第45話 二年孟春 草木萠え動く 5
半日程眠ると目が覚め、水や毒消しを飲んで傷に軟膏を塗り直す。そして再び眠るということを繰り返して、四日目。
昊尚は今度は暑くて目を覚ました。
目の前の光景は、これまでと同じ。炉の火が赤々と燃えており、横から大雅が覗き込んでいた。
--大丈夫?
毒消しを飲み続けても、変わらず回復する様子が見られなかった昊尚を心配して、碌に眠っていないのではないか。
大雅の顔色も悪い。
昊尚は目線の先にあった左手の指を動かしてみる。
これまでは少しでも身体を動かすと、激痛が走っていたが、ぎしぎしとした痛みに変わっていた。何かで固定されているのではないかと思うほど動かし辛いが、一応動く。自分の手ではないような感覚がする。
そして、ずっと寒気が止まらなかったのに、今は逆に暑い。全身汗びっしょりだ。
黯禺につけられた傷は相変わらず熱を持ち、ずきずきと痛み、その周りを蟲が這っているような感触はあるが、死ぬかもしれない、という不安は感じなくなった。
--良くなった気がする。
昊尚の唇の動きに、大雅は大きく安堵の息をついた。
--……よかった。
文始先生の毒消しが効いたということだろうか。万能毒消しなどと胡散臭い命名だが、やはり文始先生の腕は確かだったようだ、と再認識する。
昊尚は、大雅に起こしてもらい傷を確認した。
傷はまだじくじくとした状態で赤黒くなっている。決して治ってきているとは思えないが、血は流れ出ては来なくなった。
結構ひどいな。
昊尚は自分で目視して改めて認識する。
引き続き毒消しを飲み、大雅に軟膏を塗ってもらう。
まだ傷がこんな状態では、この
玄亀の甲羅は、後二日焼かなくてはならない。もう二日程安静にしていれば、自力で体を動かすことができるようになるのではないか。
そう思い、昊尚が大雅に、先に帰ってもいいぞと伝えると、馬鹿か、と本気で怒られた。
泉で汲んでもらった水で身体を拭くと、少し気分も回復する。
昊尚は、まだ身体は自由に動かせないが、背をもたせかけるものがあれば座っていられるようになったので、大雅と交代で炉の火の番をすることにした。
大雅は、何かあったら起こせよと、言って横になると、直ぐに寝息を立て始めた。
ほとんど寝ていなかったに違いない。
理由も聞かず、損得を抜きにここまで付き合ってくれる他国の皇太子の知友を、昊尚はしみじみと眺める。こんなに人が
昊尚は自分に貸してくれていた大雅の上衣を、動く片手でなんとか返して大雅に掛けると、炉の中を覗いた。玄亀の甲羅は、最初より随分小さくなり、火の中で赤々と燃えていた。見た限り、順調だ。
広場に積み上げられていた
順調に炉で玄亀の甲羅を焼き続け、ようやく六日が経った。
昊尚の傷の状態は経過が良いとは言えなかったが、傷以外の身体の痛みは引いたため、自力で動けるようになった。
炉の中の火が消えるのを待って、灰の中を探ると、小指大の亀甲形の石が現れた。
灰を落として、手燭の火にかざすと、透明な深い青色に輝いた。
上手くできたようだ。
後は、性能を確かめるだけだ。
ちょうどここには実験できる環境がある。黯禺に気づかれないか試せば良い。
昊尚が立ち上がろうとすると、大雅がそれを制して、青い石をつまんだ。
--これ、例の呪禁師から身を守るためにあげるの?
大雅が石を覗きながら聞く。昊尚は、そうだ、とだけ答える。範玲の心を読んでしまう力については言えない。
--これを持って、黯禺の前で思考の蓋を開ければ良いんだよな。
説明をしていなかったが、大雅は求められる性能を理解していた。
大雅は桂の樹々の間を抜け、泉へと向かった。
暫くすると、大雅が興奮して戻って来た。
--成功だ。
亀甲形の青い石を、昊尚に手渡した。
--黯禺のそばまで行って、頭の中で散々罵ってみたけど、気付かれなかった!
大口を開けて声なく大笑いする。
胸の傷のせいで、まだうまく心を無の状態にすることができなくなっている昊尚も、青い石を持って黯禺の近くまで行ってみたが、黯禺に気付かれる様子はなかった。
昊尚の仮説が正しかったことになる。
この石は思考が漏れるのを遮断する。
範玲の心の声を聞く力を抑制するというより、流れ込んでくるのを防ぐ壁、という役割を果たすのではないか。きちんと機能するかどうかは、実際に範玲が身につけてみないとわからない。しかし、少なくとも可能性は出てきた。これが意図したように作用すれば、範玲は人に触れないように、と怯えて暮らす必要がなくなるだろう。
昊尚はこの石を身につけた範玲を思う。
満足げに微笑む昊尚を見ると、大雅は、じゃあ、帰ろっか、と笑った。
桂の林から出て玄海を歩くには、黯禺に気付かれないよう、心の声を漏らさないようにしないといけない。
黯禺に付けられた傷のせいで、昊尚はまだ自力でそれができないが、今回作った玄亀の石を身につけていれば、安全に玄海を歩くことができる。
二人は桂の群生地の広場を片付け、帰路についた。
泉から
傷が癒えていない昊尚にとっては、ただ歩くだけでも苦痛であるのに、獣たちをあしらわなくてはならないのは余計な作業だ。
お陰で道中は痛みをひたすら耐える苦行になった。痛み止めを飲んでも、傷の痛みは大して良くはならない。黯禺につけられた傷はしつこい。
唯一良いのは、痛みで声を漏らしても、玄海なら誰にも聞かれることがないことだけだな、と昊尚が自虐的に笑う。
行きの倍の時間をかけて、漸く謐の郷へ帰り着いた。
郷に着くと、昊尚はひどい顔色で、ちょっと眠らせて、と言って横になった。そしてそこから三日間眠り続けた。
昊尚は、目を覚ますと三日も眠っていたことに驚き、早速帰り支度を始めた。
それを大雅が慌てて止める。
「文始先生に傷の薬を頼んで来た。薬が届くまで待ったらどう?」
昊尚が眠っている間に、大雅は文始先生に昊尚の傷の相談をしに行ってきたのだ。文始先生は、黯禺の爪が裂いた昊尚の衣服を受け取ると、それから毒を調べて何が効くか考えてくれると言ってくれた。
「すまんな。だけど、とりあえず痛みは傷だけになったから帰るよ。あまり長いこと職務を放って置けないしな。……それこそ、お前もだぞ」
昊尚が笑う。
明らかに顔色は悪く、無理をしているのがわかる。しかし、昊尚が言い出したら聞かないのも大雅は知っていた。
「……わかったけど……無茶はするなよ。薬は貰ったら届けてやるよ」
「じゃあ、もう一つ頼みをきいてもらっていいか。玄亀の石をいつもの職人に加工してもらって、一緒に送ってもらえると有難い」
「わかった。急いで耳飾りにしてもらうようにする」
大雅は、やれやれ、と苦笑しつつ承諾した。
心配してくれる謐の郷の人たちに別れを告げ、帰り道を馬で移動する。
傷をしっかり固定をしてはいたが、馬上では振動が傷に響く。おまけに左手が痺れていたので、片手で手綱を握り、ゆっくりと進むしかなかった。
紅国の首都華京に戻ると、大雅の弟の寛優が青筋を立てて待っていた。
それでも、昊尚の顔色を見ると、心配してあれこれ世話を焼いてくれた。
その隙に大雅が逃げようとしたが、逃げ切れず、大雅の皇太子としての自覚の無さについて寛優の説教が始まった。責任の一端がある昊尚が、自分が悪いのだと助け舟を出したが、二人一緒に説教をされる羽目になってしまった。
一通りの説教が終わると、寛優は昊尚に華京で医師にかかっていくことを勧めてくれた。しかし、昊尚が急ぎ帰りたい旨を伝えると、付き添って行こうとする大雅に再び説教を垂れたうえで、昊尚には蒼国まで従者をつけてくれることになった。
「じゃあ、本当に無茶するなよ。薬と耳飾りはまた届けるから」
大雅の心配そうな見送りを背に、昊尚は蒼国へと馬を向けた。
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