第42話 二年孟春 草木萠え動く 2


 昊尚は範玲と不撓の梅を見た翌日の早朝、紅国へ出立した。

 紅国の首都華京に着くと、大雅のところに顔を出した。


「どうしたの? 突然だね」


 大国の皇太子ならぬ気安さで大雅が昊尚を迎える。


「すまんな。時間を無理やり作って来たから」

「今日は藍公として来たんじゃなさそうだね。彰高として来た?」


 昊尚のなりが軽装だ。軽装とは言っても、腰には剣を佩いている。


「ああ。これから玄海に行って来る。申し訳ないが、もし、万一、二十日経っても戻らなかったら、英賢殿に知らせてくれないか」

「言って来なかったの?」


 大雅が呆れる。


「いや。英賢殿には言って来た。表向きは紅国の視察ということになっている。嘘はついてない」

「……藍公たる者がけしからんね」


 大雅が眉を顰めて咎める。

 すまん、と笑う昊尚に、大雅が聞く。


「今行かないといけないの?」

「ああ」

「どうしてさ?」

「……申し訳ないが、理由わけは言えない」


 昊尚が詫びると、大雅は、ふうん、と呟き、少し考えた後言った。


「私も行くよ」

「いや。いい。お前こそ皇太子のくせに、気軽すぎないか」


 昊尚が苦笑して断ると、大雅が笑って言った。


「大丈夫。うちの官僚たちは優秀だから、私一人いなくても問題ないよ。文始先生門下の兄弟子として、仕方ないから付いてってやるよ」

「だから、兄弟子じゃないから」


 顔をしかめる昊尚に、絶対待ってろよ、置いてっても追いかけるからな、と言い残して大雅は宮城奥に消えて行った。



 結局、昊尚は、待ってろよ、と言う大雅を待たずに出発した。しかし、大雅は言葉どおり追いかけて来た。散々文句と恩に着せる言葉を言いながらもついて来る。

 大雅にはこれまで玄亀を捕獲に行く際には、いつも付き合ってもらっていた。

 しかし、今回は急なことだったので、大雅を付き合わせるつもりは毛頭なかった。追いついた大雅を追い返そうとするが、全く聞く耳を持たない。


「本当に、今回はいいから」


 昊尚が何度か言うが、大雅は笑って気にしていない。


「陛下に怒られるだろ」


 慧喬の不機嫌な顔が眼に浮かぶ。


「母上は大丈夫だよ。多分怒るのは弟だけだよ」


 あいつ真面目だから怒るだろうなー、と笑うと大雅は昊尚と馬を並べた。





 今回、昊尚が藍公としての責務がありながら、仕事を前倒して片付けてまで玄海へ行こうとしているのは、新しい玄亀の耳飾りを作るためだった。

 範玲に四つ目の耳飾りを渡してから、まだ数カ月も経っていない。耳飾りの性能もこれまでのものより格段に良くなっている。

 それなのに、何故、今また新たなものを作ろうとしているのか。

 古利の父親が捕らえられたきっかけが範玲だったということを、古利に知られてしまった可能性があるからだ。

 万一、古利がそれを知ったら、範玲を逆恨みするかもしれない。


 範玲に接触を図って来たらどうなるか。

 範玲を操ろうと触れたらどうなるか。


 触れた相手の考えていることを感じ取ってしまう範玲には、故意に思考を流し込む古利の能力は影響が大きすぎる。

 現に、啓康王の騒動の際に、それは実証されている。あの時はとりあえず事無きを得たが、次に同じことがあった場合に無事で済むかどうかはわからない。

 それを軽減させるためにも、触れると相手の心を読んでしまう力を抑える何らかの対策が、急ぎ必要だと考えた。

 玄亀の耳飾りに改良を加えられないか検討した結果、一つの仮説に辿り着いた。

 それを確認するために、今回、無理をして来た。

 それに。

 古利に悪意を持たれる可能性があるから身辺に気をつけてほしい、ということは範玲に伝えた。

 しかし、範玲には言わなかったが、もう一つ、昊尚には懸念があった。

 雲起のことだ。

 今、古利は朱国の雲起の元にいるだろう。


 もしも、都から仁仲を訪ねて来た者の相談の内容を古利が知っていたら。

 範玲の耳のことに古利が気づいていたら。

 そしてそれを古利が雲起に話してしまったら。


 あの雲起の性格を考えると、範玲を珍しい玩具のように手に入れたがるだろう。

 更に万が一。


 範玲のあの能力を知ったら。


 そう考えると、昊尚は居ても立ってもいられなくなった。

 そんなことをさせる気は毛頭ないが、不安は一つでも軽減させるに越したことがない。

 だから、どうしても早急に新しい耳飾りを作らなければならなかった。

 大雅にも理由を言えなかったのは、触れた人の心を読んでしまう範玲の能力に関わることだからだ。いくら大雅でも言うことができなかった。





 耳の疾に効くといわれる玄亀は、北の玄海に棲んでいる。

 玄海は紅国の北端にある。海といっても、水を湛える海ではない。

 墨国との国境にそびえる黒涼山の麓に広がる樹海だ。

 玄海には鬱蒼と木が繁り、足を踏み入れると昼でも暗い。

 奥に行くほど闇が濃くなる。

 そして、音が消える。

 全て音は闇の中に吸い込まれていく。

 声を発しても、闇に吸い込まれ、聞こえない。

 無音の世界だ。

 この玄海には、玄亀の他にも蟲や獣、そして魔物が棲む。

 中でも黯禺あんぐという魔物が厄介だ。

 黯禺は玄海の深部に生息している。黒々とした硬い毛に覆われ、鋭い爪を持つ、さるの姿に似た魔物だ。

 ただし、猴には似ているが、決定的に異なる部分がある。

 この黯禺には頭部がないのだ。

 そのためか生き物の頭を欲しがるという。

 耳も目も鼻もない。だから聞こえず、見えず、嗅げない。その代わり、心の中の声を聞くと言われている。

 黯禺に気づかれないようにするには、音を立てないようにする必要も、姿を隠す必要もない。

 ただ心を無にしていれば良い。

 しかし、何かを考えてしまうと、闇の中でそれを聞きつけ、鋭い爪で襲ってくる。

 しかも黯禺の血には毒があると言われる。下手に斬って返り血を浴びてしまうと厄介だ。

 故に、玄海の奥深くに立ち入るには、感情や思考の一切を遮断する必要がある。それのできるもののみ玄海の深くに踏み入ることができる。

 昊尚はその術を文始先生から仕込まれた。

 昊尚が思考や感情を漏らさないようにすることができるのは、玄海に入るため訓練したからだった。





 昊尚と大雅は、紅国の首都華京から2 ニ日、馬を駆ってようやく玄海にたどり着いた。

 北にそびえる黒涼山を遠くに望み、その裾野に広がる樹海を小高い山から見下ろす。

 その広大な樹海は、西側は森が途絶えると断崖が現れ、深い谷を形成している。

 二人は、馬を操り山を下りると、林立する樹々を見定め、樹海へ踏み入る位置を確認し馬を進めた。

 昊尚は並ぶ樹々を一本ずつ注意深く観察しながら進む。

 次第に辺りが薄暗くなり、喧しく鳴いていた鳥の声が遠くなってくる。

 ある地点まで来ると、昊尚は馬から降り、背負って来た荷物から手燭を取り出すと灯をともし、一本の樹を照らす。樹の枝の一つに目立たない灰色の布が巻き付けてある。


「あったね」


 大雅も馬から降りて来て枝を確認する。すでに普通に発する声が小さく感じる。

 この先に進むと、声は発したつもりでも全く聞こえなくなる。玄海へ入ると、お互いの唇の動きで意思を伝える方法をとっている。

 再び馬に乗ると、確認した樹の枝が指している方へと馬の鼻先を向ける。

 玄海に入り込むと方角がわからなくなる。目印が頼りだ。


「はぐれるなよ」


 大雅に声をかけると、真っ直ぐに馬を進める。

 頭上では陽が照っているはずなのに、樹海は不自然に暗くなる。玄海に入り込んだ証拠だ。馬上で手燭をかざし、慎重に手綱を握る。

 大雅が着いて来ているのを時折振り返って確認しながら、昊尚は奥へと真っ直ぐ、用心して馬を進める。

 馬が枯葉を踏む音も、その息遣いも聞こえなくなった。

 時折風が吹くが、葉を揺らす木立の音もしない。

 自分の鼓動だけを感じながら、暗闇を真っ直ぐ進む。

 しばらくすると、前方に光が見えた。

 昊尚は、ほっと息を吐くと、その光へと向かう。

 玄海から光のもとへ出ると、そこには家が立ち並ぶ集落があった。

 昊尚は手燭の火を消し、辺りを見回す。

 家の脇に立っている少年と目があった。

 大雅が手を振ると、少年はぱあっと笑顔になって駆け寄り、昊尚と大雅の手を取った。

 昊尚はもう片方の手で少年の頭をぐりぐりと撫でると、家の方を指差し、いるか? と極々小さな声で聞いた。

 少年は頷き、二人をぐいぐい引っ張った。案内してくれるらしい。

 少年に引っ張られて家に入ると、老齢の男性が昊尚と大雅を見て、驚いた後、手を取って歓迎してくれた。


 ここは、聴力に優れた人々が暮らす、ひつさとという玄海の中の人知れぬ集落だ。



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