第41話 二年孟春 草木萠え動く 1


 年が明けたが、春と言うにはまだ冷たい空気が肌を刺す。

 昼餉をとり、範玲が残りの休憩時間をぼんやりと過ごしていた時、執務室に入って来たのは昊尚だった。

 昊尚が史館に顔を出すのは珍しい。しかもここ十日程は特に忙しかったようで、皇城で足早に移動しているのを遠目に見かけるくらいだった。

 範玲が近寄ってみると、いつもの怜悧な目つきではあるが、目の下に隈があって若干疲れているようだ。


「今日はどうしたんですか?」

「ああ。ちょっといいか?」


 範玲の問いに対し、昊尚が外を指差す。

 何だろう、と思いながら、ちょっと出てきます、と部屋にいた志敬に断ると、範玲は上衣を羽織って昊尚の後に続いた。


「何処か行くんですか?」


 昊尚は範玲の歩調に合わせてくれている。


「西内苑の梅林に。行ったことは?」


 何か込み入った話かと思ったのに、予想外の展開だ。


「いえ。行ったことはないです」

「そうか。それは良かった。ちょっと梅を見に行こう」


 西内苑には、枝垂れ梅の林があるが、まだ花が咲くには少し早い。


「まだ咲いていないんじゃないですか?」


 範玲が言うと、昊尚はにやりと笑った。


「まあ、ついておいで」


 蒼翠殿の横を通り、永陽門から西内苑へと足を踏み入れた。

 梅の木たちは枝を垂れて寒そうに立っていた。

 やはり梅の花にはまだ時期が早い。


「やっぱりまだ……」


 と言ったところで、範玲は木の根に足を取られた。しかも地面が濡れているので滑る。

 すんでのところで転ぶのを耐える。


「大丈夫か? 足元、気をつけろよ」


 昊尚が左手を差し出した。


 うお?


 範玲がまじまじと差し出された手を見る。


「危ないから」


 昊尚が、ほら、と手を差し出してよこす。


 手を繋げということか。


「こっ、子どもじゃないですけど」


 範玲が思わず言葉に詰まりつつ後ずさると、濡れた落ち葉でまた滑った。


「ほらみろ」


 ……。


 範玲は差し出されたままの昊尚の手を指先でそっと摘む。すると、しっかりと繋ぎ直された。


 わ。


 鼓動が跳ね、心臓が早鐘を打つ。

 手から動悸が昊尚に伝わってしまうのではないかと範玲が焦る。 


 顔が熱い。


 だけど、昊尚の手は大きくて暖かくて、ほんわりと満たされた気持ちにもなる。


 何だろう。

 昊尚は思考や感情に蓋をしているはずだから、触れたところからそれは流れては来ない。ということは、これは自分の感情か。

 手を繋ぐ、というのは皆こういう気持ちになるものなのだろうか。

 不思議だ。


 そう考えながら、手を引かれ、足元に気をつけて歩いていると、昊尚が立ち止まった。


「着いたぞ」


 範玲は顔を上げると、その光景に息を呑んだ。

 寒々と立つ梅たちの中で、一本だけ、梅の花をたわわにつけた枝をまとっていた。

 目の前に鴇色ときいろの滝が広がる。


「すごい」


 範玲が思わず呟く。


「この木だけ、まだ寒い時期に最初に咲くそうだ」


 頬を染めてうっとりと梅を見つめる範玲を昊尚が満足げに眺める。


「この梅、もしかして、”不撓ふとうの梅”ですか?」

「知ってたか」


 範玲が梅を見つめながら言うと、昊尚が、やっぱり、と笑った。

 ”不撓の梅”とは、蒼国の建国時に、太祖の夏賢成、周文幹、秦思廉の3人が植えたものだと伝えられている。

 厳しい寒さの中で凛と咲く梅のように、困難にも怯まない、そしてそのしなる枝のように、こうべを垂れる謙虚な心を忘れないようにと誓って植えられたと言われている。

 枝がたわむ梅だが、不撓の象徴として。

 この枝垂れ梅が枯れる時は蒼国も倒れるという言い伝えもある。

 すでに樹齢二百年を超えるとされる老齢の梅とは思えない鮮やかさだ。


「この梅が咲く期間は短いから、是非見せたかった」

「ありがとうございます。凄く嬉しいです」


 昊尚の方へ振り向くと、目を細めて範玲を見ていた。目にはいつもの皮肉な光はない。

 また鼓動が跳ねる。

 目を逸らそうとするが、昊尚の目の下の隈が気になる。


「……お忙しかったんですよね。なのに、連れてきてくださって、ありがとうございました」


 範玲が改めて礼を言うと、昊尚は、ああ、と梅に目をやる。


「明日からしばらく紅国へ行く。だから前倒して業務を片付けていただけだ」


 え? 初耳だ。


「どのくらい行かれるんですか?」

「上手くいけば十数日で帰ってくる」


 思った以上に長い。


「そんなに……」


 言って、がっかりしている自分に範玲が自分で驚く。別に普段だって滅多に会うわけではないのに。


「……最近、何か変わったことはないか?」


 昊尚が急に話を変えた。


「特には……。あ、迎えに来てくれるのが士信から子常に変わったくらいです」


 訝しみながらも答える。

 荀氏の屋敷の火事の日から、出かける際には子常という屈強な若者がついてくるようになった。


「誰かに見張られている様子はないか?」


 範玲が首を傾げる。

 見張られるような覚えはない。


「ない、と思いますけど……。どうしてですか?」

「英賢殿からは何も聞いてないか」


 範玲がこくりと頷く。


 何をかはわからないが、特に変わったことは聞いていない。


「……やっぱりか。知っておいた方がいいと言ったんだけどな」


 昊尚が、相変わらずあの人は、と苦笑する。

 昊尚は「……怖がらせるかもしれないが、知っておいた方が良いと思うから」と前置きをして、楊仁仲の騒動の露見するきっかけは、範玲の薬を求めて士信が甘婁に行ったことだったと話した。


「士信があの騒動の発端だと古利が知ったら、全くの逆恨みだが、悪意を持たれる可能性がある。心配しすぎだと思うかもしれないが、君のために士信が甘婁に行った、ともしも知られたら、君に何かしないとも限らない。だから、一応用心していて欲しい。古利は普通じゃない。今古利は蒼国にはいないはずだし、全て仮定の話だが、用心に越したことはない」


 そうか。あの破り取られた本に書いてあった、都から来た者、は士信だったのか。

 だから迎えは士信以外に、と言っていたのか。


 範玲はその意味を理解して納得した。


「知らない者には十分に注意するように。というか、親しい者以外には絶対に近寄らないように」


 昊尚の真剣な声に、範玲が頷く。

 古利に狙われるかもしれないと考えて、範玲は背筋がひやりとした。

 範玲は前に古利に腕を掴まれた時のことを思い出した。

 気持ちを察したのか、昊尚は範玲より頭一つ分高い身体を少し屈めて範玲の顔を見る。


「脅すようなことを言ってすまなかった。英賢殿は君にそんな顔をさせたくなかったんだろうな……」


 すまなそうに昊尚が謝る。

 だが、範玲は話してもらって良かったと思った。何も知らなければ気をつけようもないからだ。


「大丈夫です。教えてくれてありがとうございました」


 気丈に言う範玲を、昊尚が遣る瀬無く見ている。

 何かを言いかけたが、一つ息をつくと、昊尚は皮肉な笑みを浮かべて言った。


「それと、私がいない間、無茶するなよ。助けに行けないからな」


 そういえば、範玲が危機に陥った時に、いつも助けてくれたのは昊尚だった。


「気をつけます」


 笑いながら範玲が言う。


「ああ。そう願おう。……じゃあ、帰るか」


 昊尚がそう言ったところで、範玲はずっと昊尚と手を繋いだままだったことに今更ながら気付く。

 慌てて手を引っ込めようとするが、昊尚が逃さないようにきゅっと握り直した。

 範玲が顔を上げると、昊尚と目が合う。

 昊尚が、ふっ、と笑った。

 範玲は、突然心臓がぎゅうっと押さえられるような感覚を覚えた。


「また転びそうになると危ない」


 昊尚は、楽しそうに笑って、範玲の手を握ったまま歩き出した。


「……こっ、子どもじゃないですけど!」


 来る時に言った文句と同じだが、その時よりも声が上擦る。


 きっと顔が赤い。


 先程と違って、手を繋いでいても全然ほんわりした気持ちにはなっていなかった。

 心臓は、壊れたのかと思う程ばくばくと脈打っていた。

 鼓動ばかりが耳に付く。


 今、昊尚殿の顔は見られない。

 しばらく駄目かもしれない。

 十数日経てばさすがに平気になるかな。


 範玲はそう思いながら昊尚に手を引かれて歩いた。



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