第8話 二日目下午 喜招堂 1



 範玲が目を開けると、喜招堂の奥の部屋の天井と、心配そうに覗き込んでいる理淑が目に入った。


「姉上、よかった」


 理淑の顔が安堵の表情に変わる。


「……私、どうしたんだっけ……」 


 座ろうとして上体を起こしかけると、めまいで目の前が揺れたのでゆっくりと動く。


「宮城に彰高殿と出かけたんだけど、そこで意識を失ってしまったんだって。それで彰高殿に背負われて帰って来たの。……本当に大丈夫?」


 そうか……。そうだった。

 ……。

 え?


「……背負われて?」


 意外な言葉に範玲が混乱する。


 え、ちょっと待って。

 んん?

 背負われて、私、大丈夫だったの?

 意識が無かったから?

 あれ?

 あれあれ。

 段々色々思い出して来た。

 おかしいおかしい。

 どうして平気だったの?


 殿中省尚食の控え室で、耳飾りを外して城内の会話に聞き耳を立てている間に、目の前が真っ暗になって意識を失ったのは確かだ。

 耳朶を触ってみると、外した耳飾りは元どおりあった。誰かが耳飾りを戻してくれたようだ。


「……ね、理淑……私、戻ってきた時……耳飾りちゃんとしてた?」


 恐る恐る聞くと、理淑がきょとんとして答えた。


「うん。してたと思うよ?」

「そう……」


 では戻してくれたのは彰高だ。

 そのことも覚えてはいない。

 でも、一旦目が覚めた場所は、そういえば誰かの背だったような気がする。

 とても心地良くて、そのままうとうととしたところまで記憶がある。その後また眠ってしまった感覚も……。

 思考を感じなかったのは直接触れていなかったから?

 いやいや、その時誰かに手を掴まれていた感覚はある。

 ”手が……”と思った記憶もある。

 でも、誰かの思考が入って来たという記憶がない。

 覚えているのは、とても静かで心地良かったということだけ。

 "静か"というのがまずおかしい。今までそんな感覚を味わったことなどないのに。常に雑音が耳につきまとっているのに。玄亀の耳飾りを得てからも、音は小さくなったものの、雑音はいつもあったのに。


「……姉上?」


 範玲が瞬きもせず固まったまま動かなくなってしまったので、理淑が心配して覗き込む。


「……もしかして、彰高殿の思考を読んじゃって……?」


 理淑が声を潜める。


「ううん。そうじゃなかったの。それは大丈夫だった」


 範玲はふるふると首を振る。


 だめだ。わからない。とりあえずこの問題は棚上げして、もう少し冷静になってから考えることにしよう。


 そう決めると、範玲は理淑に言った。


「うん。ごめん。目が覚めて、ちょっとぼうっとしてしまっただけ」

「……そう? 本当に?」


 心配そうな理淑に範玲が微笑む。


「ええ。本当にもう大丈夫」

「……じゃあ、彰高殿たちに知らせてくるね」


 そう言うと理淑は、躊躇いがちに部屋を出て行った。





 間もなく理淑が彰高と壮哲を連れて戻って来た。


「具合はどうだ?」


 彰高は部屋に入ると範玲に聞いた。


「……大丈夫です。すみませんでした」


 範玲は彰高を探るように見ながら答える。


 背負ってくれた時のことを聞いてみようか。

 いやいや、どう聞けば良いか全くわからない。


 内心大慌てであるが、そんな範玲に彰高が言葉を継ぐ。


「大事ないならいいが……」


 範玲の顔色を観察するような目を向けて彰高が聞いた。


「それで……起きたばかりで申し訳ないが、宮城では何か聞き取ることはできたか?」


 そう言われて、範玲は気持ちを切り替えることにした。


「はい。尚食の控え室から六つ離れた部屋での会話を聞きました」


 きっぱりと言う範玲を、壮哲が、ほう、と興味深げに声を上げて腕を組む。彰高は、そうか、と呟く。


「ではすまない。早速聞き取ったことを教えてくれないか」


 彰高がじっくりと腰を据えて聞こうと意思を表すように椅子に座った。壮哲は範玲が話しやすいようにと気遣ってか、一歩下がって聞く体勢をとった。

 それを確認すると、範玲は少し緊張しながら言った。


「では、私が聞いた通りの会話をそのまま再現する形でよろしいでしょうか。その方が私の主観が入らないので、お二人に適切な判断をしていただけると思います」


 聞き取ったことを、聞いたそのままの台詞で再現して伝えることを提案する。


「会話そのまま?」


 壮哲が驚いて聞き返す。


「姉上はとても記憶力が良いので大丈夫ですよ」


 理淑が保証すると、壮哲が納得したかどうかはともかく、彰高が範玲の言う通りに任せることとしようと言い範玲に主導権を渡した。


「会話を聞いたのは男女二人のものでした」


 思い出しながら会話の再現を始めた。





 範玲が宮城で聞き取ったことを話すのを、彰高は顎に手を当てて伏目がちに考えるように聞いていた。

 話が終わると、顔を上げて範玲に、「よくわかった。ありがとう」と言って壮哲を振り向いた。すると壮哲が彰高の側に立った。


「驚いたな」


 壮哲の発した言葉は、話の内容のことなのか範玲の耳に関してのことなのかはわからなかったが、彰高はそれに頷く。

 範玲に気がついたことがあったらその都度言うようにと言うと、彰高と壮哲が検討を始めた。


「確認するぞ。話していたのは二人の男女。女は男の方を"兄上"と呼んでいた。女は"ケイトウ"を王にしたいと思っている。……他に陛下らしき方の声は聞き取れなかったのだな?」


 彰高が範玲を見る。


「はい。二人分の声しか聞き取れませんでした」


 範玲に頷くと、彰高は壮哲に向き直った。


「"ケイトウ"はおそらく陛下のご嫡子の啓登殿だろう。そうすると、女の方は怜花妃、男の方は、その兄といえば呂将軍だ。この二人の会話で間違いないな。殿中省の女官の話によると、あの時、陛下の部屋には呂将軍が居たはずだ。だから、聞き取ったのは陛下の部屋でいいはず」

「陛下は具合がお悪いようだと女官たちも言っていたんだったな。じゃあ、お休みになっている陛下の傍で話をしていたということか。だとしたら随分と不用心だが……逆に陛下のお加減が相当悪いということか」


 壮哲が一旦言葉を切って、躊躇いの混じった目を彰高に向けた。


「……藍公は……病死だったんだな……。彰高、心当たりは?」

「……心臓が弱ってたというのは聞いている」

「心臓か……」

「その病死を利用して、元々立てていた計画を実行することにした。……そして承健殿は呂将軍に殺害された、というところか」


 彰高の仄暗い声に、壮哲が、ぎり、と奥歯を噛む。


「……許せんな」

「ああ」


 怒りに満ちた重い空気が漂う。

 壮哲が不意に聞いた。


「範玲殿、この時、親父殿……縹公については何か言っていなかったか?」

「すみません……聞いていた限りでは、縹公のお名前は……」


 申し訳ない気持ちで範玲の語尾が小さくなる。

 父親を心配する壮哲の気持ちは痛いほどわかるので、何も情報を伝えられないことが心苦しい。

 壮哲は、そうか、とだけ言うと、会話の内容について彰高との検討に戻った。


「"コリ"というのは? 聞いたことがある名前か?」

「長古利という者が二ヶ月程前か……怜花妃の元に呪禁師として出入りしていたはずだ。一度会ったことがある。確か南方の出だと聞いたが」


 彰高の問いに、記憶を手繰るように壮哲の眉間に皺が寄る。

 呪禁師とは、呪術で邪気や病気の原因となる怨気を払い治療を施す者のことだ。


「呂将軍の目的は王位の簒奪か」

「啓登殿を王にした後、どうするかによるな。蒼国の王になっても、一つも得なことなどないのにな」

「全くだ」


 蒼国の王位は、純粋な血筋による継承はされない。王は夏家、周家、秦家の血を引くもののうち、最もその時相応しい者が継ぐことになっている。

 王になったとしても、もちろん身分に応じた暮らしが保証されはするが、それは元々の青家としての暮らしと大して変わりがない。

 そのくせ責務は重くなり、蒼国で最も割りの合わない職業であるとも言える。

 ちなみに王位の後継という意味での嗣子を必要としないため、後宮には正妃の他は王の夜伽をするための者は基本的にはいない。ただし、これまで王によっては側室のような者がいたこともあるが、それは極めて稀な例だ。


「となると、単純に啓登殿を次の王に仕立てたいという話ではなさそうだな。旨味が少ない。朱国が一枚噛んでいるとなると、朱国が蒼国を侵略しようとしているということなのか?」


 壮哲が言うと、彰高が考え込み、いや、と首を僅かに傾げた。


「にしてはやり方がまどろっこしいな」


 二人は可能性を洗い出し、話し合いを続けた。

 そこへ佑崔が声をかけて入ってきた。


「壮哲様、旦那様の居場所がわかりました」


 壮哲はそれを聞いて気持ちが急いたように佑崔に歩み寄る。

 おそらく今最も彼が欲していた情報なのだろう。佑崔に先を促す。


「旦那様は養安殿にいらっしゃるようです」

「無事なのか」

「とりあえずは恐らく……。ただ、とこについているようです」


 壮哲の顔色が変わる。


「どういうことだ。斬られでもしたのか」

「お怪我ではなさそうなのですが……呪禁師が出入りしているようです」


 壮哲は彰高と顔を見合わせた。


「また呪禁師か……」


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