第52話 余話 4 昌健と昊尚
昊尚とその甥の昌健の話です。
時期としては、藍公たちの葬儀の後なので、「往日 ある日の記憶 2」のあたり以後です。
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数年前から、周家に喜招堂の梁彰高という商人がよく出入りしていた。屋敷に来た時は昌健にも声をかけてくれた。
まだ若そうに見えるが、いかにも切れ者という風体で、各国の事情に詳しく、喜招堂という
彰高は外国を行き来していて忙しそうなのだが、蒼国に来たときには周家には必ず顔を出していたようだった。昌健の父親である承健とは、特段親しいという印象は受けなかったが、出入りの商人と顧客、という関係にも見えなかった。
彰高の少し青みがかった黒い瞳は、父親にも昌健にも似ている気がした。
その瞳の色からも、彰高は周の血筋なのだろう、ということは何となく感じていた。
昌健の父親は彰高が帰ると、彰高のことを何故かよく褒めていた。逆に、それを聞いて祖父は複雑な顔をしていた。
*
昌健は、父親と祖父が一度に亡くなったと知らされた時、一体何が起こったのか理解ができなかった。しかも父親は殺されたという。
いつも穏やかで、凡そ人と争う姿など想像できなかった父親が、殺された。
悲しいのか、腹を立てているのか、狼狽しているのか、昌健は自分の感情がわからなかった。
元々あまり身体の丈夫でない母親は寝込んでしまい、妹もずっと泣いている。使用人達も皆、泣いていたり不安な表情でいる。二本の柱を失った屋敷の中は、これ以上ない程混乱した。
それに、周家の当主である祖父が亡くなり、それを継ぐはずだった父親も殺された。それは、直系の昌健の肩に、藍公という重責がかかってくるということを意味する。
いずれは藍公を継ぐ日が来るだろう、と周家の長男としての認識はあった。
しかし、そんなに早く、まだ十二の自分にその時が訪れるとは、夢にも思っていなかった。
祖父や父親を亡くしたという悲しみに加えて、蒼国への責任という不安に、昌健は押し潰されそうだった。
父親たちの死を知って間も無く、屋敷に出入りしていた喜招堂の彰高が、実はずっと音信不通とされていた叔父の昊尚だということを知らされた。昌健は、これまでの父親や祖父の態度が腑に落ちた気がした。
やはり身内だったのか、と。
そして、昌健が青公としての責務が果たせるようになるまでの間、昊尚が藍公を引き受けてくれることになり、肩の荷がひとまず下りてほっとした。
周家に移って来た昊尚は、黙々と成すべきことをこなしていた。もうずっと藍公であったかのように、昊尚の働きには不安なところがなかった。
屋敷の中も、昊尚のおかげで秩序が戻ってきた。
まるで父親や祖父の死は、昊尚に何ら影響していないように見えた。
自分に代わって責務を引き受けてくれたことは、感謝していたが、祖父、特に父の存在はもしかして不要だったのだろうか、とやりきれない思いを感じた。
自分も父たちも、昊尚にとっては取るに足らない存在なのだろうか。それに、自分が藍公を継ぐことができるようになるまで、と言っているが、ずっと昊尚が藍公を引き受けてくれた方が良いのではないか。昊尚もそう思っているのではないか。
昌健は、感謝しつつも鬱々とした感情を拭うことができないでいた。
*
即位の儀のため、新王と青公らが蒼泰山へ向かう前夜遅く、昌健は、昊尚が父親の部屋に入って行ったのを見かけた。部屋は生前のままにしてある。
何をしているのかと様子を窺っていると、昊尚は明かりも点けず、暗い中、父親が普段使っていた机に向かい、椅子に座った。そして、机の上に置かれたままの父親の上着に触れた。そしてもう一方の手で顔を覆ったまま動かなくなった。
格子窓から差し込む月明かりが、動かない昊尚を形どる。泣いているわけではないようだが、全身から悲しみが溢れ出ていた。
昌健は昊尚のそのように悲しみに暮れる姿を見たことがなかった。
思わず手をかけた扉が、わずかに音を立ててしまい、昊尚が顔を上げた。
「昌健か」
入口に向かって昊尚が声をかけた。
名前を呼ばれてしまったので、昌健は部屋に入った。しかし、入ったものの、何を話してよいのか浮かばない。
黙って昊尚の前に立つ。
そんな昌健に、薄暗がりの中で昊尚が眉を下げて微笑む。目には普段の鋭い光はない。
こんな昊尚を目にするのは初めてだった。
もしかして、こうして夜中に誰にも知られずに悲しみを噛み殺していたのだろうか。
昊尚は昌健を見つめると、また視線を手元の上着に落とした。
「兄上は、私の恩人なんだ」
昊尚がぽつりと昌健の父親のことを話し始めた。
「兄上がいなかったら、今の私はなかった。いつも助けてもらった」
意外な言葉だった。
昌健は自分の父親のことはもちろん好きだった。しかし、客観的に見て、昊尚の方が優秀だ。
昊尚が助けることの方が多かったのではないだろうか。
「私がお前くらいの時、仙人の文始先生のところに弟子入りをしたんだ。母上や父上には当然反対された。……特に父上……藍公には激しく反対されて、どうしてもというのならば勘当だと言われたんだが、兄上が説得してくれてね。その後も父上と私の仲を取り持ってくれた。兄上がいなかったら、話もしないままに永遠に別れることになっただろうな」
昊尚は上着を優しく撫でる。
「あんなに懐の深い人はいないぞ。我儘な私のやりたいようにさせてくれた。あとは任せろ、と」
ただ聞いていることしかできない昌健に、昊尚が続ける。
「だから、今度は私が、兄上の役に立ちたい。兄上がお前に引き継ぐはずだった藍公を、兄上の代わりに務めて、お前にちゃんと引き継ぐ」
昊尚の胸の内を初めて聞いた昌健は言葉が出なかった。
「それに、先日の啓康様の件……。兄上は、文書に押した印の位置で、我々に奴らの企みを教えてくれた。あのような自分の命が危険に晒されている状況で、文書が成立しないような印の押し方を選ぶなんて、勇気と思慮深さを持つ兄上でなければできなかったことだ」
昊尚は泣きたいような顔で微笑むと、静かに言った。
「素晴らしい兄だった」
部屋に差し込む月明かりが亡き人を悼む昊尚を照らす。
気がつくと、昌健の頬は濡れていた。
葬儀の時、口さがない者が殺された父親のことを、犬死にじゃないのか、と言っていたのを耳にしてしまった。反論もできず、そうなのかもしれない、と思ってしまった。それ以降、父親のことを言われるのが怖くて外に出るのが嫌になった。
昊尚の言葉は昌健の心に溜まっていた
ただ涙を溢し続ける昌健に、昊尚は黙って一緒にいてくれた。
*
その日以降、昌健は少しずつまた外に出るようになった。
本が好きな昌健に、夏家の蔵書が私蔵では最大であることを教えたのは昊尚だった。
見てみたいという昌健を、昊尚が夏家に連れて行ってくれた。しかし、屋敷についたものの、昊尚が英賢と話し込んでしまい、これから宮城に行くことになったと言うので、昌健は場所だけ聞いて一人で見に行くことにした。
書庫の場所を見つけて、おっかなびっくり普通よりも重い扉を開けると、古い紙の匂いが鼻腔に広がった。奥までずらりと続く棚には、本が整理されて整然と平積みされている。
私蔵とは思えない蔵書量に圧倒された。
「うわぁ」
思わず声をあげると、棚の影からひょこりと顔がのぞいた。
さらさらと流れる漆黒の絹糸のような髪に縁取られた美しい顔の中で、碧色の瞳が少し驚きを見せたが、すぐにはにかんだ笑顔がこぼれた。
「こんにちは」
「こ、こんにちは」
昌健はその花がほころぶような笑顔にどきどきして声が裏返る。
「昌健殿ね? 範玲です」
彼女は昌健を知っていた。
範玲、ということは、この人があの引きこもりの
昌健は、噂と全く違うことに驚く。十も年上とは思えない可憐さにも。
「……中を見せてもらってもいいですか」
どぎまぎするのを抑えながら、昌健が言うと、範玲が、どうぞ、と再び微笑む。
範玲が、本は好きなように見ていい、と言ってくれたので、ぶらぶらと書庫の中を本を手に取りつつ歩く。面白そうな故事伝承の本を見つけたので、置いてあった椅子に腰掛けて読み始める。
はっと気がつくと一刻ほど経っていた。しかし、範玲も少し離れたところの椅子に座って何かを読んでいて、こちらを気にしている様子もない。
その何事もない感じが心地よかった。
「すみません。うっかり夢中になってしまって」
昌健が声をかけると、範玲は手元の本から顔を上げて、にこにことする。
「面白かったですか?」
昌健が感想を言うと、範玲はその本の内容を知っていて、あれこれと関連した本についても教えてくれたりと話が弾んだ。
すっかり話し込んでしまい、気がつくと日が落ち始めていた。
こんなにただ単純に楽しいと思ったのは、いつぶりだろうか。
名残惜しいが、そろそろ帰らねば家の者も心配するだろう。
昌健は範玲におずおずと聞いた。
「また来ていいですか?」
「いつでもどうぞ」
範玲の柔らかい笑顔は昌健の心をほっこりと温めた。
*
その夜、昌健は昊尚に、夏家の書庫でのことを興奮気味に報告した。
昊尚は、自分とよく似たほんの少し青みがかった黒い瞳の昌健が、少し顔を赤らめて範玲のことを話しているのを聞きながら思った。
似ているのは瞳の色だけじゃなさそうだな……。
昊尚は僅かに苦笑した。
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