第32話 元年季冬 雉雊く 1


 古利が牢から逃亡してしばらく経った頃、珠李がこの脱獄に関わっている、という噂が立った。

 珠李は顔が広く、牢番ともよく話をしたり、差し入れをしたりすることもあった。古利が牢に収監されている頃にも、その牢近くをうろうろしていた姿を見た、という者がいた、ということから出たものらしい。

 珠李は御史台に呼ばれ、取り調べのようなものを受けたという。

 珠李の心の内を読んでしまったことのある範玲としては、そんな噂が全くの出鱈目ということがわかっていた。

 しかし、それを言う訳にもいかず、範玲はただ心配するしかなく、一体誰が何故そのような根も葉もない噂を立てたのか、不思議に思うばかりだった。



「何とかおっしゃいよ!」


 史館の外から甲高い声が聞こえてきた。範玲でなくとも十分に聞こえる音量だ。


「騒がしいですね」


 周順貴は顔を上げると、窓辺へ行き、格子窓を少し開ける。開いた隙間から冷たい風が入り込む。

 寒っ、と言いながら順貴は外を窺うと、その声の出どころを見つけて顔をしかめる。


「何なんです?」


 陶志敬が聞くと、順貴が外を指差して言った。


「珠李殿が絡まれてる」

「えっ!?」


 珠李の兄の志敬は驚いて順貴を押しのけ、窓から外を確認すると、慌てて出て行った。

 引き続き窓の隙間から様子を見ていた順貴が言う。


「志敬殿が二人を連れてくるみたいですよ」


 間も無く志敬に促されて、珠李と一人の女性が部屋に入ってきた。


「すみません。少し場所をお借りします」


 志敬が至極申し訳なさそうに言い、執務室の奥の空いた椅子に二人を連れて行った。


「一体何があった?」


 二人が腰を下ろすのを待ってから、志敬が珠李に聞く。


「さっぱりわかりません。この方が、急に……」


 珠李が心から戸惑ったように善良そうな顔で言う。


 ……猫かぶってる方の顔だ。


 ちらりと窺って範玲が心の中で呟く。


しらを切らないでちょうだい」


 珠李を睨み続けていた女性が、珠李の言葉をきっかけに激昂した。

 聞き耳を立てているわけではないが、会話はすっかり聞こえる。


「私は荀照礼よ。こう言えばわかるかしら」


 突然の自己紹介に、範玲は思わず顔を上げて視線を向けた。

 荀照礼といえば、英賢と婚約をしていた女性だ。

 妹二人を溺愛する英賢は、範玲と理淑が嫁いだ後でなければ自分は結婚する気はない、と明言していた。しかし、いつになっても良いから、と照礼の父親の荀氏が無理やり娘と英賢の婚約の約束を取り付けたのだ。

 そうまでしながら、あの事件が起こって英賢が疑われるや否や、婚約を反故にする文書を一枚一方的に送りつけてきた。

 結局、英賢の濡れ衣が晴れたわけだが、その途端、荀氏はその文書を「間違いだった」と取り返しに来た。しかし、流石に英賢も家の者も誰も取り合わなかった。だから、英賢と照礼の婚約はなかったことになっている。

 その照礼が何故珠李に絡んでいるのか。


「すみません。わかりません」


 珠李が思案顔で真面目に答える。


「……っ! いい加減にしてちょうだい。貴女が英賢様に付き纏っているのはわかっているのよ!」


 ……は?


 珠李の顔が一瞬、素になる。が、再び表向きの顔に戻る。


「おっしゃっている意味がわかりません。……英賢様に付き纏うだなんて、そんなとんでもない……」


 困り切った様子が思わず庇護欲を誘う。……本来の珠李を知らなければ、だが。


「照礼殿、お言葉ですが、珠李は英賢様に付き纏ってなどいません。何かの間違いでは?」


 珠李の兄の志敬が助け舟を出すが、照礼は引き下がらない。


「私、見たのよ。早朝に英賢様に言い寄っているところを! 貴女なんかと英賢様に接点なんてないはずなのに! わざわざあんなに朝早く、英賢様を待ち伏せするなんて」


 ああ、殿中省の様子を碧公に報告してるところを見られたか。


 珠李が内心で舌打ちする。

 早朝に二人を目撃した照礼の方は、一体何をしていたのか。それこそ英賢を待ち伏せでもしていたのか。


「貴女が英賢様をたぶらかしたから! だから……だから私と英賢様の婚約が……!」


 照礼がそこで泣き崩れてしまった。

 範玲はこっそり窺い見るどころか、思わずしっかりと凝視してしまっていた。


 いや、原因はそこじゃないと思うのだけど……。


 照礼は婚約がなくなった経緯いきさつを知らないのだろうか、訂正をした方がよいのかな、と範玲が迷う。


「……照礼殿、悲しいお気持ちはわかりますが、私と英賢様は何の関係もありません。照礼様が見かけたとおっしゃったのは、たまたま、とても朝早くお会いしたので、言葉をかけていただいただけです」


 少し気の毒になったのか、珠李が穏やかに言い聞かせるように話す。

 しかしそれも照礼には全く響いていないようだ。

 すると、照礼が突然、何かを思い出したように顔を上げて、誰にともなく聞いた。


「……そうだわ、こちら、史館ですわよね。範玲様がいらっしゃるのではなくて?」


 急に名前を呼ばれて範玲は咄嗟に面を下げた。


 ……。

 やり過ごせないかな。


 範玲が気配を消そうと息を殺すが、志敬があっさり期待を裏切った。


「あちらに」


 顔を伏せたまま、書物に没頭して聞いていなかった振りをする。しかし。


「範玲様、お初にお目にかかります。私、荀照礼です」


 照礼は範玲の方に近寄ってくると、先程の興奮具合とは見違えるように、可憐に挨拶をする。

 範玲は観念して本から顔を上げると、立ち上がりにっこりと微笑む。


「こんにちは。初めまして。夏範玲です」


 すると、照礼は範玲を見つめたまま固まってしまった。


「……照礼殿?」


 範玲が怪訝に思い声をかけると、照礼は、はっと我に返って赤くなる。


「し、失礼しました。やっぱり御兄妹ですのね。面差しが英賢様に似ていらっしゃって、とてもお美しくて、まるで英賢様に微笑んでいただいてるような……」


 俯いてもじもじしながらごにょごにょと言う。

 良くも悪くも思った事を口に出してしまう人らしい。

 早くこの対面を終わらせたいのに、話が斜めの方向へ行ってしまっている。


「あの……私に何か御用でしたか?」


 もじもじし続ける照礼に水を向けると、再び我に返って、懐から何かを取り出した。


「これを、英賢様に……!」


 文のようだが。


「何でしょう?」


 範玲が聞いてみると、また先程のように興奮し始めた。


「私、英賢様との婚約を反故にしたくないのです! きっと英賢様はあの珠李殿に誑かされてしまったと思うんですの。だから、その事を、私、英賢様に……!」


 ……ちょっと、これは、このままではいけない気がする。


「照礼殿」


 範玲は、照礼の話を遮った。


「あの、珠李殿は兄上を誑かしたりしていませんし、兄は誑かされたりなどしません」


 範玲はゆっくりと噛んで含めるように言う。


「それに、婚約を反故にしてきたのは荀氏の方ですよ」

「……! 私はそんなことを望んでいなかったわ。父上にも何度も言ったもの」


 再び声が湿り気を帯びる。


「……でも、婚約を申し込まれたのも、反故にしたもの、荀氏……貴女の父上です。それとも、照礼殿は兄と、何か直接お約束をされているのですか?」


 範玲は一応聞いてみた。


「そんな、恐れ多いですわ。英賢様には以前一度、私の二胡の演奏を褒めていただいたきりお会いしていません」


 今ひとつ話がかみ合わないが、兎に角英賢とは特別に結婚の約束をしたわけではないようだ。

 それにそもそも、英賢自身が、荀氏の婚約の反古の文書をもらって却ってよかった、と安堵しているところを範玲は見ている。


「……父は私にもう次の縁談を持ってこようとしてるんです」


 照礼が急にしょんぼりして言った。


「まあ、それは……」

「お前にはもっといい結婚相手がいるから、って……。この間もそれらしい方が家に来てて……」


 もう英賢との縁が切れてしまった以上、親心としてそう言うのも無理はないかもしれない。


「でも、私、英賢様をお慕い申し上げていて、諦められないんです。だから、この文を……」


 再び文を渡そうと近寄ってくるので、範玲が慌てて三歩下がる。


「あの、その文には一体何が書いてあるのですか?」

「珠李殿が色んなところに出入りして、色んな男性を誑かしていることを、英賢様に教えて差し上げようと思って」


 離れたところで成り行きを見守っていた珠李が、あんぐりと口を開けたのを範玲は横目で確認した。


「うーん……それは、どうでしょう。そんな告げ口のようなことをしても、照礼殿の品位を落とすだけですよ。兄がそのような文をもらって、喜ぶとは思えません。貴女も兄に悪く思われたい訳ではないでしょう?」


 範玲が諭すと、照礼は不満げな顔をしたが、文を押し付けてこようとする手を下ろした。


「そうですか……」


 照礼はまだ納得はしていないようではあったが、とりあえず引き下がってくれた。

 それでもまだ何か言いたげな様子で帰る素振りが見られなかったが、順貴が、冷たい言いようで執務中であることを思い出させると、照礼は渋々帰ることにした。

 あれだけ失礼なことを言った珠李に謝りもしなかったが、範玲に挨拶をすると、とぼとぼと出て行った。


「……何なんでしょうね」


 順貴が呆れて呟き、机の上を指差す。


「……文、忘れて行ってますよ」

「あ……」


 机の上には英賢へ渡して欲しいと言っていた文が置かれたままになっていた。


 

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