触れるな」


 昊尚が痛みに耐える声で呻き、範玲の手を避けた。

 その言葉に範玲は足がすくむ。


「昊尚……!」


 大雅が昊尚を咎める。

 昊尚ははっと我に返ると、目に後悔の色が浮かぶ。


「……すまない。言い方を間違えた」


 青ざめて立ちすくむ範玲に手を伸ばそうとして、踏みとどまる。


 今範玲に触れることはできない。


 昊尚は伸ばしかけた手を下ろした。


 黯禺につけられた怪我のせいで、昊尚はまだ感情や思考に蓋をすることができない。だから、今範玲に触れられると、心の中が読まれてしまう。

 何故こんな怪我をするようなことになったのか。

 それを知ったら、範玲は心苦しく思うだろう。

 そして何より、範玲に対する気持ちも漏れ出てしまうだろう。


 こんな形で知られたくはない。


 だから、触れて欲しくなかった。


「……大丈夫だから。心配しなくていい」


 昊尚が後悔を噛み締めながら言いなおす。


「……すみません。押しかけてきてしまって。ごめんなさい。帰ります。だ、大丈夫なら、それで、いいです……。……お大事にしてください」


 範玲は昊尚の目を見られないまま俯いて言うと、できるだけ気にしていない振りをして昊尚の執務室を出た。

 背後で昊尚が範玲を呼ぶ声が聞こえたが、こぼれてしまった涙を見られたくなかったので、立ち止まることができなかった。



 範玲は昊尚の執務室を出た後、その足で西内苑の梅林に来た。

 衣服が汚れるのもかまわず不撓の梅の根元に膝を立てて座り、ぼんやりと梅を見つめる。


「はーんれいちゃん」


 自分を呼ぶ声の方向へ機械的に目をやると、大雅が手を振りながらやってくるところだった。

 慌てて濡れている目元を袖口でごしごしと拭いて、何食わぬ顔をする。


「ここすごいね。いい景色」


 そう言いながら、大雅は範玲の横に座った。

 大雅はそのまま梅を眺める。

 範玲は膝をぎゅっと抱え直して、出来るだけ平静を装って口を開いた。


「……昊尚殿はどうして怪我をされたのですか……? 怪我は、本当に大丈夫なのでしょうか」


 範玲は前を向いたまま聞いた。声が少し震える。


「うん。怪我は大丈夫だよ。まだちょっと痛そうだけどね」


 ほんとに、と大雅が付け加える。

 範玲は、なら良かった、と呟く。

 じっとしていると、先程昊尚が範玲に放った言葉を思い出してまたじんわりと涙が湧いてくる。範玲は溜まった涙を落とさないように瞬きするのを我慢する。


「……私は、昊尚殿にいつも助けてもらうばかりで、何にも返せてない。私は心配すらさせてもらえないのでしょうか」


 声を発した拍子に範玲の碧色の目から大粒の水滴がはらりと落ちる。慌てて袖で拭いて誤魔化す。

 そんな範玲を横目で窺い、大雅が言う。


「昊尚は君に余計な心配をかけたくないだけなんだよ」


 大雅の穏やかな声がなだめるように言う。

 その声は更に範玲の目の奥を刺激する。


「……心配くらいは、させてほしいです」


 範玲が小さく言う。


「そうだよね。……ごめんね。昊尚のあの怪我は私を庇ってくれたからなんだ。でも大丈夫だよ。文始先生からよく効く薬をもらってきたから直ぐに治るよ。だから本当に心配いらないから」


 範玲は止まらなくなってしまった涙を見られたくなくて膝に顔を埋めて丸くなる。


「ごめんなさい。怪我をして辛いのは昊尚殿なのに、こんな態度。心配させろ、なんておかしな話ですよね」


 くぐもった声で範玲が言う。

 範玲の細い首がひどく頼りなげに見える。

 大雅は範玲には誤解されないように、静かに溜息をついた。


 阿呆かあいつは。泣かせてどうする。


 大雅は昊尚に内心で毒づく。


 言い方が悪すぎるだろ。

 あんな言い方をされたら誰だって傷つく。

 大方おおかた弱った姿を見せたくないんだろうが。格好つけめ。


 大雅は範玲を慰める言葉を探した。




 範玲は午後の仕事には泣いて腫らした目のまま戻った。

 史館の同僚たちは、一体何があったのかとやきもきしているようだったが、聞かずにいてくれた。心配をかけて申し訳ないと思ったが、話せることでもない。

 子常が迎えに来てくれる頃には目の腫れも引いたが、思い出すとまた目元が怪しくなる。


 どうしてこんな風になるのか。


 そういうことに疎い範玲でも、さすがに自覚した。


 自分は昊尚のことが好きなのだ。

 友人としてではなく、男の人として。


 そう認めてしまうと、これまでのことにも納得ができた。

 笑いかけられて顔が熱くなるのも、手を繋がれて幸せな気分になるのも、逆に心臓がばくばくするのも、央凛と仲が良いのを見てもやもやしたのも、昊尚の顔を見ると嬉しいのも、全部、昊尚のことが好きだからだ。


 怪我をした昊尚が心配だ。そばにいさせてほしい。

 だから、”触れるな”と言われたことが、堪らなく悲しいのだ。


 思い出してまたじわりと涙が溜まって来た。


 やだなぁ。


 鼻を啜りながら自己嫌悪に陥る。


 怪我をしたと聞いて、不安で眠れなかった。だから、とりあえず無事を確認できて、顔を見られて嬉しかった。

 それで充分ではないか。


 範玲は自分に言い聞かせた。


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