第33話 元年季冬 雉雊く 2


 怒涛のような照礼の来訪と、残された文を前に、範玲は大きな溜息をついた。


「ご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした」


 珠李が範玲のそばに来て恐縮して謝る。

 いつもの朗らかな雰囲気が陰っている。表面を取り繕う気力もなくなってしまったのだろう。


「そんな。珠李殿の方が災難だったじゃないですか。照礼殿は私を訪ねていらしたようでしたから、どの道ああいった展開になっていましたよ。珠李殿のせいじゃないわ」


 範玲が慰めると、珠李が困ったように力なく微笑んだ。


「どこかに行かれるところだったのに、照礼殿に捕まってしまったんじゃないですか? 大丈夫です?」


 範玲が聞くと、何故かバツの悪そうな顔をする。


「……実は、私もここへ用事があって。英賢様から兄への伝言を預かってきたのですが……」


 珠李が言い淀む。

 そこへ志敬が来て聞く。


「碧公から? 何だった?」


 珠李はちらりと範玲を窺うと、観念したように言った。


「実は、照礼殿が範玲様のところに押しかけるかもしれないから、気をつけていてもらえないだろうか、と……」


 英賢が史館の職員に、必要以上に範玲をよろしく頼むと言っているのは知っていたが、相変わらずの過度の心配性に範玲が眉を下げる。


 そんなことに珠李殿をお使いに寄越すなんて。珠李殿だってお仕事があるのに。


 範玲は申し訳なさでいたたまれなくなった。


「ああ……そうだったのか……。それは申し訳なかった。思い切り矢面に立たせてしまったな……」


 それなのに、志敬まで済まなそうに頭を掻いた。


「いえ、こちらこそ申し訳ありません。兄が心配しすぎなんです。気にしないでください」


 慌てて両手を振りながら範玲が謝る。3人とも謝ってばかりだ。もう何に謝っているのかよくわからなくなる。

 そこで範玲が不思議に思ったことを聞いてみる。


「何故兄は照礼殿がここに来るって分かったのでしょうか」


 すると、珠李は言っていいものか少し迷った後に教えてくれた。


「照礼殿が、羽林軍の鍛錬の最中に理淑様のところに、あのような感じで訪ねて行かれたようなのです。でも、理淑様には全くお話を聞いてもらえなかったようで……」


 理淑は、英賢への荀氏の仕打ちにかなり腹を立てていたから、きっとけんもほろろに追い返したのだろう、しかも訓練の最中なら尚更だろう、と範玲がその光景を思い浮かべる。


「それで、次はもしかしたら範玲様のところに行かれるのではないか、と。ちょうど陛下にお茶をお持ちした際に、そのようなお話をしていらしたので、兄に伝えておきます、と私の方からお引き受けしたのに……。余計な騒動にしてしまって、すみません」


 まさか鉢合わせをするとは思わなかった、と珠李が呟きつつ、話を続ける。


「ここしばらく、照礼殿が何か言いたげに、遠巻きにずっと見ていらしたのに英賢様は気付いておられたようです。ですが、英賢様に何か言って来られることはなかったので、そのまま様子を見ていらしたそうなんですが……」


 付き纏っていたというのはむしろあちらではないか。

 だから珠李が英賢と会っていたところも目撃できたということか。しかも早朝からとか。


 それ程思い詰めるとは大丈夫なのかと範玲は少し心配になる。

 考え込んでいる範玲に、珠李が聞いた。


「……あの……その文、お返ししてきましょうか?」


 照礼が置いていった文を珠李が指差す。

 範玲は一瞬頼もうかと考えたが、首を振った。


「ありがとう。でもいいです。珠李殿が行くとまた騒動になると思うし……」

「……そうですね……。仰る通りですね……」


 珍しく珠李がしゅんとする。


 凄く疲れた顔をしている。無理もない。


「何だか災難続きですね。古利のことといい……」


 範玲が言うと、珠李は視線を落とした。


「色んな所に顔を出しているのは事実ですから、そう受け取る人がいても不思議はないのだと思います。私の不注意でした」


 すっかり自信をなくしている珠李が気の毒になり、


「ごめんなさい。兄からのお仕事の為ですよね」


 声を落として範玲が言うと、とんでもない、と首を振る。


「英賢様は、殿中省のことだけでいいと仰います。私が勝手に、あちこちに顔を出しているだけですから」


 申し訳なさそうに小さく言う。


「お仕事の邪魔をして申し訳ありませんでした」


 何度目かの謝罪の言葉を口にすると、珠李は史館を後にした。





 その日の午後、範玲は蒼国二百年史の前王啓康の本紀部分をまとめるため、資料を整理していた。しかし、手にした本にふと違和感を感じた。

 範玲はその本を捲って、丁合いが間違っていないか確認する。更にもう一度、一枚ずつ丁寧に見る。

 そうしてめつすがめつ検分して、首を傾げている範玲に君山が声をかけた。


「どうかしたのですか?」

「ええと、この資料、うちにもあるのですが、それと比べると何枚か抜けてるようなんです」

「そうなのですか。見せてもらっても?」


 言われて範玲が本を渡す。

 その本は、前王である啓康の功績を年毎にまとめたもので、五年分を一冊に製本しているものだが、ある事績について書かれていたであろう箇所が抜けているようなのだ。

 君山は範玲から本を受け取ると、示された箇所の前後を見比べた。


「これは、時期的に見て、麻薬を禁止する法を公布した経緯が書かれているあたりですな」


 君山が言うと、範玲が頷いた。


「はい。うちにあったのには、その部分に麻薬を禁止する法の記述がありました。こちらを複製したものだと思うのですが、これにはその部分がないので……」

「ふむ。確かに変ですね」


 麻薬を禁止する法律は十一年前に、啓康王により作られた。それは、許可なく麻薬の栽培、製造、所持、譲渡、譲受、所持、使用等を禁ずるものだ。

 啓康王の公布した法律の中でも重要なものに数えられるのに、この資料にはそれについての記述が見当たらない。

 本のノドの部分をよく見てみると、破り去った跡がわずかに残っている。また、綴じてある糸も若干緩んでいる気がする。

 誰かが意図的にその部分を取り去って行ったということなのだろうか。


「誰か、この資料を利用に来た者がいませんでしたか?」


 君山が本を見せて他の者に聞くが、誰も心当たりがないようだ。

 この史館で所蔵する資料は、誰でも自由に見られるというわけではないが、皇城に勤める者ならば資料を利用することができる。閲覧には入館簿に所属と名前を記入する必要があるので、いつ誰が史館を利用したのかはわかる。

 しかし、問題の本が破り取られたのがいつなのかわからないため、結局誰の仕業なのかは明らかにならないだろう。


「申し訳ないのですが、抜けている部分は夏家のものを写させてもらって良いですかな。それを綴じ直しておきましょう」


 一般に発行しているものではなく、ほぼ内部資料であるため、所蔵しているところは少ない。

 君山が資料の補修を指示し、資料の破損については一応史館を所管する門下省の長官に報告することになった。

 ただの不心得者による図書の破損ならば、補修してしまえば、それで話は終わる。

 しかし。

 破り取られていたのは、麻薬を禁止する法について書かれている箇所。

 そのことに範玲は何か引っかかりを感じた。

 前王の啓康を廃人のようにした主な要因は麻薬だ。自身が禁じたものにより王位を追われたというのは偶然だろうか。

 その法律ができるきっかけとなったのは、ある騒動だった。



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