第44話 二年孟春 草木萠え動く 4
*
昊尚と大雅は馬を
これまで幾度となく来ているが、何度来ても慣れない。
前回、玄亀を捕獲した泉に行った時に付けた印を辿り、慎重に歩を進める。初めて行く場所は非常に神経質に印をつけながら歩くが、今回はまだ良い。
ただ、行く先に
途中、獣や蟲に出くわすが、こちらに大きく危害を加えてくるものではなかった。
丸一日歩き、無事に例の泉についた。
いないことを期待したが、黯禺はまだいた。泉の辺りをうろうろとしている。
大雅に黯禺を見張ってもらいながら、泉を覗いた。
相変わらず水が澄んでいて、泉の底まで手燭の灯りが届く。しかし、玄亀は目の届く範囲にはいない。
泉の周囲を移動しながら、底をさぐると、ようやく一匹玄亀を見つけた。
黯禺から身を隠す必要はないが、水飛沫がかからないよう慎重に網を投げ、玄亀を捕獲する。
引き揚げた玄亀は前回同様、鮮やかな青色を発していた。
それを確認した時、不意に羽虫の集団が雲霞のごとく向かってきた。
そして、それを追って来たように、草むらが割れると、人の背丈ほどもある蛇が鎌首をもたげた。しかもそれは体に頭を二つ付けていた。
双頭の大蛇だ。
大雅が羽虫に邪魔されながらも剣を抜き、向かってくる大蛇に斬りかかる。
しかし、二つのうちの一つの頭がその剣を逃れ、怒り狂ったように大雅に牙を向ける。大雅は羽虫で視界が邪魔されて、いつもより動きが鈍い。顔に焦りが見えた。
大蛇が残ったもう一方の鎌首をもたげ、大雅に襲いかかろうとした時、再び羽虫が大雅の目の前を覆った。
……っ!!
とっさに昊尚が飛び出し、大蛇の首を斬り捨てる。
それと同時に、別の気配が襲ってくる。
昊尚は振り向きながら避けるが、左の肩口から胸にかけて激痛を覚えた。
目の前で首のない黯禺が鋭い爪を振り下ろしたところだった。
狙い通りに直撃されていれば、今頃昊尚の首は身体から離れていただろう。
黯禺は振り下ろした腕を返す刀で今度は振り上げた。
危うく第二撃を受けるところを、大雅が昊尚の腕を引き、ギリギリのところで逃れた。
大雅は昊尚を掴んだまま、泉の横の
できるだけ奥へ逃げ込んだ。
大雅が逃げて来た方向を覗き、黯禺が追ってくる様子がないのを確認すると、火を灯して昊尚に向かい直した。
--っ大丈夫か!?
声は音として出てこないので、唇が動くだけだ。唇の動きだけで会話を続ける。
--……しくじった。爪で引っ掛けられた。
昊尚の顔が痛みで歪む。
--すまん……。私のせいだ。
大雅が青ざめる。
大蛇と羽虫に同時に襲われた際に、焦って感情が漏れたのだろう。それに気づいた黯禺が襲って来たのだ。
--仕方ないさ。
脂汗を流しながら昊尚が言う。
黯禺の鋭い爪は、昊尚の左の肩口から胸に向かって斜めに引っ掛けていた。衣服が破れ、そこから肉が見え血が流れ出ている。骨が砕けていないのは不幸中の幸いだ。
大雅は泉で水を汲み、昊尚の傷口を念入りに洗う。黯禺の爪からの毒を洗い流すためだ。
黯禺の毒は全身に回ると、身体を麻痺させ、やがてその呼吸を止める。おまけにその爪で傷を付けられると、思考や感情を隠すことができなくなるのだ。そうすることによって、黯禺は打ち損じた獲物を確実に追跡できるようにするという。
大雅は、歯を食いしばって痛みに耐える昊尚の傷を、その感覚がなくなるほどまで洗うと、持って来た軟膏を油紙に伸ばして塗る。傷口にそれを当て、布を裂いて巻きつけた。
そして、薄い茶色の紙に包まれた丸薬を昊尚に飲ませた。
--文始先生特製の万能毒消しを試す機会がくるとはな。
昊尚が額に脂汗を浮かべながらも、皮肉に笑う。
玄海では何があるかわからないから、と文始先生は昔からいつも自作の薬を持たせてくれた。この万能毒消しとやらもその一つで、幸いなことには今まで試したことがなかった。
--本当にごめん。
大雅がいつもの朗らかな顔からは想像もつかない苦悶の表情で呟く。
--やめろ。らしくない。むしろやられたのがお前でなくてよかった。陛下と紅国の民に顔向けできなくなるところだった。
昊尚が言うと、大雅が複雑な顔をする。
--……じゃあ、悪いと思うのなら、一つ頼まれてくれ。捕まえた玄亀を放って来てしまったから、ここでそれをここの
昊尚が呻きながらも、大雅に伝わるようにゆっくりと言った。
傷口が熱を持って来ている。軟膏を塗ったら余計に痛みが増して来たようだ。
--どのみち、ここで甲羅を焼いて玄亀の石を作って帰る予定だったんだ。計画通りに進めてくれ。
--……しかし、お前は大丈夫なのか。早く戻って手当てしないと……。
--いや。文始先生の毒消しを飲んだから大丈夫だろう。それに、今、ここから出ると、確実に黯禺に襲われる。この状態では思考を漏らさないようにできる気がしない。
苦しそうな昊尚を目の前に、なす術のない大雅が顔を歪める。
--石で炉を作って、ここの桂(けい)を燃料にして、玄亀の甲羅を焼いてくれ。悪いが火は強めで絶やさないように丸6日間だ。一つでいい。頼む……。
そこまで言うと、昊尚は目を閉じた。
大雅が慌てて口元を確認すると、浅いが息はある。
気を失ったようだ。
大雅は昊尚の汗でびっしょりの額をぬぐい、上衣を掛け直してやる。暫く昊尚に変化がないか観察していたが、思い直すと作業に取り掛かった。
*
……寒い……。
昊尚は寒さで目が覚めた。
額には脂汗が吹き出しているが、身体ががたがた震える。
しかし、黯禺にやられた傷だけ焼けるように熱い。そしてその周囲は蟲が這っているような感覚がする。
目の前の炉では火が赤々と燃えている。
昊尚はその横で身体の右側を下にして丸くなって眠っていた。
上衣を掛けてもらっているし、火のすぐ横にいるので、寒くはないはずだが震えは止まらない。
昊尚が目を開けたのに気づき、大雅が心配そうに覗き込んでいた。
--どう?
昊尚は口を動かそうとするが、震えて歯の根が合わない。
--寒い?
大雅が聞くと、昊尚が震えながら頷く。
大雅は自分の上衣を昊尚に掛けた。
--……でも、よかった。目が覚めて。
昊尚の目に入りそうになっていた汗を拭う手が、わずかに震えていた。
--丸一日、目を覚まさなかったから心配した。
大雅が火の横に置いた砂時計を見て言った。
昊尚は、泉で捕らえた玄亀の甲羅が頼んだ通りに大雅が炉で焼いてくれているのを目の端で確認し、震えながらもほっとする。
大雅に身体を支えられて、昊尚は再び文始先生の毒消しと水を飲んだ。
身体を少しでも動かすと、全身に激痛が走った。
呼吸もし辛くなっている。
本当に毒消しは効いているのか。
万能、なんて銘打っているあたりが怪しいな、あのおっさん。
昊尚はぼんやりと考えた。
傷がどくどくと脈打っているのが直接耳に響く。
中々強烈な毒だな。ちょっと舐めてた。
考えながら昊尚がうとうととし始める。
不意に、不撓の梅を見に行った帰り際に、自分を見上げた時の範玲の顔が浮かんだ。
範玲は変わりないだろうか。
新しい耳飾りを届けてやらないと。
しかし。
帰れるだろうか……。
……。
--もし、万一のことがあったら、この石は届けてやって。
ゆっくりと昊尚が口を動かすと、大雅にべしっと頭を
怪我人に何をするんだ、と思うが、全身が痛いので叩かれたところで今更だ。
--あほか。自分で渡せ。
言われて、昊尚は自分の気持ちが弱っていることに気づく。
そうだな。
石の効果のほどを確認しないとな。
自分を見上げた後の真っ赤になった範玲を思い出し、ふっと笑いが漏れる。
息が漏れた拍子に、また激痛が走る。
文始先生、これは辛いぞ……。
今度文句言ってやろう。
そう考えていると、心配そうに覗き込む大雅の顔がまた霞んできて、昊尚の意識が遠のいた。
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