第5章

「ひーよりーん! はーやーいー! そんなに急ぐとウサギになっちゃうよー。首から懐中時計ぶら下げてさ、『大変だぁ、大変だぁ』って」

 雪ちゃんの声を聞いて、並み以下の速度で歩いていたつもりでいた私は立ち止まった。普通校舎二階から三階に繋がる階段の中腹。既視感のある光景に私は思わずはっとする。

 まるであの頃に戻ったような、不思議な感覚。

 けれど、やっぱりそんなことがあるはずはなくて、私たちの時間はちゃんと一年進んでいる。

 雪ちゃんが運んでいるのも、今では三年四組三九人全員の進路希望だ。

「ルイス・キャロルの不思議の国のアリスでしょ」

「わわわ、文学作品にはにぶちんのはずのひよりんが成長してるー。びっくりしちゃうよ」

 雪ちゃんは両手を挙げて『びっくり』のポーズをとった。

 かわいいけれど、もうその手にはのってあげません。踊り場に座る雪ちゃんを無視して階段を上る。目的は五階の家庭科準備室。

「もぉー、ひよりんのはくじょーものー」と言いながらついてくる雪ちゃんを少し待って、リノリウムの廊下を進んだ。

 普通校舎から専門教室の並ぶ特別校舎へ。

 渡り廊下には写真部の展示で『海水浴場』をテーマにした華やかな写真が並んでいた。今年の夏はただただ賑やかで、一年前この学校でささやかな不思議が噂されていたことを覚えている人は少ない。ほんの少しだけれど、そんなことに寂しさを覚えていたりする。

「失礼しまーす。三の四の神楽日和です。宇佐木先生に用があってきました」

「同じく白野雪、まとめた進路希望を配達に上がりましたー。えっへん」

 いつも通りの家庭科準備室はいつも通りの様相を呈していて、雪ちゃんがゲイジュツと呼ぶほどに、ようは散らかっていた。

「おつかれさーん。進路希望はその辺に置いといて。神楽、ちょっとこっちにきなさいな」

「えと、その辺……ってどの辺かな?」と混沌の中心で困惑する雪ちゃんを一瞥して、「はくじょーものー」な私は山(机)の向こう側に向かう。

「で、どうすんの?」宇佐木先生の手にはちょっといい紙が握られている。一応目を通してみたけれど、国語と同様英語も苦手な私がすぐに理解できたのは、表題に太文字で描かれた海外の有名な大学の名前ぐらいなものだった。

「先生これ、またこの山の中から引っ張り出しましたね?」引き伸ばされた皺が戻ろうとして、紙はA4より少し小さい。せっかくのいい紙が台無しだ。

「それはいーの!」っとにもーと言いながら宇佐木先生は自前のマグカップでコーヒーをすする。

「猪宮のおやじが、あんたに絶対にサインをさせろってうるさいのよ。そりゃね、うちの学校から世界一の大学のそれも理数学部に引き抜かれれば、教師としては鼻高々でしょうよ。でもこれは、セクハラしかできない能無し教師が決めることじゃないっての」

 はい、と紙が手渡される。「あんたはどうしたい?」

「行きません」と、私はすぐに答えた。

「あたしがこんなこというのもなんだけど、悪い話じゃないよ。学費の全額免除に生活費まで学校が面倒見るってんだから、行けるもんならあたしが行きたいくらいだ」

「いいんです。実はやりたいことができたんですよ」まだ誰にも、雪ちゃんにすら話していないけれど。

「ふーん」宇佐木先生は見透かしたような顔で笑う。今ではわかる。これは理解したんじゃなくて、信頼している顔。

「なになに何の話――――のわわわわ」雪ちゃんがようやくこちらにかけてきて、何かにつまずいて倒れた。

 支えようとした拍子に手に持っていた紙が破れてA5になったけれど、内容と釣り合ってよかったのかも知れない。私には初めから必要のないものだしね。

「大丈夫?」「やってしまいました。てへへ」額を赤くしてるけど、平気そうだった。まぁ毎度のことだからね。

「白野は、進路どうする?」「こうクンのお嫁さんです」「なら心配いらないっか」

 先生はその辺にあった紙にメモを取って、「あと三七……いや、八人か」と小さく呟いた。

「先生って、大変ですよね。みんなの将来のことまで気に掛けなくちゃいけないし」素直にそう思う。自分のことなんて自分ですべてやれればいいのにね。

「ほんっと、正直教師なんていったって自分のことで精一杯だってのに。あたしは誰のお嫁さんになったらいいんですかーって、学生時代の担任に聞いてみようかしら」

 それで解決するなら世の中天国だろうな。

「そんなに大変なのに、どうして宇佐木先生は教師やってるんですか?」

 向いているようで、向いていないようで。だから聞いてみる。少なくとも私には、もっと楽な生き方が、あるように思えたから。


「それだけ価値があるのよ。あんたらの未来ってやつにはね」

 




 ここに立つ時の記憶は、全て雨だった。

 だから僕が僕として、青空を眩しいと思うのは初めてのことなのだろう。

「何を考えているの?」何を考えているの? と彼女の声がこだまする。

「いつも通りだよ」いつも通り、そう答えた。「記憶の中で、彼はそう言っていた」

 僕にここでのいつもなど存在しないのに。

「魔女は、覚えているの」彼女は全てを知っているかのように、「彼とのことはみんな、魔女だけの宝物」そう告げる。

 世界は物語。

 物語とは時間の経過とその知覚。

 僕は、物語を持たない存在だった。もしかしたら存在未満の何かだったのかもしれない。

 意志を与えられた現象。

 自我を持たされた災害。

 世界とは、物語とは、僕にとって守るものであり、また壊すものだった。

 彼女が空を指でなぞる。中空に浮いた軌跡が幾重にも重なり、複雑な模様を創って動き出す。

「君を初めて見た時、僕は初めて美しい世界を知った。もちろん今は、もっと美しいものを知っているけどね」

「魔女は彼の世界しか知らないの。だから魔女にとって世界は美しいもの。美しいものこそが、世界そのもの」

 円形に描かれた魔法陣が収束するように掻き消えて、大きな紙飛行機が宙を舞う。

 すれ違いざまに『鳥』が手放したソレを、僕は大切に、大切にポケットにしまった。

 僕の何よりも大切なひとが、何よりも大切にしているひとの、何よりも大切なひとからの贈り物だからだ。

「彼は、夢理くんは元気にしているかい?」

 この一言のために、僕はここに来た。

 魔女が答える。

「元気なの。例えそれが他の誰かにとってそうでなくとも、きっと彼はそう答えるんだよ。結果は彼が望んだこと。彼が望んだとおりに世界は形を変えてゆくのだから」

「少しずつ、彼に似てくるな」僕の知らない、彼に。

「彼が彼だったように、彼も彼なの。似てると違うは同じもの。あなたもそう、彼じゃない」

 全部、まやかしだった。会話の姿をした、単なる言葉遊び。意味なんてなくて、だからこそそこに意味がある。

「さようなら。詩的で素敵な真実の魔女」

「さようなら。ただの人」


 扉は未来に繋がってゆく。

「ひーよりん! こっちこっち」

 お昼休みの初めに用事があるといってどこかにいってしまっていた雪ちゃんに呼ばれて、私は席を移動した。待ってたよ、雪ちゃん。一人での食事が寂しかったわけではないけどね。ないんだけどね。

「およ、ひよりんなに持ってるの?」

「チャレンジ商品。今日はね、まさかのアボカドに甘だ「うん、やっぱりいーや」ぶぅ、せめて全部言わせてよ」すごいのに、こんにゃくまで入ってるのに。

「そんなことより、ねね、これこれ」じゃじゃーんと、雪ちゃんが出したのはありきたりなサイズの封筒で、いつだったかの重箱を想像していた私は拍子抜けする。

「なにこれ?」

「こうクンがね、ひよりんにって」この様子だと、雪ちゃんもよくわかっていないみたいだった。

 爆発とかはしないと思うけど、恐る恐る中身を出してみる。あ、これって……

「おまもり?」そっか、雪ちゃんは見たことないんだっけ。

「これ、夢理のお守り」私を守ってくれた、あのお守りだった。あれから必死に探したけど、どこにも見つからなかったのに。

「人から、預かってきたんだって言ってたよ?」ひとから……「夢理クンかな?」

 そんなはずはない。あいつが帰ってきたら、まず一番に私のところに来るはずだ。

 わかっているのに、胸が高鳴る。無意識な期待感が膨れ上がって止まらない。

 もし本当に夢理が帰ってきてるなら、そのとき私は「えいっ」え、雪ちゃん今なにしたの?

「何にも、入ってないね」雪ちゃんがしょんぼりしたように言う。「手紙とか、入ってるのかと思ったのに」

「お守りって、そういうものじゃないでしょ。あと中身を見ちゃったら効果なくなっちゃうんだからね」もー、と言いながらお守りを受け取る。

 一応逆さにしてみたけれど、中からはぱらぱらと小さなかすが落ちてくるだけだった。雪ちゃんにあんなこと言いながら、何を期待してたんだろうね。

「ねね、ひよりん。さっきうさぴょんと話してたこと!」

「ん、どのこと?」

「ひよりんの将来やりたいことって、なーに?」ああ、その話かー、できればあんまりしたくなかったんだけどね。

「んー、ききたい?」

「話したくない?」

「いいよ。雪ちゃんにだけね。実は……小説を書こうと思ってて」

「…………………………………!」雪ちゃん雪ちゃん言葉になってないよ。

 予想通りの反応だけどね。私自身ですら、今でもちょっと信じられないし。

「どしたの、なにそれ、どういうことー?」

「うまく説明できないんだけど、これが夢理を待ってる間、私にできることかなって」

 真実と、現実と、それから新実と。それらをすべてをほんの少しでも知っている私があの時のことを物語にすることで、少しでも夢理の作ろうとしてる世界の助けになるかもって考えた。

 ちっとも理屈が通ってなくて、だから全部無駄なことかもしれないけど、それでも「やると決めたからとりあえず諦めてしまうまで、やってしまおうと思って」

「ひよりん」どしたの雪ちゃん、瞳がうるうる。「けなげー、うぅー」

 

 夢理がいなくなってから、一年が経っていた。

 十二ヶ月。

 三六五日。

 八七六〇時間。

 五二五六〇〇秒。

 時間はそれだけ進んでいる。それぞれの物語も、同じように進んでいく。

 私と夢理の時間だけが取り残されているような、そんな気がしていた時期もあった。

 だけど、私にもできることがある。

 文月さんがそうしたように。

 夢理が守った世界を、私が愛したい。

 夢理が帰ってきたときに、ちゃんと居場所があるように。

 これまでよりも確かで、ずっとずっとそこにいたくなるような居場所が。


「とりあえず、小説を読むところから始めようと思ってるんだけど」

「すごい進歩だよ、ひよりん。それで調子は?」

「うん、まぁ、三ページくらい……かな」なんというか、「五日で」

「……先は長いね。あ、チャイム!」

「わ、次の授業なんだっけ?」

「体育だよ! いっそがなきゃ」

 急いでパンを平らげて、着替えをもって廊下に走る。全体的に今日のチャレンジ商品はいまいちだったかもしれないな。

「あ、雪ちゃん、私お守り片付けてない!」「おっさきにー」

 はくじょうものーな雪ちゃんの背中を見送って、きょうしつに戻る。この分だと遅刻は確実だな。

「あんたのせいで、また授業に遅れちゃった」お守りを掴む。

 文句の一つも言えないなんて、ずるいよね。

 ほかにも伝えたいことがたくさんあるのに。

 たくさんたくさん、増えていくのに。

「だから――」ううん、「あんたのことなんかどうでもよくなっちゃう前に、連絡の一つでもよこしなさいよね」

 本当に伝えたいことは、言葉にしなかった。あんたが帰ってくるその時まで、私はもう一度あまのじゃくでいようと思う。

 窓の外の青空が、夏の続きを教えてくれる。

 小説の書き出しは、もう頭の中では決まっていた。

 すべての始まりじゃないけれど、

 一つの世界の始まりじゃないけれど、

 それは特筆すべき私の物語の、その始まり。




 『好き』ってなんだろう。

 『愛』ってなんだろう。

 『恋』をして初めて、そんなことを考え始めた。




 視界の端で、風もないのに何かが動いた気がした。

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魔女の計算式 碇屋ペンネ @penne_arrabbiata

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