第40話 元年季冬 鷙鳥厲疾す 5


 範玲が執務室を尋ねると、英賢は眉を曇らせて何かを考え込んでいた。範玲が声をかけて入ってきたのにも気がついていないようだ。


「兄上……?」


 改めて範玲が声をかけると、漸く顔を上げた。


「ああ、ごめん。ちょっと考え事をしてた」


 英賢は何かを迷っているように見える。


「あの……珠李殿のこと、ですか?」


 範玲が聞くと、英賢は困ったように微笑んだ。

 珠李は理淑に助けられて都城に帰っては来たが、終始俯いたままで、英賢と目を合わせようとしなかった。


「英賢様を裏切っていました」


 珠李は頑なにそう言うばかりだ。

 英賢はその事を考えているのだろう。


「……珠李殿に、触れてみましょうか……?」


 範玲は、逡巡したのち控えめに申し出てみた。

 英賢が珠李の本心を測りかねているのであれば、範玲の力を使って探ることができる。

 すると英賢は首を振った。


「ありがとう。でも、それは必要ないよ。大丈夫。珠李を疑ってはいないから」


 自分から申し出てみたものの、そう言われて範玲はほっとした。


「兄上のそういうところ好きです」

「そう?」


 英賢が微笑んだ。


「範玲にそう言って貰えると元気が出るな。よし。珠李と話をしてこようかな」


 そう言って立ち上がった。





 青蓬門で、自分のあるじは雲起だけ、と言ったことで、珠李は朱国の間者である可能性を疑われ、一応取り調べを受けるために御史台に預けられている。

 御史台を訪れると、英賢は珠李のいる部屋に通された。

 英賢が珠李の前に座ると、珠李の身体が強張った。


「志敬が心配してるよ」


 珠李の兄の志敬は御史台へ何度も足を運んだ。

 荀氏の屋敷が火事にあった日に、珠李と待ち合わせをしていたのに来なかった。きっとその時に拉致されたに違いない。珠李は決して裏切り者などではない。

 そう御史台の者に食ってかかっていた。

 英賢もそれを疑っているわけではない。

 しかし、珠李本人が頑なになっているので、話が進まないのだ。

 英賢が俯く珠李を見つめる。


「珠李、……もう、私の元で働くのは嫌になったのだろうか」


 英賢の言葉に、珠李がの肩がびくりと震える。膝の上で握っている手も震えていた。


「……私は澄季妃殿下の侍女をしておりました。雲起殿下と面識があるのも本当です。それを隠してきました。私は英賢様を欺いていたんです」


 珠李は小さな声で告げ、ぎゅっと目を瞑った。


「珠李が澄季妃の元にいたというのは、最初から知っていたよ」


 英賢があっさりと言った。

 その言葉に珠李が思わず顔を上げると、英賢の温かい碧色の瞳と出会った。

 その瞬間を逃さず、英賢が言った。


「それがどうした? 珠李が蒼国へ来てから、二心なく務めてくれたことを、少なくとも私は知っている」


 英賢の柔らかい声に、珠李は目の奥が熱くなる。


「私を欺いた云々は全く問題ない。そもそも欺かれていないのだからね。むしろ、それを知っていたことを珠李に黙っていたのだから、欺いたというのならば、私の方だ」


 そこまで言うと、英賢の声が急に沈んだ。


「……それに、私の方こそ珠李に謝らないといけない。あの時、広然に言われるままに珠李を連れて行かせて、結局、珠李を危ない目に合わせてしまった。本当にすまななかった……」


 まだ頬が腫れている珠李を痛々しく見て、英賢が頭を下げた。


「許してはもらえないだろうか」

「そんな……英賢様は何も悪くありません。だって、私のせいで古利が……。私が広然に利用されなければ……」


 それまで言葉が出なかった珠李の口から震える声が出た。





 珠李は朱国で生まれ育った。父親は地方で下級官吏をしていた。兄の志敬は外国で学びたい、と家を飛び出し、放蕩していてほとんど音信は途絶えていた。

 父親が亡くなると、母親を養うために珠李は侍女として後宮に職を求めた。元々機転が利いて聡い珠李は、澄季の目に留まり、重宝されて用いられた。時に間諜めいたこともさせられた。

 あるじの澄季のたちに影響されるのか、後宮では女官同士の仲が悪く、気鬱な雰囲気だった。また、我儘としか言いようのない要求をする澄季に、珠李の神経は磨耗していった。

 もう限界かもしれない、と思っていた頃、郷里に残して来た母親が病で倒れたと知らせがあった。

 珠李は、母親の看病をするために、職を退きたいと澄季に申し出た。

 初めは許してもらえなかったが、何故か雲起の口添えがあり、宿下がりが認められた。

 郷里へ帰って母親の世話をしたが、母親は一年を待たずに亡くなった。しかし珠李は澄季のところへは戻りたくなかった。

 久しく音信のなかった兄の志敬から蒼国で職を得たと連絡があり、珠李は逃げるように兄の志敬を頼って来た。そして蒼国で職を求め、英賢に目をかけられるようになった。



 広然とは面識があった。珠李が澄季のところにいる頃に、雲起の侍従として会ったことがある。

 あの日、広然に呼び止められ、その時初めて広然が蒼国にいることを知った。

 広然は雲起の元から逃げて来たと話した。

 自分と同じだと気を許したのがいけなかった。

 勧められた茶を飲んで、急速に眠くなったことは覚えている。次に気がつくと、縛られて拘束されていた。

 目の前には広然と古利がいた。

 そこで珠李は自分が騙されたことを知った。

 広然は、照礼が荀氏に珠李が英賢を誑かしている、と訴えているのを耳にして、珠李がここにいるのを知ったという。


「澄季殿下から逃げてきたのに、ここでも間諜のようなことをしていたとはな」


 広然が皮肉り言うには、雲起は侍女として珠李を澄季から譲り受けるつもりだったらしい。そのために珠李の宿下がりを認めさせ、一旦澄季から離したのだと言う。だから今でも珠李を連れて帰れば、雲起は喜ぶだろう、と。

 珠李がそれを拒むと、途端に広然は不機嫌になり、連れて行けば何かの役に立つかもしれないから、と再び無理やり眠らされた。

 次に気がつくと、自分のせいで古利を逃してしまおうというところだった。英賢が自分のために立場を悪くすることは耐えられなかった。だから、自分を遠慮なく切り捨ててもらうために、裏切り者である振りをした。

 それなのに、英賢は珠李を見捨てなかった。結局珠李の命を助けるために、古利を逃してしまった。

 そんなことをさせておいて、どうしてそのまま、また英賢に仕えていけるというのか。

 そう思っていた。





 英賢は珠李を真っ直ぐ見ると言った。


「古利を逃してしまったことは、判断した私の問題だ。珠李のせいではない。珠李がもう嫌ならば、無理にとは言わない。……けれど、私は珠李にこのままここに残ってほしい。もしも、珠李が辞めたい理由が、責任を感じてのことならば、むしろ引き続き私の元で働いてもらえた方が嬉しい」


 そんな風に言ってくれる英賢を拒むことができるはずがない。

 珠李は自分が情けない顔で泣いているな、と自覚しながら、はい、と頷いた。

 すると、英賢はほっと嬉しそうに笑った。

 その英賢の笑顔をずっと忘れないだろう、と珠李は思った。





「流石ですね。ありがとう」


 英賢の執務室から帰る途中、昊尚の声を耳にして、範玲が辺りを見回す。

 昊尚は央凛と立ち話をしているところだった。昊尚が央凛に笑いかけている。


「良いんですのよ。他ならぬ昊尚様からのお願いだったら、断るなんてできませんわ。それに珠李は可愛い後輩ですもの。こちらこそ、ありがとうございました」


 央凛は、うふふ、と笑うと、じゃあまた今度、と去って行った。


「昊尚殿」


 範玲が声をかけると、顔に笑みを残したまま昊尚が振り返った。


「どうしたんですか? 楽しそうですね」

「いや、央凛殿はなかなかやるな、と思って」


 青蓬門での一件で、珠李が実は朱国のまわし者だった、という噂が広まった。

 それを打ち消すために、「珠李が自分が裏切り者だと言ったのは、咄嗟に自分の身を挺して、古利を捕まえさせるために言った嘘だった」という事実を美談として央凛に広めてもらったのだ。

 高い地位にはないが面倒見の良い央凛を慕う女官は多い。央凛が言うのならば、と女官達の間で美談は一気に広まった。

 そのおかげで、あの時古利を逃す判断をした碧公への批判めいた意見もかすんだ。そして珠李は少なくとも居場所を失わなくて済んだ。


「そうだったんですね」

 範玲は、央凛が英賢や珠李のために動いてくれたことに感謝した。

 央凛の後ろ姿を見送りながら、何故か範玲の口から無意識に言葉がこぼれた。


「央凛殿とは仲が良いんですね」


 あ、何だこの言い方。

 嫉妬しているみたい。


 思わず口をついてでた自分の言葉に範玲が焦る。と。


「ん? ああそうだな」


 それに昊尚がさらりと答えた。

 昊尚の肯定の返事に、範玲は一瞬、微かに、僅かにもやっとする。


 いやいや。

 昊尚の友人は自分だけではない。

 それなのに、嫉妬するとか、どれだけ心が狭いのか。


 範玲は自分を戒め、反省した。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る