第4章
「……どういう、こと?」
ザー、という不快な雨音が耳につく。
立ち尽くすことしかできない私の視線の先には噴水があった。もちろん雨の日のこんな時間に水が出ているわけはなくて、大きな陶器の受け皿が雨を跳ね返しているだけだった。それすらも、遠くてよくは見えないけれど。
何度試しても、扉はあの屋上につながらなかった。まるでそれが当然であるかのように真っ暗な中庭がそこにある。
「こんなこと今までなかったのに」言葉に出しても、リアリティーのない現実が目の前にあるだけだ。
携帯電話を開く。もう三回目だった。こちらからの電話もメールも、ちっともつながらない。夢理からの連絡も、あの渡り廊下で来たものが最後。
実は、雪ちゃんにも連絡が取れなかった。こっちの方が心配なんだよね。今在さんは、文月さんを消すための準備をするって言っていたから、きっと雪ちゃんと先に接触してるはずだよね。
真実がなければいないのと同じ存在だって今在さんは自分のことを話していた。これが最後だって思ったら、力を蓄えるために雪ちゃんに何をするかわからない。
考えなきゃ。どうにかしてあの屋上に行かなくちゃいけない。
「ほかの扉で試してみようか。でも、これまでだって試さなかったわけじゃないし。きっと場所に依存する類の開通率があるんだよね。そうだとしたら、多分ほかの扉を開いても意味がない。それなら……」それなら、どうしたらいいんだろう?
「あっれー、神楽?」
何もできないまま壁に寄りかかっていた私に、廊下の向こう側から聞きなじんだ声がかかる。
「宇佐木先生。どうして」
「どうしてはこっちの方だろ。下校時刻ぎりぎりにこんなところで……、おまけにあんた制服が濡れてるじゃないか。猪宮のやつにでも見つかったら、厄介だよ」
あたしでも理性とんじゃうかも、なんていいながら宇佐木先生は着ていたジャージを肩にかけてくれた。普段ズボラなんて呼ばれているくせに、ジャージからはなんだかいい匂いがする。失礼だけど、ちょっとびっくり。
「ありがとうございます」「ん、よろしい。あんた素直な方が可愛いよ」「な、かわ……」
宇佐木先生は一通りけらけら笑って、ふぅーと一つため息をつくといつもよりほんの少しだけ真面目な顔でこちらを向いた。
「で、あんたは今なにを迷ってんの?」
力のある鋭い両目で宇佐木先生はこちらを覗く。すべて見透かされてるみたいな、そんな気にさせられるけど本当はそんなことはなくて、多分いつもこんな表情で見守ってくれてるんだろうね。
「どうした?」何も言わずにいた私にしびれを切らして先生が声をかける。
「えと、」何も言えなかったのは、今の状況をうまく説明できる自信がなかったからだ。
「あの………………………………」
「………………………………ん?」
「あ……、なんでもいいのでアドバイスをください」ナーニイッテンダワタシハ。
あっひゃっひゃっひゃっ、て先生も笑いすぎ。
「はー、いいね。いい方向に雰囲気が変わったというか、恋でもしたかい?」
あっひゃっひゃっひゃ、もう一度笑う。残念なことにタイムリーすぎて私は全く笑えません。
「ん、アドバイスね。質問が漠然としてるから日頃あたしがあんたに思っていることを言わせてもらうけど、そうね。神楽に足りないのは豆乳かな。もちろん小ぶりなのもいいんだけど。あたしの好みとしてはあともうすこーしってところなんだよね。こう、手のひらに収まらないぎりぎりってのがいいんだよ。あとキャベツと鶏肉も……、と神楽ちょっと待っ、どこいっちゃうのさ。おーい」そうですね。宇佐木先生に少しでも期待したあたしが悪かったんですね。
「もしかして違った?」「本当にそんなことだと思ったんですか?」「まぁ、小さいし。気にしてるのかと」「小さくないです!」……小さくないよね。雪ちゃんとは比べないで。
「じゃあもう一つ、アドバイス」
ぽん、と持っていた出席簿を私の額に当てる。「わ、」
「あんたさ、数学得意でしょ。その気質っていうか特質っていうかね、割と日常生活でも出てるのよ。必要ないものには見向きもしないで、効率のいいものだけを自然に探してるところがあると思う。最短を求めすぎなんだよ。客観的に見ててそれはいいところでもあるんだけど、それだと見えないものもあるでしょ。時にはそれが大事なものだったりするわけ」
わぁ、宇佐木先生が先生らしいことを言っているように聞こえる。
最短を求めすぎて見えないもの、か。
「ま、たまにはもとの形をじっくり眺めてみなってことね」
出席簿が頭の上から外される。でもその先の先生とは目が合わなかった。もしかしてこれ、宇佐木先生流の照れ隠しだったのかな。
「あ、そっか」思い出す。
最初に扉の七不思議に遭遇したとき、扉はいろんなところに通じたけれど全部この学校に実際に存在する見覚えのある場所だった。それなら、あの屋上も見覚えがなかっただけでこの学校に実際に存在しているところだってことだよね。
そしておそらく、文月さんがいることで普段誰にも認知されることのない場所。一つだけ、思い当るところがある。
この扉を開けば通じるっていう最短が、空間が地続きであるという元の形を見えなくしていたんだ。
「探していたもんは、見つかったかい?」
「多分。確証はないけど自信はあります」
「ん、それが一番大事なことだよ。たまにはちゃんとあたしも先生らしいこと言えるだろ?」
「びっくりしました」「こら」縦になった出席簿が振り下ろされる。けど、ちゃんと寸止め。
きっと宇佐木先生は不器用なだけなんだよね。こんなに生徒のことを考えているんだからもっともっとそれがみんなに伝わったらいいなと、先生の大好きな神楽は思っていますよ。
「ありがとうございました。それじゃあ、私行きます」
「そ。雨がまだまだ強いから気を付けて帰るように。いい? 男は狼よ」
「あ、ジャージ……」
「着ていきな。風邪ひいてもちゃーんと明日出席してもらうからね」
頑張ります、と残して駆け出す。生徒玄関はここからそんなに遠くない。
はっと思い立って振り向くと、まだ廊下の先で宇佐木先生はこちらを見ていた。
「せんせーい、嫌いじゃないですよ!」わ、思ったより廊下は響くね。
「ばーか、そういう時は素直に好きって言わないと伝わるものも伝わらないよ!」
ずっと遠くで笑っているようだった。それを確認して、今度こそ廊下を走り抜ける。
『好き』か。すいません、私あまのじゃくなんです。
この学校の屋上は、基本的にすべて施錠がされている。もちろんこれは安全上の問題で、生徒の出入りは厳禁と生徒手帳にも明記されていたりする。とはいってもせっかくあるので、夏の一部の期間や化学の実験の一環などで先生同伴のもとに年に数度は上がることになるんだけどね。
だから、実は私が見たことのない屋上は校舎にはない。それが、あの屋上が地続きにはないと錯覚させられた一つの要因でもある。
この学校が校舎だけじゃないことに気が付かなければ、きっとここにはたどり着けなかったと思う。
図書館のある四階を抜けて、お風呂場のある五階を目指す。一階から階段を駆け上ってきたからすでに呼吸がうまくできていないけれど、そんなこと言っていられる場合じゃないよね。
五階に着いて、お風呂場を背に一度立ち止まる。
普段私が生活している、女子寮五階の階段前。意識してみないとすぐに視界から消えてしまうのぼりの階段が、深い暗闇を覗かせている。
「こんなに近くにあったんだ。本当は、ずっとずっとすぐそばに」
階段を上る。備え付けの電気はなくて、ポケットから取り出した携帯電話で足元を照らしながら一段一段踏みしめる。
辺りは埃っぽかった。何年も人が立ち入らなかったところなんだろうね。それから、階段が奇妙に長い。これは予想していたことだけれど、あの生徒会室と同じように空間の距離感覚が私の知っているものと違うんだと思う。もう、普通なら三階分くらいはすでに上っているはずだよね。こう先が見えないと、不安になっちゃうよ。
「もしかして、この階段終わりがな……」っと踊り場に出ました。カッコワルイ。
突き当りの壁に触れて中心にある扉を手探りで確認する。ドアノブが錆びていてうまく回らないけれど、そこは力ずくでどうにかした。じょしこーせーはたくましいのです。
「ん。あ、あれ?」ドアノブは回ったのに扉がほんの少ししか開かない。ちょっとだけずれたっていえばいいのかな。できた隙間は、向こう側を見通せないほど狭い。
わけがわからなくて、扉に携帯電話の光を当てる。
愕然。
そういえば、そうだよね。この学校の屋上はすべて施錠されていて、それはもちろんこの扉も例外ではなかったわけだ。
内開きの扉の手前を、壁の両側から伸びた太い縄が横断していた。きっと長い間この扉を守ってきたんだと思う。びくともしないわけだ。大量の紐がらせん状に折り重なっていて、縄というより綱に近い。
「これをどうにかしなきゃ、夢理のところに行けないもんね」焦る気持ちを紛らわせるために無理やり声を出して綱に掴みかかる。あるかどうかも分からない道具をこの暗闇の中で探すには、時間が惜しい。
ほつれている部分から強引に縄を引き裂こうとしてみる。ささくれのようなものが刺さって痛い。食い込む指も、割れそうな爪も。こんなこと女子高生のやることじゃないよね。さっきの言葉をもう撤回したい衝動に駆られる。
そんなにたくましくなんてないのかもしれない。
強がっているだけで、行かなくちゃってどこから来たのかもわからない責任感に突き動かされているだけかもしれない。
本当はこの先に進みたくなんてない。
だって危ない目に逢うかもしれない。
今度こそ今在さんは本気で私を殺そうとしてくるのかもしれない。
それは怖いよ。
実を言えばこの暗闇の中に一人でいることだって、怖くてしょうがない。少しでも気を抜けば、立っていられなくなりそうなくらいに怯えてる。
足の震えが止まらない。気持ちを無視するように視界が歪み始める。
魔女だとかそんなことは関係なくて、ここにいる私はやっぱりただの弱い一人の無力な女の子なんだ。特別なことは一つもない。できることだって何もないのかもしれない。それを自覚してしまえばこの手が止まってしまいそうで、無理やり弱気な考えを振り払う。
大丈夫。私はあまのじゃくだから。自分の心に嘘をつくのはお手の物。
でも、それだけじゃない。
「怖いんだよね。自分が消されちゃうことよりも、夢理や雪ちゃんを失っちゃうことの方がずっとずっと、怖い。だからやらなくちゃ」
ぼぅ、と背後の階段から明かりが当たって振り返る。
「ニャハハハハハハ」
「タマ!」文月さんが倒れていたとき屋上にいないと思ったら、こんなところで会うなんて。もしかしたら、今在さんにどこかに連れて行かれてたのかな。
真っ赤に燃えた人魂が、三分の二ほどの太さになった縄に触れる。草の燃える独特の匂いがして、縄はどんどん細くなっていった。
「今ほど、抱きしめたいと思ったことないよ。タマ、ありがとう」しないけどね、熱いから。
扉を横断していた縄が真ん中から音もなくちぎれる。タマが離れると、縄の火はすぐに消えた。どうやら燃え広がる心配はなさそうだ。
「一緒に来てくれる?」「ニャハハハハハハ」返事してくれたのかな。ちっちゃいけれど、頼もしい味方だよね。
「行こっか」
重い音をたてて、開かずの扉がようやく開いた。
羽織っていたジャージの上から大粒の雨があたる。思った通りの景色の変化に、まずは一つ安堵のため息をついた。
「日和!」夢理の声で振り向く。どうやらまだ、今在さんはここにきていないようだった。
「夢理、文月さんは?」「ああ、さっきやっと意識が戻って……」夢理は、私の後ろ上方を指さした。「タコと遊んでる」
言葉のとおりだった。文月さんは床から二メートル離れた高さを,八足の軟体生物と絡まりあいながらうねうねと漂っていた。あの何を考えているのかわからない目と目があい、ぞくっと背筋に悪寒が走る。文月さんじゃなくて、タコの話。
「あら。神楽さん、こんばんは」タコがしゃべる。違う違う、しゃべったのは文月さんだ。ちょっと混乱してるかも。
「こんばんは……って、体はもう大丈夫なんですか?」
「ふふふ、こんなにぴんぴんしているよ」といって持ち上げたのはタコの足だった。「春風くんのおかげだね。ありがとう」といって持ち上げたのはタコの足だった。うー、大変な時なのに。この人と話していると調子が狂う。
でも時間はないんだよね。とりあえずこれまでのことを二人に掻い摘んで説明した。今在さんと魔女狩りのこと。彼の目的が、文月さんを消して真実を消滅させることだということ。そのための力の源が雪ちゃんとの繋がりで、今は限界まで力を蓄えているところだということ。
「彼はまだ信じることができないんだね。それはとても悲しいこと」
話を聞き終わって、文月さんはマフラーの巻かれた折れそうなほどに細い首をかしげながらそう小さく呟いた。言葉の意味は分からなかったけれど、私たちに向けられたものじゃなかったように思う。『彼』っていうのは今在さんのことなのかな。
対して夢理は、考え込むようにして黙り込んでいる。きっと行間を読んでいるんだろうね。私なんかには想像することのできない物語の先が、この小学四年生の計算もできない頭の中で構築されているのだと思う。『物語喰らい』か。
つまり、と夢理がゆっくり口を開く。
「真実と現実はずっと、お互いを牽制しあっていたわけだ。真実はもとの形を取り戻すために、現実はその危険を排除するために。で、俺たちがその均衡を破っちゃったんだな」
「俺たちって、私たち?」
「ああ、白野………………、えっと……」「雪ちゃん?」「その白野雪が特異点になったのは、まず間違いなく日和のそばにいたことに起因しているだろうからな。俺たちが、真実に出会ったから」
そうか、特異点がいなければ、魔女狩りである今在さんは力が使えないんだもんね。
特異点。魔女狩り。神。魔女。
「夢理は、自分が神に近い存在になっていたって知ってたんでしょ?」
「そんな大それたもんだとは思ってなかったよ。まぁ、自分にできることと役割くらいは理解してるつもりだったけどな」
やっぱり俺たちは導かれてたってことか、と夢理が言う。そのまま文月さんの方に向き直る。
「いくつか、質問していいか?」
「もちろんなんだよ。友達は大事にしなきゃいけないからね。けれどきっと、答えはすべて春風くんの中にもう全部あるんじゃないかな」
「それでもだ。確認ととってもらってもいい。まず一つ目、真実を取り戻すということは、すべての人間の排除そのものってこといいんだよな?」
「ふふふ、そうだね。真実の世界にはいなかったものだから。そして、世界が形を変え始めた直接の要因でもあるものね。魔女にできる手段はそれだけなの。でもきっと想像しているよりもずっとシンプルで簡単なことなんだよ。もとに戻すってことだもの。悲しいことなんて何もないよ」
「それは、」口出さないつもりだったんだけど、これはちゃんと聞いておかなくちゃいけないこ
とだと思った。「それは、真実の世界に生きる文月さんの都合ってことですよね? でも現実を生きている人間からしたら、とても悲しいことです」
元に戻るということなのだとしても、人はみんな今生きてるんだから。
「言っていることはわかるんだよ」文月さんが答える。「けれど理解はできないの。人間はいなかったものだから。人間の悲しみは魔女の理解の範疇を超えているんだよ。魔女は魔女だから、魔女のできることをやるだけなの」
「そんなのって」「いいんだ日和!」
自然と乗り出すような姿勢になっていた私を夢理の腕が止める。
「でもこのままじゃ今在さんを止めることができても、その時は人間がみんないなくなっちゃうんだよ? 雪ちゃんも、宇佐木先生も、クラスのみんなも、それから私たちだって」
「ならない」夢理が言う。「そんなことにはならないんだ。今までのことは全部そのために必要なことだったんだからな」
一度言葉を区切った夢理が文月さんに向けてピースをする。
「二つ目の質問だ」ピースじゃなかった。「真実は、その外側を認めることができるのか? 例えばこの世界の平行な座標に別の巨大な世界があったとしたら、それも魔女の攻撃対象になるのか?」
パラレルワールドっていうやつのことかな。昔、夢理が話していたことがある。単一方向に進む時間軸に無数の分岐点があって、選択された事柄一つ一つから派生される複数の種類の世界が存在している可能性の話。それはまるで、一つの物語にハッピーエンドとバッドエンドが用意されているようなものだ。……世界は、物語。
「世界の形はね、クローズドサークルなの」そう答える文月さんの視線は夢理の方ではなくて、遠くの空に向いていた。雨雲の切れ間に、かろうじて三日月が見え隠れしている。
「別に外枠としてちゃんとした線があるわけではないんだよ。けれど誰かを中心に回転しているそれは、常に内側に向かって働きかけるものなの。外側には関心がなくて、だからお互いに触れあわなければ干渉することもないの。現実が真実に干渉しているのはね、人間が真実の中心から発生した、いわばウイルスみたいなものだからなんだよ」
文月さんのきれいなソプラノから発せられたウイルスという表現が、ざらつくように耳に残る。やっぱり、文月さんにとって現実は敵なんだよね。そんなことわかっていたはずなのに。
文月さんがいなくなるのは嫌だ。友達だって言ってくれた。たくさんのわくわくするものを見せてくれた。人魂たちとの出会いもくれた。
夢理がいなくなるのも嫌だ。いままでずっとずっと一緒にいた。口ではいろいろ言ったけど、それが嫌だったことなんか一度もなかったよ。ほんとはそれでももっと一緒にいたかった。
私だってまだ消えたくなんかない。やりたいことだってたくさんある。
でも、真実があることで周りのみんながいなくなっちゃうなら、消えてしまった方がいいのかな。消えてしまわなくちゃいけないのかな。
「ねぇ夢理、どうしたらいいんだろう。どちらかがなくならなきゃいけないの? それまでずっと、傷つけ合わなくちゃいけないのかな?」
足に力が入らない。立っていられなくて、崩れるようにしゃがみこむ。床にできていた水たまりが雨音の中でぱしゃりと鳴った。
ぽんと何かが頭の上に乗る。
「日和はさ、目に見えてるものから式を組み立てるだろ。だから導かれた答えにしかたどり着かないんだよ。一方では、真実が人間を滅ぼして本当の姿を取り戻す。もう一方では現実が真実の魔女と俺たちを殺して脅威をなくす」
頭の上で夢理の手がわしゃわしゃと動いて、少しくすぐったい。
「俺な、日和がいなかったら現実なんてなくなってもいいやって思ってたんだ。つまんないからな。わくわくするものなんか何にもなくて、だからやりたいことだってなくてさ。人間って作られた枠の中でだって生きていたくなかった。本読んだらわかるじゃねーか。何をして、どんな道に進んだらどんな人生が待っているのか。わかってるものなんて目指したくなかった。そのために何かするなんて面白くないじゃんか。考えるんだよ。しゃちょーさんになったら偉いのか? じゃあ、偉いってなんなんだ? 人のために何かすることがかっこいいのか? じゃあ、人はなんのために生きてるんだよ? 全部どうでもよかった。そんな疑問わくわくしないもんな。だからわくわくするものだけ残して、ほんとは全部なくしてやろうと思ってた。ずっと望んでたことだから」
全部、わかるような気がした。夢理が何を思って誰とも関わらずに本だけを読んで生きてきたのか。多分誰もが、一度は考えることなんだと思う。
目を背けるのは簡単で、けれど一度考えてしまうと動けなくなってしまう疑問。人間の欠落みたいなものなのかもしれない。多くの人は動けなくなることのほうが恐くて、こじつけのような答えで補完して生きていく。それを本当に幸せに思って生きていける人もいれば、最後まで違和感と闘いながら生きていく人もいる。
私はどっちだろう、まだ流されるように知らんぷりしている最中なのかな。
人間としては生きていくつもりがないと言い切った夢理の気持ちが今はほんの少し分かる気がするよ。
でもさ、と夢理の言葉がつづく 。
「日和には、ちゃんと今まで生きてきた世界になくしたくないものがあるんだろ。多分俺の知らない、俺の諦めてきた価値がちゃんとあるんだよな。他の、俺がなりたくなかった人間にも」
「夢理にだってできるよ。なくしたくないもの。絶対できる」だから、そんな泣きそうな顔しないでよ。
必死に出した私の言葉に、けれど夢理は「はは」っと笑っただけだった。
「どっちかしかないように見えるよな。真実か、現実か。でもそもそも俺の物語に敵なんて存在しないんだ。その方が楽しいだろ? そうじゃなきゃ悲しいだろ? だから、道はもう一つある。そうだよな?」
そう言った夢理の視線はいつの間にか私のずっと後ろの方に向いていて、
「ここは少しうるさいね」
しん、と周りの音が消えて背後から声がした。視界の中には夢理がいて、文月さんがいて、もちろんタマもミケもここにいて、そこまで私の頭が確認したところで振り返る。
雨音が止まっていた。止んだのではなくて。雨粒が宙で静止しているように見えた。
「雪ちゃん!」
今在さんの腕に抱えられた雪ちゃんはぐったりしていて、意識を失っているみたいだった。
「心配する必要はないよ。少し疲れているだけさ」今在さんが言う。「しばらくすれば目も覚ます。……初めましてかな、春風夢理くん」
「ああ、今初めて見えた。長いかくれんぼだったな」
「隠れていたわけではないのだけれどね。僕はいつでも君たちのすぐそばにいたのだから」
緑の腕章をつけた今在さんは屋根の下に雪ちゃんを丁寧に寝かせて、そして離れる。その所作はどこまでも紳士的だった。
「彼女は君たちに返そう」という、今在さんの言葉を聞き終わる前に雪ちゃんに近づく。ぐったりしてはいるけれど、怪我などはないみたいだった。それにこの雨の中で、少しも濡れていない。目に見えないけれど、何か不思議な力に守られているようだった。
ほっ、とひとまず安堵の息を吐いて、それから状況を確認する。
文学少年と生徒会長が、十メートルを切った距離で対峙していた。お互いに牽制するように視線を交わしながら、けれど今にも笑い出しそうなどこかわくわくした表情をしている。今在さんも、あんな表情をするんだ。
突然、くぐもった獣の咆哮が響いて今在さんの背後に影が走った。鈍重な物体と鉱物がぶつかる轟音が宙の雨を伝わってこちらに届く。
「さ、サメ?」自分の口から出た言葉がなんだか間抜けに響いた。
体長が成人男性の二倍はありそうな巨大なサメが空の海を猛スピードで移動して今在さんに襲いかかっていた。開いた口には数えきれないほどの鋭い牙が並び、今にも獲物を食いちぎらんと噛み付く。
けれど、その無数の刃は今在さんが添えた腕の先で不自然にめくれ上がった床の一部によって見事に阻まれていた。一トンは優に超えるであろうサメの巨体でも、厚いアスファルトでできたその障壁はびくともしない。
サメの動きは速かった。けれど、今在さんの方が何倍も速い。
「これは君の意思と、受け取っていいのかな」今在さんが寂しそうに向けた言葉は、目の前の夢理ではなくその後ろの文月さんに向けられていた。
文月さんの手元で光を放っていた小さな魔方陣がゆっくりと収縮して消える。それと同調するように、暴れていたサメの姿も見えなくなっていく。
「魔女は手を貸しただけだよ。真実は真実の神のモノだから魔女が操ることはできないの。やりたいと思うことをさせてあげているだけ。愛されているのね、魔女狩りさん」
言い終わると同時に文月さんは右手を筆代わりに宙に真円を描いた。『円形求心型方程式』と文月さんは呼んでいたっけ。円に沿って並んだ文字列が回転して内側に向けて計算を進めていく。文字は読めないけれど、何となくその仕組みは理解できた。魔女の役割は、目の前の現実と本来あるべき真実との差を埋めること。その異次元の計算式が目の前で答えを道き出してゆく。
魔法陣から、一際大きな光が夜空に瞬いた。
びゅっ、っと突風が吹いて咄嗟に私は目を瞑る。思い出す、風は道。
開いた視界の中に透明なレールが敷かれていた。一本じゃない。月の光を屈折させて朧に映る線が無数に伸びて、夢理を避けるように今在さんに向かっていた。その上を何かが滑るように高速で走っていく。
「弾道が見えていれば避けるのは簡単だよ。加速させるためとはいえ、この風の道は愚か以外の何物でもないな」
今在さんが風の軌跡を読んで大きく右に飛ぶ。けれど、風の上を走るモノは予想を裏切って今在さんを追うようにカーブした。
「風は滑走路なの。だってそうでしょ? 鳥は自由なのだから、いつまでもそんなものに縛られたりはしないの」
「ちっ」今在さんが、先ほど作った壁を蹴って宙に飛び出す。急な方向転換についていけなかったいくつかが壁に突き刺さって動きを止める。でもいくつかは壁をそれて、空中で身動きの取れなった今在さんを再度狙って飛ぶ。
「わぉ、まるでホーミングミサイルみたいだな」
夢理が、満面に笑みを浮かべてそんなことを言っている。なんだか他人事みたいだけれど、呆気にとられている場合じゃないよね。止めなくちゃ。
多重螺旋の軌跡を描いて残りの鳥が目標に向けて飛び立った。壁の鳥はものすごく鋭利で、あれ、あったったら多分怪我じゃすまないよね。
「日和、手出すぞ。集中しろ」
夢理がポケットから本に挟むしおりを取り出して振りかぶる。
「夢理それ普通の、何の変哲もない、長方形のただの紙!」長峰文庫の印字が一瞬目に入る。
「役割があるだろ。大丈夫、俺の中に答えはちゃんとあるぞ。だからお前にもわかる」
絶対だ、と言いながら腕を振り始める。
「間に合うわけないじゃん」と叫びながらも、私の手は印を切っていた。神楽式高次手算。
考える。何が足りないのか。夢理のやりたいことは不思議ともうわかっていた。
答えはすぐに出る。
しおりは静止している雨粒をはじいてまっすぐ飛んだ。ぺらっぺらの軽い紙がまっすぐに。しかもその速度は、もう今在さんの寸前まで来ている鳥よりもずっと速い。物理の田中先生が見たら卒倒しそうな光景だよね。でもこれだけじゃない。
手のひらに収まるサイズしかなかったしおりが、今在さんと鳥の間に挟まった途端に平行に広がる。大きさはそれでも広げた新聞紙くらいにしかならなかったけれど、まとまって飛んでいた鳥にはそれでも十分だった。鳥はすべてその体の半ばまでしおりに突き刺さって、動きを止める。
しおり。挟むもの。
「僕を、助けようとしてくれたのかい?」声は背後から聞こえた。あれ? 大きくなったしおりの向こう側に今在さんの姿はない。
「私たちが何もしなくても、間に合ってたんですか」きっと今在さんはあの状況からでも、『防ぐ』ではなく『避ける』術を持っていたんだ。それならば、あんな文字どおり紙の防御に頼るよりも自分で避けた方がずっと安全だもんね。
「際どかったけれどね。しかし君たちがすでにあのレベルで、世界を発現できるとは驚いたよ。地味だがちゃんと独自のシステムを構築できている」
今在さんがわざとらしくぱちぱちと手を叩いた。
「地味ってゆーな」と夢理が突っ込む。「ちゃんと、今の状況にあったものを選んだんだぞ。紙の鳥なら、紙のしおりで十分止まるだろ」
ん、紙? しおりと一緒に床に落ちた鳥を恐る恐る拾ってみる。
「これ、折り紙だ」飛んでいるときは気が付かなかったけれど鳥はすべて赤や黄色なんかの単色で、いたるところが鋭くとがっていた。形は、鳥というよりも紙飛行機に近い。
「真実では、鳥はみんな紙だったの?」
「あれ、日和には話してなかったか。真実での鳥は、空を飛ぶという特徴以外は俺たちの知っている鳥とは全然違うぞ。平面の形状からいくつもの形態に変化できるんだ。ちょうど現実のキツネとかタヌキみたいにな」
一緒にしないでほしいけれどね、と今在さんが呟く。うん、別物だよね。
でも、ようやく合点がいった。一週間前のこの屋上で大きな傘になった紙飛行機は紙でできた鳥だったんだ。なんだか、便利。
「ふふふ、空を飛ぶって素敵なこと。それは宙を泳ぐよりもずっとずっと神に近い行為なのだもの。魔女も飛べるけれど、それは自由とは紙一重で違う別のモノ。カミだから許されたのかな。髪ならどう? 近づきたいけれど、やっぱり魔女は魔女だものね」
赤いマフラーが風もなくなびいて、文月さんが手に乗せていた鳥を一羽放つ。もちろんだけど紙の鳥。複雑に織り込まれたそれは、ちょうど私の知っている折り紙の鶴に見えた。
「そろそろ僕も、反撃をしていい頃合いだろうか。正直少し力を持て余しているんだ。やらせてもらうよ」
今在さんが少し距離をとって屋上の隅の手すりに掌を添える。次の瞬間、それがまるで当然であるかのように端が切断され手ごろな長さの鉄パイプとなって今在さんの手に収まった。
「マジックみたい」そんな幼稚な感想が口から出て、今在さんにクスリと笑われる。わ、はずかし。
「種も仕掛けもないけどね。君たちと同じさ。独自の理論とシステムがあるだけだよ」
今在さんは高速で飛びかかってきた紙の鶴の脇をすり抜け、直接文月さんを狙って鉄パイプを握った右手を大きく後方に振りかぶった。
「夢理クンに負けず劣らず、僕も地味だな」
鉄パイプは音もなく袈裟に振り切られて、文月さんの体を両断する。瞬間、カメラのフラッシュのように光が瞬いて文月さんの体が無数の何かに分かれた。あれは、鶴? もしかして、千羽鶴かな。
「そうか。魔女は化けるのだったか」
「違うよ。魔女はほんとの形を持たないだけ。全部の姿の魔女が魔女そのものなんだよ」
文月さんの声は、初めの鶴が飛んで行った方から聞こえた。
「文月さんの手から飛んだ鶴が本当は文月さんで、切られた文月さんは鶴の集合体が形を変えたものだったっていうこと?」え、鳥すごすぎ。
「好きなように飛んだらいいよ。君たちのいる空は、神と君たちのモノだもの」文月さんの言葉に反応して、さっきまで文月さんだった鶴の群れが一斉に今在さんに襲いかかった。
複数方向からの波状攻撃。一つ一つは手のひらに収まるような大きさでも、数はそれだけで相手を脅かす。
けれど今在さんはその場から動かなかった。手に持った鉄パイプも使わずに、その顔に笑みを浮かべる。余裕とは違うもっと純粋な、まるで私のよく知る夢理みたいな笑い方。
「全く、真実は美しい。魔女狩りという立場の僕でもそう思うよ。それゆえに残念だ」
今在さんが鶴に呑み込まれた。鶴の数は千じゃすまなかったかもしれない。まるで意思を共有した群体のように、まるで理念に統率された軍隊のように、一つの大きな塊になっている。
「今在さん何かしようとしてた。空いてた左手でポケットから何か取り出して……」
「日和、伏せろ!」夢理が私の体を覆うように前に出て、反射で私はしゃがみこんだ。
直後、爆発。
紙の焦げるような匂いを感じて閉じた目を開くと、折り鶴が散り散りになって炎に包まれていた。その中心で今在さんが立ち上がる。手にはジッポーを持っていて、その横に弱弱しく転がる火の玉が、
「コロ!」
横で夢理が同じように「タマ!」と叫んでいたけれどそんなことはどうでもよくて、夢理の静止を振り切ってコロに近づく。
「コロ、無事だったんだ」でも、炎に力がない。今の爆発はコロを利用したってこと? 命そのものである熱が、どんどん失われている。
雨に当たらないように抱きかかえて、屋根の下に隠れていたタマとミケを呼ぶ。着ているブラウスがちりちりと音を立てたけれど、ナイロンに火が付くほどの熱もないみたいだった。三つの人魂が寄り添うように一つに固まる。
「持ち歩くにはちょうどいいサイズだったよ」今在さんがジッポーを投げ捨てた。「もう、用はないけどね」
「ひどい、コロだって生きているのに」
「ひどい? 真実が消滅すればただの炎だよ。命のかけらもない。ただの化学反応だ。それでも、僕が使えば少しは大きな火種くらいにはなる」
「ふふふ、現実がなくなれば人間なんて形も残らないのにね」
緑の腕章をつけた魔女狩りと、赤いマフラーの魔女が牽制するように笑いあう。ううん、顔は笑顔だけど、どちらもほんとは笑っていないのかもしれない。
「価値観が違うってこういうことを言うんだよな。文字通り違う世界に生きていて、互いに相手の世界に価値を見出していないんだ。かたや異物、かたや危険物だもんな。どちらの方が犠牲が少ないとか、どちらの方が先にあったとかそんな単純な話じゃない。正義とか理性も越えた、コインの裏か表かみたいな二者択一」
いつの間にかそばに来ていた夢理が、人魂を覗きこむ。
「タマの様子、どうだ?」コロのことね。
「弱ってるけど、多分大丈夫」
「ん、そっか」にっと笑いながら夢理がくしゃくしゃとコロを撫でる。「あぢぃ」
さっきは抱きしめても熱くなかったのに、少し元気になったみたいだ。よかった。
「日和」「ん?」やるぞ、と唇が動いたように見えた。音としては聞こえなくて、聞き返す間もなく夢理は次の行動に移っていた。
すぐ後ろにあった鉄の扉をおもむろにグーで叩く。
ダンっ、という鈍い音が響いてその場にいる全ての生物の注目が夢理に集中した。
形は違っていても覚えのある光景。教室でクラスメイトから七不思議の情報を集めたあの時のように、夢理が人を動かす合図。
「デモンストレーションは終わりにしようぜ」
今在さんと文月さん、五メートルほどの距離を開けて立つ二人の間に夢理が割り込む。
少し視線を上げればそこに月があった。雲に隠れていて気が付かなかったけれど今日は満月だったんだ。
「こんなもので決着がついても、虚しいだけだろ」夢理の声が響く。「何かの犠牲の上に何かが存在するなんて理不尽は、それこそお前らのいうシステムが未完成で幼稚なんだよ。当然と言えば、当然だけどな」
夢理は文月さんの方を一瞥して、「真実の神はこんな事態を想定することもできなかっただろうし」それから今在さんの方を向く。「現実はそもそも集合体だから、そんな状況はあって当然の功利主義だ。最大多数の最大幸福の裏にはマイノリティの犠牲がつきものなんだろ」
「それは仕方のないことだと思わないかい? たった一人の命でほかのすべての人間が助かるのなら、現実を生きる人間はたとえ迷ったとしても最後には必ずその一人の命を犠牲にするだろう。犠牲があるから正義とは呼ばない。しかしそれが取るべき選択だ。逆を考えろ、ただ一人のために全てが滅んだ世界を。虚しいとはそういうことを言うんだ」
今在さんのいうことはよくわかる。私たちだって現実を生きている人間なんだから。そして、人間ではない文月さんにこの理屈が通じないことも理解できてしまった。その虚しい世界こそが、文月さんの本来生きてきた世界なのだから。
「そこで、思考を止めるなよ!」夢理が叫ぶ。「犠牲があれば、なんていうのは解決じゃねぇだろ。妥協に周りを巻き込むな。世界は物語、物語は世界だ。物語はいくらでも作り出せる。可能性はいくらでもある」
「それなら、君には何ができる?」今在さんがこれまでとは違う、地の底を這うような声で静かに応える。「そのしおりを盾にする程度の力で、君ならどんな答えを出す?」
そう聞かれるのを夢理は待っていたみたいだった。
「真実も現実も内包した、もっとでかい物語を創る。何かを否定しなくても全てが存在していける世界を創りだす。『新実』、それが『真実』でも『現実』でもない第三の答え。俺と日和は、その理想と目の前の現実との差を埋めるために魔女の計算式から生まれた答えだったんだ」
文月さんは何も言わない。ただ黙って、夢理を見つめていた。
「私たちが、答え……」
やっと、全てを理解した気がした。夢理がやろうとしていること。文月さんが本当に望んでいること。今、私にできること。
この争いを終わらせるために、そして全ての世界を存続させるために、必要な新しい選択肢。
真実よりも現実よりも大きな、夢理の世界を創りだすこと。
全部、そのために導かれていたんだ。
七不思議に関わったこと。魔女に出会ったこと。今在さんと出会ったこと。
ううん、それだけじゃない。
この学校で、雪ちゃんと出会った。たくさん笑って、たくさんふざけて、時には泣いて、それから……互いに恋もした。
今までの思い出すべてが『運命』という言葉を引き連れて、私の中を駆け廻る。
夢理との出会いも……偶然じゃなかった。誰かに仕組まれたものだった。
でも、そんなに残酷な響きじゃない。例え導かれていたのだとしても、全部全部、私自身が選んだ道だ。それは絶対、間違いじゃなかった。
「うぬぼれるなよ」
声と同時に、今在さんの周囲の床がボゴッと一斉にめくれ上がった。まるで生物のようにアスファルトが波打ち、歪な破壊の音を奏でながら夢理へ敵意を向けている。
「君のいうことは綺麗事だ。理想論だ。新実? 絵にかいた桃源郷じゃないか。僕は神を知らない、しかし彼の物語は知っている。人間の物語もだ。君に雄大で荘厳な真実の全てを想像できるか? 猥雑で傲慢な現実の全てを理解できるか? 到底君では及ばない――」
今在さんの言葉が途切れるのを待たずに、灰色の塊が夢理に向かって跳ねるように動き出す。
「――不可能だよ」言葉が、冷たい。
でも、夢理は少しも動じなかった。ううん、夢理だけじゃない、私も。
「信じさせてやろうぜ」顔はこちらに向けていないけれど、夢理が笑っているのがわかった。少年のように目をキラキラさせながら、最上級に楽しそうに、極めて幸せそうに笑む。
返事は間に合わないと思ったから、代わりに手を動かした。指先がぽぅっと光りだし、軌跡が複雑に絡んで解を結ぶ。神楽式高度手算、この時のために私は夏休み必死に論文を書いたのかって思うと、なんだか笑っちゃうよね。
何かが引き伸ばされるような音を立てて、こちらに向かっていた灰色の塊が止まる。
夢理の右手から垂れたネクタイが枝分かれし、その先を屋上中の無数の突起にひっかけて、今在さんの放った攻撃を受け止めていた。張り巡らされたそれは肥大化した蜘蛛の巣みたいに頑丈でびくともしない。触らなくても分かった。私が創ったんだから。
ついで夢理の腕が、近くまで来ていたタマを掴む。
夢理の考えていることがまるで自分のことのように理解できた。言葉がなくても、視線さえ合わせなくても、私たちは繋がっている。
球体だったタマの炎が棒状に広がった。もやもやとしていた輪郭が形を成して、薄い刃が姿を現していく。炎が人にとって最大の武器というのは私にもよくわかる。けれど、武器にデザインを求める感覚が、女の子の私にはいまいち理解できなかった。出来上がった諸刃の『剣』は火炎土器のように複雑に造形されている。なんていうか……無駄に豪奢で持ちにくそうだ。
「命名、コロソード!」「意図せず、物騒なことになっちゃってるよ!」
かっこよければいいんだよ、と夢理が走り出す。はて、かっこよさってなんだったろう?
「その気持ちは、わからなくもないね」
今在さんが手に持ったパイプを構えなおすと、筒状だったそれも形を変えた。鍔のない日本刀みたいな、夢理の剣よりずっとシンプルで機能的なシルエットだ。
お互いの間にあった距離はすぐになくなって、二つの剣になったばかりのものがぶつかり合う。
「のぉ、りゃぁぁぁぁ」なんて夢理が叫んでいるけど、運動神経ゼロなことを知っている私にはいまいち迫力が感じられなかった。頑張ってる男の子はかっこいいけどね。それとこれとはやっぱり別かな。
「ふふふ、モノの本義を抽出したことで、そのモノが形を変えるというのは大きな矛盾なの。その形はまた別の意味を伴って、意味がまた、形を変えていく」
文月さんが、二人を眺めながらつぶやいた。この人には、この戦いがどんなふうに映っているんだろう。
「それでいいんです。きっと」わからないから答えた。「世界が物語なら、それはあり方じゃなくて変遷だと思うから。変わっていくことが物語なんです。世界なんです」
文月さんは何も言わない。でも、本当はわかっているんだと思う。
文月さんが選んだ答えが私たちだったこと、それはつまり文月さん自身が変化を望んだということなのだから。神がいなくなって変化をとめた世界を、守るためでなく生きかえらせるために。
文月さんの戦いはもう終わっている。後は私たち次第だから。
「おぉぉぉぉぉぉ」という声の気合いとは正反対に夢理の剣が弾かれ中空に飛ばされる、これで三回目だ。その都度、剣は一瞬炎の姿を取り戻し、夢理の手の中に返ってくる。コロが健気で涙が出てくるよ。
今在さんが剣をゆっくりとおろす。
「それで、勝てるのかい? 自分の力ではなく他者の力で勝利して、君はそれを本当の勝利と言えるのかい?」
「当たり前だろ、自分のために力を貸してくれる奴の力は全部自分のもんなんだよ」
夢理がそんなことを言うのは意外だった。「あんた、友達いないじゃない」
「日和がいるだろ」むぅ、いや、嬉しくなんかないもんね。
「だからこそ人はなんだってできる。できるんだよ、本当は!」
炎と剣の中間くらいで形状を保ったタマを夢理が一気に振り上げる。
「お前も、最初っから諦めてんじゃねーよ」
振り下ろした夢理の剣は真っ赤な光の軌跡を描いて――
「つまらないね」と、その声は私の耳元で聞こえた。
何かを見逃してしまったのかと思ったけれど、そうじゃない。
全部一瞬の出来事だったんだ。
夢理の攻撃を避けて当て身をくらわせていたことも、対峙していた位置から一瞬で十数メートルを移動して、私の背後に立ったことも。ひんやりとした刀の感触を首筋に感じて、息をのむ。
よくよく考えたら、当たり前のことだよね。本来今在さんに夢理と闘う理由なんてない。
今在さんは言葉通りの、魔女狩りなんだから。
「夢理クンの言葉は、つまらないよ。孤独に世界を貪って、神に近い力を手に入れた者の言葉としてはあまりに幼稚で甘ったるい。彼はもう少し僕に近いと思っていたけれど、面白くないね」
私の位置からは今在さんの表情を窺うことはできないけど、とても寂しそうな顔をしているような、そんな気がした。
ずっと、今在さんは独りだったんだ。真実を憎みながら、現実とも馴染まずに、あの広いだけの生徒会室で存在することすらも認められないまま、ただただその時を待っていた。
想像するのも怖い。
「夢理が孤独だったことなんてありません」だから私は呟くように言う。「あなたもそう。あなたは今義務で戦っている。でも本当はそんなもの投げ出してでも守りたいものがあなたにはあるんじゃないですか?」
「ユキのことを言っているのなら、それは見当外れだよ。僕と彼女との関係は魔女狩りと特異点。彼女は僕の力の源だ。その関係もじき終わる。この戦いが終われば、僕は彼女を必要としなくなる。現実が僕を必要としなくなるのと同じようにね」
そんなのって、「そんなのってない! 私は雪ちゃんの幸せそうな顔を知ってる。誰かを愛して、愛されている顔を知っている。それがあなたとの愛だということも知ってる」
「幻想だよ。愛とは現実に巣食うもっとも醜い病魔の名前だ。大切なことは、ユキには僕が見えたということ。もっと噛み砕こうか。僕を見ることができたのがユキだったんだ。それ以上の意味なんてどこにもないよ」
「違う!」だって「だって、今在さんがこんなに強いのは……それだけ雪ちゃんがあなたを想っているからでしょう?」
「黙れよ!」今在さんの声はまるで地響きのように低く重く雨を伝った。「終わりにしよう。君が消えればチャックメイトだ。夢理くんは君がいなくなれば何もできないし、遊ばなければ満身創痍の真実の魔女に遅れなどとらない。現実は人間の世界の集合体としてこれからも上手く回っていくよ」
今在さんの、刀を持たない左手が床と平行に上がる。既視感のある光景。あの廊下で、私が初めて不思議な世界に恐怖を覚えた景色がよみがえる。
視線の先には貯水タンクがあった。円筒形に三つ並んだ私の身長よりも大きな塊。それがそれぞれ全く別の方向にぐにゃりと歪む。肥大化したタンクの一つが容易に破裂して中身をぶちまける。噴き出した大量の水が歪に飛び散って、私はようやくその正体がなんなのか理解した。
いわば、文月さんの使う『円形求心型方程式』の反対だ。内側から外側に、回転しながら膨張していく世界そのもの。今の私には現実を歪めながら広がっていく数式がはっきりと見えていた。その数式が何を求めているのかも。
「さようなら。理想と奇跡に魅入られし魔女」
巨大な歪みの波が跳ね上がった。すさまじい暴力を内包しながら渦を巻き、確かな指向性をもってこちらへゆっくりと向かってくる。
怖い、恐い、こわい、こわいこわいわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわい。
でも今は忘れる。そんな場合じゃないもんね。
私は打ち勝たなくちゃいけない。
本当に怖いのは、怖くてどうしようもなく震えているのは、今在さんの方なんだから。
波はもう目前まで迫っている。
視界の端で、夢理の腕が動くのが見えたけど、期待しない方がいいよね。大丈夫、そうなる事まで予想してきっと夢理は私にこれを持たせたんだ。文学少年は、本当に未来まで読めちゃうのかもね。
ポケットにしまっていた夢理の手帳を取り出す。その、最後のページ。
雑にテープで張り付けられていたそれを無理やり引きはがす。本当に、ずっと持ってたとは思ってなかったんだけど。
現実は今ここにある。小さなただの布袋。
そして夢理の理想を私は知っている。
それなら、答えを出すのは簡単なこと。その二つにある差を、計算で求めて埋めてしまえばいい。
役割の違う左右の手に別々のものをインプットし、相互の干渉によって思考では追いつけなかった計算をこなしていく。
だめだ、それでも指が足りない。
目を閉じる。思考を研ぎ澄ませる。
ヒントはあった。文月さんの細い指先。
既存のモノを排除して、システムをもう一度再構成する。
指が十本で足りないのなら、そこに何かを絡めればいい。
二つの掌に収まる小さな空間に複雑な糸と意図とを補完する。
あやとり式の高度手算は私が想像していた以上の処理を見事にこなした。
解はもうここにある。
「やっと会えたね」
巾着になっていたお守りの口からオレンジ色の光が飛び出して、私の挨拶には見向きもせずに歪な波の中心に飛び込んだ。とめどなく膨張していた波が動きを止める。止まって、また動きだした。フィルムを巻き戻すみたいに収縮していく。
後で夢理に教えてやろう。妖精の羽は蝶々みたいだったよって。
「今のは、一度きりなんだろう?」私の後ろで、今在さんが憤っているのがわかった。「次はどうする?」
妖精は、私を一度守ったら逃げて行ってしまう。それはわかっていたことだった。でも、もう必要ない。
「わかったんです。あなたがどうして戦うのか。今こうして夢理を否定しようとしているのか。あなたは何もかもを信じられなくて、ずっと怯えていたんですね。存在が希薄なまま長い時間を過ごして、その上無価値に消されてしまうことをずっと恐れてた。誰にも気づかれないまま終わっていくことを怖がっていたんですね」
現実でありながら現実ではない存在。
真実を消滅させるという目的のためだけにいる存在。
その目的がなくなれば在ることを許されない存在。
その全てを知ったうえで、生かされ続ける苦悩。
「知ったような口をきくな!」突き飛ばされて、私と今在さんが向き合う形になる。
「知ってるんです」だから強く言った。「今在さんの求めているもの、全部見えたから。でも違う。あなたが欲しいものはどんなに外側を探したって見つかりません。あなたの存在する理由は、あなたの中にしかない。雪ちゃんは、それを認めてくれたんじゃないんですか」
「そんなことは関係ない!」今在さんの握る刀が頭上高くで月光を反射させる。「僕は全ての人間を守るために戦っているんだ」
刀が振り下ろされる。
「本当は、納得しているんでしょ?」
だから、私を斬れない。
刀は、もう今在さんの手の中にはなかった。だってあれはただの鉄パイプだから。人が落ちたりしないように、屋上の端で手すりとしての仕事を全うしている。
床のアスファルトは平らにならされ、貯水タンクは円柱を取り戻し、役割として、景観として、屋上を形成する一部になっている。
元の姿。多くの人間が求める姿。現実の姿。
「私たちが戦っていたのは、現実ではなかったんですね。ましてや魔女狩りでもなくて、今在さんだった。そして今在さんが本当に戦っていたのは自分の運命だったんです」
夢理の提示した『第三の道』は今在さんにとって目的を奪われ、その存在意義を失うことと同義だった。少なくとも今在さんは、そう認識することしかできなかったんだ。
「僕は、負けたのか?」呆然と辺りを眺めながら、今在さんが呟く。
「勝ちとか負けとか、最初からそんな話じゃないだろ?」ようやく動き出した夢理が、球体の戻ったタマとこちらに歩いてくる。かっこよく言ってるけど「あんた今の今まで寝てたじゃない」
くしゃっと髪を撫でられる。「ありがとな」
今おもえば、と今度は今在さんに、「現実は初めから、新しい世界を受け入れられる準備があったんだな。それをまぎれもなくあんたの意思が捻じ曲げ、愛の力で強行的に終わらせようとした。『真実』と『新実』を。それはつまり、あんたが思うよりあんたは人間だったってことだ」
現実を歪める今在さんの力がなくなったのは、きっとそのことに今在さん自身が気付いたからなんだ。
「なにもかも、僕のエゴだったのか……」
「そんなはずない、あなたは生きたいと願っただけなのに」存在を認められたいと、そう願っただけなのに。
「それが僕の守るべき世界の願いとは、『現実』の望みとは異なっていたんだ。哀れな話さ」
今在さんが雪ちゃんに近づく。
「春風夢理! 僕はこれから消える。存在を失う。世界を攻撃する理由を亡くした今、そのためだけに生きていた僕の当然の帰結だ。僕は君の世界を信じよう。それはきっと素晴らしい世界だ。僕がそれを視ることは、叶わないがね」
雪ちゃんに触れる指先が光の粒子になってサラサラと砕けていく。真実がわたしたちにくれたあの祝福の花々のように、それは美しくて、儚い景色だった。
「これが哀れな僕の最後の望みだ。君の愛に応えたい。これこそ僕のエゴそのものだけれど、僕がこれまで否定してきたそれを、否定しなければならなかったそれを、眠る君に与えさせてほしい」
そう言って、今在さんは雪ちゃんにキスをした。
今在さんかっこいいし、雪ちゃんほんとにかわいいからすごく絵になる。光そのものになりつつある今在さんに包まれて、雪ちゃんお姫様みたいだよ。ものすごく場違いにそんなことを思った。ずっと見ていたい。これで最後だなんて、そんなの誰も望んでいないのに……。
「ばーか」
そんな幻想的な景色をブチ壊すように夢理が光に触れた。
不意に夢理の意志が頭に流れ込んで、心臓が高鳴る。私の心とは関係なく体が動く。
「お前が消えたら、泣く奴いるんだぜ」
「夢理、やめて!」叫んでも、手はとまらない。思考の外側で計算式は構築され、想いとは別に解が導き出される。答えはとてもシンプルで、だけどものすごく残酷だった。
「今在光の存在を、現実に繋ぎとめる。ちょっと試してみたけど、俺にはやっぱり無から有は創れないみたいだ。昔の神様ってやつは、ほんとにすごいやつだったんだな」
夢理が笑う。本当に楽しそうに、新しいおもちゃをもらった子供みたいに、笑う。
「仕方ないから、俺の存在を変換することにした」
今在さんの光が小さくなって、もう一度人の形をなしていく。それは嬉しかった。だけどその横で、今度は夢理が――
「そんなことしたら、夢理が消えちゃう!」私は叫んだ。
「消えない。現実に存在しなくなるだけだよ。どうせ俺は新しい世界で神様にならなくちゃいけないからな。現実か、真実か、もしくは他の何かが、きっとどうにでもしてくれるさ」
なんでもないことのように夢理は言うけれど、それってなにも変わらない。これまで今在さんがずっと苦しんできたのと同じように、役割だけの存在になるってことだ。
もう誰にも、会えなくなるってことだ。
「そもそも。俺がいなくたってそんなに変わらないだろ。誰とも関わらずに、ここまでやってきたんだからな」
そんなこと、ない。
「宇佐木先生はずっと夢理のこと心配してたし」違う。
「雪ちゃんだってもっと関わりたいって」違う。
「クラスにもファンクラブなんてできちゃったりして」違う違うちがうちがう。
ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、そんなことが言いたいんじゃない!
こんな時まで、あまのじゃくでいたくなんかない。
そう思ったとたん、涙があふれた。
「やだよ! そんなのやだ! 自分一人で生きてきたみたいなこと言って、自分が消えても誰も傷つかないみたいなこと言って、それでかっこつけてるつもりかばか!」
ぬぐってもぬぐってもちっとも止まらない。
「それこそエゴだよ! 誰も一人でなんて生きてない。自分勝手に生きたっていいけど、そんなの夢理の自由だけど、人の気持ちまで勝手に決めないで! 私は……」
崩れ落ちそうになる膝を必死に支えた。伝えたいことがまだまだいっぱいあったから。
「私は、夢理がいなくなったら寂しいよ。ちょっと考えただけでも胸が張り裂けそうになる。神と魔女だとか、幼馴染だとか、あんたの唯一の接点だとか、そんなのちっとも関係なくて、だから迷うことも隠すことも疑うことも自分をごまかすことだって本当はちっとも必要なかった。今まで言わなかったこと、ものすごく後悔してるよ」
私の手が、夢理の腕を掴もうとして空を切る。だからもう一つも逃したくなくて光の全てを抱きしめた。
「私、夢理が好き。大好きだった。今までずっとずっとばかばっかりやってきたけど、これからもずっと、ずっと一緒にいたい」
涙と光で何も見えなかったけれど、くしゃっと髪を撫でる感触があった。
――ちゃちゃっと神様になってさ。
それはもう音ですらない。けれど意味を成して伝わってくる何か。
――ちゃんと戻ってくるから。
ほんの少しのぬくもりを残して、
――守っててくれよ、俺の居場所。
それは光の粒と一緒に、消えてなくなった。
「そんなのってないよぅ」
全てが終わって、
私は結局ただの女子高生でしかないことを思い知る。
大きな世界を変える力なんてなくて、
ましてや自分の望む世界を守ることすらできなかった。
ちゃんとわかってるつもりだ。
夢理が決めたことだから、
いつか受け止めてやろうと思う。
それでも今の私には、
泣きじゃくることしかできなかった。
「わ、こうくんおはよ。今ねー怖い夢を見てたの。こうくんともう会えなくなっちゃう夢。でも泣かなかったよ。また会えるって、信じてたから。だから、今なら少しだけ泣いてもいいかな? おかしいよね、信じてたのに……あれ、こうくん泣いてるの?」
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