第40話 元年季冬 鷙鳥厲疾す 5
*
範玲が執務室を尋ねると、英賢は眉を曇らせて何かを考え込んでいた。範玲が声をかけて入ってきたのにも気がついていないようだ。
「兄上……?」
改めて範玲が声をかけると、漸く顔を上げた。
「ああ、ごめん。ちょっと考え事をしてた」
英賢は何かを迷っているように見える。
「あの……珠李殿のこと、ですか?」
範玲が聞くと、英賢は困ったように微笑んだ。
珠李は理淑に助けられて都城に帰っては来たが、終始俯いたままで、英賢と目を合わせようとしなかった。
「英賢様を裏切っていました」
珠李は頑なにそう言うばかりだ。
英賢はその事を考えているのだろう。
「……珠李殿に、触れてみましょうか……?」
範玲は、逡巡したのち控えめに申し出てみた。
英賢が珠李の本心を測りかねているのであれば、範玲の力を使って探ることができる。
すると英賢は首を振った。
「ありがとう。でも、それは必要ないよ。大丈夫。珠李を疑ってはいないから」
自分から申し出てみたものの、そう言われて範玲はほっとした。
「兄上のそういうところ好きです」
「そう?」
英賢が微笑んだ。
「範玲にそう言って貰えると元気が出るな。よし。珠李と話をしてこようかな」
そう言って立ち上がった。
*
青蓬門で、自分の
御史台を訪れると、英賢は珠李のいる部屋に通された。
英賢が珠李の前に座ると、珠李の身体が強張った。
「志敬が心配してるよ」
珠李の兄の志敬は御史台へ何度も足を運んだ。
荀氏の屋敷が火事にあった日に、珠李と待ち合わせをしていたのに来なかった。きっとその時に拉致されたに違いない。珠李は決して裏切り者などではない。
そう御史台の者に食ってかかっていた。
英賢もそれを疑っているわけではない。
しかし、珠李本人が頑なになっているので、話が進まないのだ。
英賢が俯く珠李を見つめる。
「珠李、……もう、私の元で働くのは嫌になったのだろうか」
英賢の言葉に、珠李がの肩がびくりと震える。膝の上で握っている手も震えていた。
「……私は澄季妃殿下の侍女をしておりました。雲起殿下と面識があるのも本当です。それを隠してきました。私は英賢様を欺いていたんです」
珠李は小さな声で告げ、ぎゅっと目を瞑った。
「珠李が澄季妃の元にいたというのは、最初から知っていたよ」
英賢があっさりと言った。
その言葉に珠李が思わず顔を上げると、英賢の温かい碧色の瞳と出会った。
その瞬間を逃さず、英賢が言った。
「それがどうした? 珠李が蒼国へ来てから、二心なく務めてくれたことを、少なくとも私は知っている」
英賢の柔らかい声に、珠李は目の奥が熱くなる。
「私を欺いた云々は全く問題ない。そもそも欺かれていないのだからね。むしろ、それを知っていたことを珠李に黙っていたのだから、欺いたというのならば、私の方だ」
そこまで言うと、英賢の声が急に沈んだ。
「……それに、私の方こそ珠李に謝らないといけない。あの時、広然に言われるままに珠李を連れて行かせて、結局、珠李を危ない目に合わせてしまった。本当にすまななかった……」
まだ頬が腫れている珠李を痛々しく見て、英賢が頭を下げた。
「許してはもらえないだろうか」
「そんな……英賢様は何も悪くありません。だって、私のせいで古利が……。私が広然に利用されなければ……」
それまで言葉が出なかった珠李の口から震える声が出た。
*
珠李は朱国で生まれ育った。父親は地方で下級官吏をしていた。兄の志敬は外国で学びたい、と家を飛び出し、放蕩していてほとんど音信は途絶えていた。
父親が亡くなると、母親を養うために珠李は侍女として後宮に職を求めた。元々機転が利いて聡い珠李は、澄季の目に留まり、重宝されて用いられた。時に間諜めいたこともさせられた。
もう限界かもしれない、と思っていた頃、郷里に残して来た母親が病で倒れたと知らせがあった。
珠李は、母親の看病をするために、職を
初めは許してもらえなかったが、何故か雲起の口添えがあり、宿下がりが認められた。
郷里へ帰って母親の世話をしたが、母親は一年を待たずに亡くなった。しかし珠李は澄季のところへは戻りたくなかった。
久しく音信のなかった兄の志敬から蒼国で職を得たと連絡があり、珠李は逃げるように兄の志敬を頼って来た。そして蒼国で職を求め、英賢に目をかけられるようになった。
広然とは面識があった。珠李が澄季のところにいる頃に、雲起の侍従として会ったことがある。
あの日、広然に呼び止められ、その時初めて広然が蒼国にいることを知った。
広然は雲起の元から逃げて来たと話した。
自分と同じだと気を許したのがいけなかった。
勧められた茶を飲んで、急速に眠くなったことは覚えている。次に気がつくと、縛られて拘束されていた。
目の前には広然と古利がいた。
そこで珠李は自分が騙されたことを知った。
広然は、照礼が荀氏に珠李が英賢を誑かしている、と訴えているのを耳にして、珠李がここにいるのを知ったという。
「澄季殿下から逃げてきたのに、ここでも間諜のようなことをしていたとはな」
広然が皮肉り言うには、雲起は侍女として珠李を澄季から譲り受けるつもりだったらしい。そのために珠李の宿下がりを認めさせ、一旦澄季から離したのだと言う。だから今でも珠李を連れて帰れば、雲起は喜ぶだろう、と。
珠李がそれを拒むと、途端に広然は不機嫌になり、連れて行けば何かの役に立つかもしれないから、と再び無理やり眠らされた。
次に気がつくと、自分のせいで古利を逃してしまおうというところだった。英賢が自分のために立場を悪くすることは耐えられなかった。だから、自分を遠慮なく切り捨ててもらうために、裏切り者である振りをした。
それなのに、英賢は珠李を見捨てなかった。結局珠李の命を助けるために、古利を逃してしまった。
そんなことをさせておいて、どうしてそのまま、また英賢に仕えていけるというのか。
そう思っていた。
*
英賢は珠李を真っ直ぐ見ると言った。
「古利を逃してしまったことは、判断した私の問題だ。珠李のせいではない。珠李がもう嫌ならば、無理にとは言わない。……けれど、私は珠李にこのままここに残ってほしい。もしも、珠李が辞めたい理由が、責任を感じてのことならば、むしろ引き続き私の元で働いてもらえた方が嬉しい」
そんな風に言ってくれる英賢を拒むことができるはずがない。
珠李は自分が情けない顔で泣いているな、と自覚しながら、はい、と頷いた。
すると、英賢はほっと嬉しそうに笑った。
その英賢の笑顔をずっと忘れないだろう、と珠李は思った。
*
「流石ですね。ありがとう」
英賢の執務室から帰る途中、昊尚の声を耳にして、範玲が辺りを見回す。
昊尚は央凛と立ち話をしているところだった。昊尚が央凛に笑いかけている。
「良いんですのよ。他ならぬ昊尚様からのお願いだったら、断るなんてできませんわ。それに珠李は可愛い後輩ですもの。こちらこそ、ありがとうございました」
央凛は、うふふ、と笑うと、じゃあまた今度、と去って行った。
「昊尚殿」
範玲が声をかけると、顔に笑みを残したまま昊尚が振り返った。
「どうしたんですか? 楽しそうですね」
「いや、央凛殿はなかなかやるな、と思って」
青蓬門での一件で、珠李が実は朱国のまわし者だった、という噂が広まった。
それを打ち消すために、「珠李が自分が裏切り者だと言ったのは、咄嗟に自分の身を挺して、古利を捕まえさせるために言った嘘だった」という事実を美談として央凛に広めてもらったのだ。
高い地位にはないが面倒見の良い央凛を慕う女官は多い。央凛が言うのならば、と女官達の間で美談は一気に広まった。
そのおかげで、あの時古利を逃す判断をした碧公への批判めいた意見も
「そうだったんですね」
範玲は、央凛が英賢や珠李のために動いてくれたことに感謝した。
央凛の後ろ姿を見送りながら、何故か範玲の口から無意識に言葉がこぼれた。
「央凛殿とは仲が良いんですね」
あ、何だこの言い方。
嫉妬しているみたい。
思わず口をついてでた自分の言葉に範玲が焦る。と。
「ん? ああそうだな」
それに昊尚がさらりと答えた。
昊尚の肯定の返事に、範玲は一瞬、微かに、僅かにもやっとする。
いやいや。
昊尚の友人は自分だけではない。
それなのに、嫉妬するとか、どれだけ心が狭いのか。
範玲は自分を戒め、反省した。
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