第43話 二年孟春 草木萠え動く 3
*
昊尚と大雅が訪ねたこの集落は、玄海の西の端にある。
正確には玄海とその西側の断崖に挟まれた場所だ。玄海に三方を囲まれているため、その影響を受ける。音はほとんど玄海に吸い込まれ、非常に静かな土地となっている。発した声も、玄海に吸い込まれて行くため、大声を出しても、小さな音となる。
この集落の住人は、いずれも非常に耳が良い。
範玲ほどではないが、集音の能力に長けている。そのため、通常の世界では暮らし辛くなり、この地に根を下ろしたという。
玄海に吸い込まれて小さくなる音も、彼らが聞き取るには十分らしい。
彼らはここでの静かな生活を守るため、外部の者の侵入には神経質になっている。
玄海には魔物がいる上に、方向の感覚がなくなるため、実際には謐の郷を探しても辿り着くことはほぼない。ただ、郷の人間が外へ出かけた際に、帰って来られるようにはしてある。
樹海への最初の入り口と音が消え始める玄海の入り口に、知っている者だけがわかるように目印を付けてある。
昊尚がここへくる際に確認していたのがそれだ。
*
昊尚は十三の時に文始先生の弟子となり、耳が良すぎるが故に引きこもっている範玲が普通に暮らすことができる手段を探した。
ある時、文始先生が、耳の良い人たちの暮らす集落があるらしい、と教えてくれた。文始先生も行ったことがなく、真偽のほどはわからなかったため、昊尚は修行の
そのうち、何度か耳が良い者の話を聞くことがあった。その何れもが玄海に遠くない場所だった。
そこで、探している集落は音のない玄海の中にあるのだろう、という結論に至った。
玄海に入るために、思考や感情を無にする術を文始先生から伝授された。
そして何度目かの玄海の探索の末に、その集落へは偶然辿り着いた。
それが、謐の郷だ。
はじめ、謐の郷の人々には警戒されたが、事情を話すと、集落へ招き入れてもらえた。
この謐の郷の人々は、基本的にはこの集落とその周辺の玄海で暮らす。しかし、郷の外でないと手に入らないものがある時は、玄海から出かけていく。
その際に、玄海で捕らえた玄亀の甲羅で作った石を持って行くと教えてくれた。
玄亀の甲羅を何日も焼くと、甲羅は小さく、より硬くなり、まるで宝石のようになるという。それを彼らは玄亀の石と呼んでいた。その玄亀の石を身につけていると、聞こえて来る大きな音が和らぐのだそうだ。
このことを教えてもらった時のことを昊尚はよく覚えている。漸く、活路が見いだせたのだ。
昊尚が蒼国を出てから既にニ年が経っていた。
早速、昊尚は玄亀を求めて再び玄海に入った。
謐の郷の識者に助言を求めると、玄亀なら何でも良いと言うわけではないようだった。青いものでなければ効果は出にくいという。
青い玄亀は、より深くへ行くほど、それに出会う頻度が高かった。
炉で甲羅を焼く時間も、長ければ良いというわけではなかった。長すぎると、急に崩れて灰になってしまう。
炉に
作り上げた石は、謐の郷の者に試してもらった。代わりに、試して得られた情報は謐の郷に還元した。郷の者たちは昊尚と大雅を歓迎してくれるようになった。
今範玲が着けている四つ目の耳飾りは、玄海の奥深くに見つけた泉で獲った玄亀を、玄海に自生する棗により、六日間炉で焼き続けたものだ。
この玄海の奥深くの泉に行けば、また質の良い玄亀を手に入れられるだろう。泉への道筋も、目印を付けて来ているので一から探すよりも効率が良い。
今回もそこで玄亀を捕獲するつもりだ。
ただ、あの泉の近くに黯禺の巣があった。あの泉へ行けば、やはり黯禺との遭遇は避けられまい。
しかし、そのおかげで発見することもあった。
昊尚は前回のことを思い出す。
*
半年ほど前、久しぶりに大雅と玄海へ来た。
相変わらず範玲が引きこもったままだったので、新しい耳飾りを作るための玄亀を捕らえに玄海へ入った。この時はこれまで踏み入ったことのない範囲まで行ってみることにした。玄海の中で迷わないように目印を着けながら奥へ踏み入る。
沼はいくつかあり、そこには玄亀がいたが、どれも今まで捕らえたものと同じようなものばかりだった。もう少し、もう少し、と質の良い玄亀を求めてどんどん奥へ分け入った。
すると、泉が湧き出でているのに行き当たった。手燭の灯りを水面に近づけてみると、泉の底まで見えるほど水は清く澄んでいた。飲み水としても利用できそうな程透明度が高い。
毒に触れると枯れる葉を泉に浮かべるが、変化はない。飲み水として利用しても問題はないということだ。
しかし。
何か違和感がある。
何だろうか。
違和感の元を探る。
そうか。
このような良質な水場があるのに、周りに獣の気配がないのだ。
訝しみながらも、水の中を覗くと、玄亀がいるのが見えた。
網を投げ、捕獲してみると、明らかにこれまで見た物よりも青いのがわかった。
驚きのあまり、一瞬、心が揺れた。
その時。
突然何かが襲いかかって来た。
黒々とした硬そうな毛に覆われた猴のように見えたが、決定的に猴と違うのは、頭部がないことだった。
黯禺だった。
すんでのところで鋭い爪を避け、心を無にした。すると、黯禺は目標を見失ったかのように静かになった。すぐ前に昊尚と大雅がいるのに、だ。
黯禺はその後も泉の周りをうろうろとして立ち去る様子はない。どうやら黯禺の巣があるようだ。厄介ではあるが、心を読まれなければ気付かれることはない。
昊尚と大雅は玄亀をもう一匹捕らえると、謐の郷へ戻ることにした。
念のため警戒しながら、泉を後にしようとした時、不意に泉のほとりに何かが現れたのがわかった。手燭をかざし、目をこらす。ほんの少し光が届く。動き方から兎か何かのようだ。
すると、黯禺がそれに向かって猛然と進むのが見えた。
が、その兎は泉の水を飲むと、のんびりと立ち上がり、このまま捕まるのか、と思った瞬間、来た方向に踵を返した。
黯禺は、兎のいなくなったあたりに着いたが、その場をうろうろとするだけで兎の後を追わない。
一体何が起こったのかと、昊尚と大雅は顔を見合わせた。昊尚が兎の消えた方向を指差し、行ってみることにする。
うろうろする黯禺をやり過ごし、兎の消えた方へ樹々の間を進むと、ぽっかりと小さな広場のような空間があった。昊尚たちがその場に立ち入ると、草むらが揺れて、何かが複数逃げていった。
こんなに近くに動物たちがいたのに、黯禺は気づかなかったのだろうか。
何故なのか。
その空間は幾重もの
樹を幾らか切って、人工的に広場を作ったようで、丸太が何本か積み上げられている。火を焚いた後もある。明らかに誰かがここに滞在したということだ。
近くに黯禺の巣があるのに、だ。
昊尚は一つの仮説を思いついた。
それを確かめることにした。これから試すことを伝えて大雅の了解を得る。そして、逃げられる用意をしつつ、その広場で感情と思考の蓋を外した。
--ここにいるぞ。
黯禺に呼びかけてみた。
この
しかし、黯禺は来なかった。
そこで今度は、昊尚は
案の定、黯禺は昊尚めがけて向かって来る。
昊尚は
振り返ると、今まで昊尚がいた場所に黯禺が立ち止まっているのが、樹々の間からわずかに見えた。
やはりだ。
昊尚は自分の仮説が正しかったことを確信した。
ここに群生する
この
*
それを見つけた当時は、
だが。
玄亀の甲羅を焼く際に、あの
棗は耳の疾に効能のある植物だ。それで甲羅を焼くことによって、玄亀の石の効果が増強されたと考えられる。
この説が正しければ、範玲のあの能力が抑制できるかもしれない。
それを確かめるために、今回ここへ来たのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます