第7話 二日目上午 宮城 3



 荷物の片付けをしているところに、お茶を持って珠李が再び入って来た。

 英賢のことを、見かけによらないかも、と言った女官だ。


「すみません。ありがとうございます」


 少々不機嫌になりながら範玲がお茶を受け取ろうとした時、茶碗が落ちそうになり慌てて差し出した手の指先が珠李の指に触れた。


 その瞬間。


 指先から英賢を案ずる強い気持ちが範玲の中に流れ込んで来た。

 その強い思いは、明らかに今指が触れた珠李から出たものだった。

 範玲は思わず弾かれたように手を離してしまい、危うく再びお茶を落としそうになる。


「わ、ごめんなさい。大丈夫ですか? 考え事をしていたのでぼうっとしてしまって……」


 珠李が慌てて謝り、固まってしまった範玲を覗き込む。

 範玲は覗き込んでくるその顔をまじまじと見つめた。


「……ありがとうございます……」


 思わず言葉が溢れた。

 流れ込んで来た珠李の英賢に対する気持ちに対して出たものだ。

 先程の珠李の態度からは思い至らない感情だった。


「あ……いえ……。……大丈夫ですか?」


 不審に思ったのか、珠李も範玲を見つめる。


「……大丈夫です。ごめんなさい。ちょっと熱かっただけ……」


 慌てて珠李から顔を背け、何とか言い訳をする。

 珠李は何かを言いかけたが、隣の部屋から央凛に呼ばれ、後ろ髪を引かれたように何度か振り向きながら仕事に戻って行った。


「どうした?」


 一部始終を見ていた彰高が範玲に声をかける。

 しかし今の出来事を話すには、範玲の能力のことを話さなくてはならない。それに関して他人に話すのは躊躇があった。

 範玲は自分の耳が並外れて良いことは彰高たちに話した。しかし範玲の持つ能力は、実はそれだけではなかった。


 人に触れると、触れた人の感情や思考が、好むと好まざるに拘らず聞こえてきてしまうのだ。


 これは玄亀の耳飾りを付けるようになっても改善されることはなかった。この能力のことは亡くなった両親と英賢、理淑だけが知っている。

 範玲は人とは触れ合わないように細心の注意を払って過ごして来た。指先はもちろん、髪の毛でも触れられるとうっすらと気持ちが伝わって来てしまう。直接触れない着衣の上からであれば、大抵は大丈夫ではあるが、薄い布越しだと油断はできない。

 ごく幼い頃は母や父たちに甘えて抱きついたこともあったが、長じてその危うさを自覚してからは、極力接触を避けた。

 父や英賢、理淑は範玲に心の内を知られても大丈夫だから、と言って抱きしめてくれようとしたが、いくら身内とはいえ心の内には知られたくないことだってあるだろうし、それ以上に範玲自身が怖かった。特に国政に携わる父や兄の心の内を知ってしまうことは、機密事項に関わることもあるだろうと思うと、やはり避ける方が賢明だと判断したのだ。

 引きこもって過ごしていたのは、音を避けるためだけではなく、人との接触をできるだけ減らすためでもあった。

 でもこんなことを会ったばかりの彰高に言えるはずがない。だから。


「いえ、大丈夫です。お茶が熱かっただけ」


 そういうことにしておいた。

 彰高は範玲を観察するように見ていたが、それ以上追求するのを諦めてか、切り替えて本題に入った。


「……早速だが、ここから陛下の部屋の様子を探ってほしい。ここからは結構離れているが大丈夫か? 先ほどの女官たちの話では、ちょうど今、呂将軍が部屋に居るようだから、悪いが急いでくれ」


 王の私室はこの女官たちの休憩の部屋から五、六部屋離れているところらしい。方角は北東。


「わかりました。……では、できるだけ静かにしていてください」


 気持ちを落ち着けるために深呼吸をすると、範玲は亀甲形の青い耳飾りを外した。

 外した途端に音の波が押し寄せてくる。

 範玲は目を閉じ、息を詰めて耐えた。それに慣れてくると、意識を北東の方角に向け、音を選別していく。

 足音、衣擦れの音、上司の悪口、噂話、業務報告……様々な音をかき分ける。


 まだだろうか。


 部屋を数える。


 六つ向こうの部屋だろうか。

 ……そろそろ厳しくなってきたな。


 そう思った時。


--…………陛下は…………のね……。


 かすかに女の声を聞き取った。

 意識を集中させる。


--……陛下はずっとこのままなの?


 この内容から、側に王がいると察せられる。


 見つけた。ここだ。


 でも、距離が思いの外あるせいか、他の音に紛れてとても聞き取りにくい。

 範玲は更に音を拾うことに意識を集めた。

 そして、もう一人、男の声を聞き取る。


--そうらしい。古利が言っておった。藍公が死んだことがそれほど衝撃だったとはな。嫌っておられたはずなのに。

--……そんな……。

--却って都合が良かったと思え。

--そんな言い方……。それに藍公は仕方なかったとしても、承健様を殺してしまうなんて、なんて恐ろしいことをしたの?

--生かしておいても面倒だ。仕方あるまい。だいたいお前が啓登を王にしたいと言い出したのが発端ではないか。

--そう言ったけど……。こんなことを望んでいたのではないわ。兄上のやり方は乱暴だわ。

--藍公の急死が予定外だったから、計画を前倒しせざるを得なかった。それに、薬のせいもあろうが、陛下もいつまでもは持つまい。事は急いだ方が良いだろう。

--……え? どういうこと? ねえ、……薬、って……まさかあの香のことじゃないわよね?

--……。

--そんな、聞いてないわ……! 酷い!

--うろたえるな。大丈夫だ。朱国に後ろ盾を担ってもらう約束も……取り付けて……

--………


 集中力が切れてだんだん声が途切れ途切れになって来た。

 再び音の波が激しく襲ってくる。


「……おい、大丈夫か?」


 不意に囁かれて、範玲が我に返る。

 全身が汗びっしょりで、頭が酷く痛い。

 目を開けると、景色がぐるぐる回っていた。


 ああ、これは駄目なやつだ。集中しすぎた。

 気持ち悪い……。


「吐きそう……」


 範玲は呟くと、懸命に引き止めていた意識を真っ暗な闇の中にするりと落としてしまった。



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