第39話 元年季冬 鷙鳥厲疾す 4
*
「やあ。よく来たね」
朱国の宮城の西側の一室に通されると、古利は機嫌の良い笑顔に出迎えられた。雲起の目が珍しく笑っている。
古利は僅かに頭を下げる。
「広然もご苦労様。怪我をしたみたいだけど、大丈夫?」
広然の血の滲む包帯が巻かれた右手をちらりと見やる。一応気遣う言葉を口にするが、大して案じている様子はない。
「はい。大事ありません。……ただ、申し訳ありません。古利をこちらに連れてきたことを知られてしまいました」
広然が右手を背後に隠し、雲起の顔色を窺いながら言う。
「あ、そう。まあ仕方ないよ。どうせいずれ分かることだし」
雲起の機嫌が損なわれないことに、明らかに広然がほっとする。
しかし、蒼国の青蓬門でのやりとりを報告すると、雲起の笑顔はそのままに目から機嫌の良さが消えた。
「なんかさぁ、蒼国って、どいつもこいつも、誠実ですって顔して、気色悪いよね」
口調は軽いが、向かい合っている広然の背筋には冷たいものが伝った。
「ま、いいや。古利も来たし、これからが楽しみだね」
雲起が古利に笑いかけた。
古利が思い出したように雲起に言う。
「蒼国に面白いのがいるようです」
「何? 面白いのって」
「耳が良すぎる県主(ひめ)です」
「何それ」
古利はぼそぼそと話し始めた。
**
圭徳十五年の初め、まだ少年だった古利は甘婁郷にいる父親の元を訪れていた。
薬師として独り立ちする、と家族を置いて出て行った父親が、薬屋が軌道に乗って来た、と言って寄越した。父親が大好きだった古利は喜んで会いに来た。
父親の言う通り、薬屋は繁盛していた。父親のところにたくさんの人が来て、薬を処方してもらい、感謝して帰って行った。登南にいた頃と比べ物にならないほど郷の人たちに頼りにされているように見えた。
その男は、自分ではないが、と前置きをし、聞こえすぎる耳を何とかできないか、と言った。
あらゆる音が聞こえすぎて、日常生活もままならない。人から離れて、引きこもって暮らしている。物音が聞こえすぎるのを和らげる薬はないだろうか、と言う。
「楽になりますよ」
と、父親は、いつもの”薬”を渡した。
いつもだったら、薬をもらった患者は喜んで帰る。
しかし、その都から来た男は、薬を見て、訝しげな表情になり、匂いを嗅ぐと、顔色を変えた。
「これは……。……本気ですか?」
父親は、いつものように言った。
「よく効きますよ」
男はしばらく父親を凝視していたが、次の方が待っているので、と父親に促されると、代金を支払って部屋を出た。
父親に感謝するでもなく、むしろ非難しているように見えたのが気になった古利は、その男のあとを追いかけた。
男は外でもう一度、処方された薬を取り出し確認していた。
「……このようなもの、範玲様にお渡しできる訳がない……!!」
そう吐き捨てると、帰るかと思ったら、他の患者たちに何かを聞いて回っていた。
そして呟くのを聞いた。
「これは……大変なことになる……」
気になった古利は我慢できず、その男に話しかけた。
「父さんのその薬、凄いだろ?」
突然話しかけて来た古利に男は驚き、そしてやりきれない眼差しを向けると、ごめんな、と言って頭を撫でた。
その男が帰って数日後、都城から役人が来て父親は連れて行かれた。
**
その騒動さえなければ、自分たちは幸せでいられたのに。
古利はその考えから逃れられなかった。父親を捕え、獄中死させた蒼国を許せなかった。
宮城に入り込み、父親を、自分たち家族を不幸にした啓康王を目の前にし、古利は改めて父親の騒動を蒼国がどう伝えているのか知りたくなった。
史館へ行くと、職員でないと利用できないと言われ、その職員の手を握って言うことをきかせた。
蒼国の史館にあった資料には、父親のことが非道で愚かな人物として書かれていた。そして、父親が捕まるきっかけは、あの時、都城からやって来た男だったことを知った。何処の誰なのかは記されていなかったが、その部分を破り取って持ち帰った。
荀氏の屋敷の火事の際、運び出された衣装箱に隠れて覗き見た風景の中に、あの男がいた。あの時よりも歳をとっていたが、間違いなかった。
その男は、誰かを探していた。目当ての人物を見つけたらしく、安堵したように膝から崩れ落ち、「範玲様」と呼ばった。
”ハンレイ”。
あの男が十一年前に言っていた名前と同じ。
甘婁に来たのは、その者のため。
耳が良すぎる”ハンレイ”。
それが夏家の
*
今の耳の状態がどうなのかは知りませんが、と結んだ古利の話を聞き終わると雲起が笑顔を見せた。
「それはいいね」
再びその目が楽しそうに笑っていた。
**
火事で熱傷を負った荀氏が何とか声を出せる状態になった。身体の熱傷は酷く、まだ予断を許さない状況であったが、荀氏の希望により、話を聞くことになった。
荀氏は一年程前、雲起と知り合ったという。
妻が病で亡くなり、息子がまた官吏採用試験に落ち、娘は王族と何とか婚約に漕ぎつけたものの、相手には全く結婚に向かう気配もない。
良いことなど一つもない。
鬱々とした気分で酒楼で一人酒をあおっていた。
席の横を通りがかった男がよろけて荀氏にぶつかった。その拍子に手にしていた酒が溢れて衣服に掛かった。
面白くない気分がさらに不愉快になり、ぶつかった男を睨みつけた。
するとその男は、恐縮して、お詫びに酒を振舞わせてほしい、と自分の席に誘った。誘われるままについて行くと、その男は若いにもかかわらず、如何にも高そうな個室に妓女まで侍らせていた。
荀氏は自分との違いに苦いものを感じながら、半ば
酔ってくると、自分の息子より随分年若いその若者相手に、息子の不甲斐なさについて散々愚痴をこぼした。相槌をうちながら聞いていたその若者が言った。
「じゃあ、私に協力してくれませんか? そうしたらご子息に朱国での高官の地位をお約束しますよ」
若者は朱国の第三皇子の雲起だと名乗った。
「協力といっても、別に大した事じゃないですよ。蒼国のことを時々教えてくれればいいんです」
その軽い誘い方に、警戒心は湧かなかった。
別に裏切るわけではない。当たり障りのないことを言っていれば良い。
荀氏の心はすぐにその気になった。
何より朱国の皇子と繋がりができるのは荀氏の自尊心をくすぐった。
それ以降、荀氏は自分が見聞きしたことを知らせた。大抵は酒楼の個室で酒を呑みながら、雲起の使いだという者を相手に話した。
しかし、知らせたからといって、雲起が特段興味を示すわけでもなく、何を言ってくるということもなかったため、荀氏は次第にただ友人と世間話をしているという錯覚に陥った。
前王の啓康の様子がおかしくなったことも、あまり深く考えることなく、世間話の延長で雲起に知らせた。
それがあのような事件に繋がってしまった。
しかし、だからこそ後に引けなくなった。
それ以降は雲起の言うままに動いた。
馬広然を大理寺の職員に採用し、脱獄した古利を屋敷に匿った。大理寺の罪のない若者をおびき出し、広然に引き渡しすらした。その若者がどうなるのか、などということは考えなかった。いや、考えようとしなかった。
そこまでしたのに、結局荀氏は殺されかけた。
自分のみならず、子ども達も殺してしまうところだった、と荀氏は泣いた。
時折尻込みしそうになる荀氏に、雲起は、息子を朱国の高官に取り立てる約束の他に、照礼を後宮に入れてくれるようなことを仄めかした。照礼の二胡は素晴らしいから、朱国の皇子にきっと気に入られる、と。
碧公との婚約がなくなってしまったが、その方が良いかもしれない。
自分が大して出世できなかったから、荀氏は子ども達には出世して欲しかった。
荀氏は雲起への恨み言と勝手な言い分を一気に吐き出すと、ぐったりとして、疲れた、と目を瞑った。
それ以降、目を覚ますことはなく、荀氏は数日後に息を引き取った。
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