第七章 あまいきせらそ

 午後八時四五分。

 人の流れに逆行するように、僕はいつもと違う時間、いつもと同じ道の上を、自転車を押して歩いていた。陽はもう完全に落ちている。一面の星空が街を包み込んでいるけれど、辺りはそれなりに明るかった。今日は満月だ。

 あれから――王心理学研究所で起こった連続殺人事件から、数日が経っていた。

 数日。というのも、僕はあの日から時間の経過を見失うほどに無意味で無為な時間を何日も過ごした。呆然と、茫然と。だから二日たったのか、三日たったのか、或いはもう一週間たっているかもしれないし、本当は昨日のことなのかもしれない。

 どうでもいいのだけど。本当に、どうでも。

 多くの時間をあっという間に使い果たして、本すらも一冊として読むことなく今に至っている。銀色なんかは「無理もない」とか、まぁそんなことを言うのだろうか。僕が本を読まないということが、どれだけ奇妙なことなのかを理解もせずに。

 気が付いたら今だった、と言ってもいいのかもしれない。とにかくあの事件の終わりから、ようやく僕の意識は回復したのだった。

 きっかけもなく、理由もなく、時間が解決してくれたわけでもないけれど。

 そうして、初めに向かうのが大学というあたり、『学生の本分』などという戯言に僕は致命的に毒されているのかも知れないな。これはまぁ、ジョークだけれど。

 駐輪場に自転車を止めて、けもの道に入る。

 大学に来るのはどれほどぶりだろうか。その間、もちろん日数の分だけ授業は進んでいて、相対的に僕は取り残されている。だけど大学というところは現金なもので、出席日数さえ足りていればこれくらいの空白などいくらでも取り戻すことができるのだ。逆に足りなければ、僕の知性がその授業の内容をいくら網羅していようと単位を取ることはできない。

 頭がいいというのは、つまり要領がいいということ。義務教育と何が違うというのだろう。

 結局現代の大学とは、学歴社会における通過儀礼なのだ。

 誰もが通る道。

 誰もが通るには、努力を採点するしかない。才能だとか、個性だとかは関係なくて、やれといわれたことがやれたかどうか、来いと言ったときに来たかどうかでその人間の価値が決まっていく。

『自由』という言葉が独り歩きして、人間を縛る『学問』が形骸化していく一方だった。

 僕一人、悪態をついたところで何にもならないけれど。今のところは。

 呼吸を乱しながら上りきった階段の上に、桜の花はもうない。

 台風が、全てをさらっていってしまったのだろう。時期的には今が一番の見頃のはずなのに、閑散とした並木道は揺れることもなく僕を見下ろしている。

 夜桜のためにこの季節だけ用意されるライトアップも、遮られることなく夜闇に吸い込まれていくだけだった。

 そんな寂しい学内の敷地を、進む。

 文学部棟の裏手に回ると、古びた大きな二階建ての建物が見えてくる。第二クラブハウス。その最奥に、僕の天国だった場所は存在していた。

 これから先、立ち寄ることはないのだろうけれど。

 もう少しだけ、歩く、

 クラブハウスの更に裏手、裸のグラウンドとの間には、そうと知らなければ気づかないような小さな広場がひっそりとあって、中央には青いベンチが置かれていた。きっと体育会系のクラブが、ちょっとした休憩に利用する空間なのだろう。人がいた気配が微かに残っているような気がした。

 その外縁で一本の木を見つける。いや、木は他にもたくさんあるのだけどそうじゃなくて、

 

 満開の、桜。

 

「稲田歩波」僕はその木にかかったプレートを読み上げる。耳にも口にも馴染んでいるはずのその名前が何か別のモノのように僕の胸を圧迫した。

 この学校では、在学中に亡くなった学生の数だけ桜が増える。学内でまことしやかに、或いは都市伝説のように語られるそれを、事実と知る人間は果たしてどれだけいるのだろうか。多くの人は、名前のぶら下がる桜に目を留めながらも気にすることなく立ち去って、やがてその木は忘れ去られていく。誰にも気づかれずに、けれど桜は確実に増えているのだった。

 そうして歩波のために植えられたこの木だけが、台風を免れたどこからか連れてこられ、静かに花弁を散らしている。ライトアップのための照明も、見物用の並木道を大きく外れたここまでは届かない。だけど月明かりに照らされた桜の木は白く映え、また地面にくっきりと影を作っていた。周囲と馴染むことなく、圧倒的な存在感で堂々と立っている。なにより美しい。

 背の低さも相まって、何となく歩波に似ているような気がした。

 僕が面影を、自分勝手に重ねているだけなのだろうか。

 あれだけの間一緒にいながら僕はちっとも彼女のことを知らなかったのに。

 知らないということすらも知らずに、理解できないということだけ理解して。

 唐突に、

 きまぐれに、

 春風がふく。

 それは大量の花弁を巻き上げて、僕の視界を刹那に覆った。

「夜の一本桜というのもなかなか風情があるじゃないか」

 野暮で無粋な声がした。

 僕は振り返らずに、ただ言葉を返す。「何しに来たんだよ、銀色」

「冷たいな。俺は五日も授業を欠席している不良が泣き止んで学校に来るのを、こうしてずっと待ってたのにね。無理もないけど」想像していた通りのことを言う。歩波ちゃんは二度死んだんだから、と。

「それだけじゃないんだろ?」

「あぁ、それだけじゃない」

 ぴん、と銀色の親指が何かを弾いて透き通った空気に弧を描く。それは、僕の右手に吸い込まれるように収まった。

 シルバーリングだ、歩波の。月光に照らすと、強く光を返す。内側の文字は掠れて読めなくなっていた。もう思い出すこともできなくて、いずれ歩波も、時間にさらわれてしまうのだろうか。

 そうならないようにもう一度、指輪を強く握る。

「研究所は昨日、正式に解体されたよ。当然だけどな、教授がいなくなればもうなんの建物なのかわからない。孤児院も、近隣の施設に子供たちを振り分ける形で解散になったらしい。もっとも、普通の子供たちと共生していけるのかが、今後の課題になりそうではあるけどな。その辺は、佳乃さんと龍磨さんが施設を回って、うまく対応していくそうだ」

「そんなに、難しいことなのか? 見えないものが見える子供たちが、普通に暮らしていくってことは」

 ははっと、銀色はニヒルに笑う。

「問題の本質を取り違えているんだよ。それを難しくするのは、いつも自分のことを普通だと思っている人間の方さ。普通という概念に取りつかれたこの世界の方が異常なんだよ。教授に言わせれば、全ての人間が、本当は全く違うものを見ているのかもしれないのにね」

 歩波の赤が、僕には緑かもしれないように。

「本当は、それでいいはずなんだ。人によって見えるものが違ってそれでいい。実際、俺に見えるモノは真緑には見えないし、それは逆も同じことだ。だから、お前には歩波ちゃんの起こした一連の事件を解決することができたし、」全く淀みなく銀色は言い切った。「その間に、俺は別のものを見ることができた」

 銀色は胸元から、茶封筒を取り出す。見覚えのあるあの封筒だ。

「俺は、所謂普通の人間というのとは情報量の違う世界を生きている。だからふと、きっと他の誰にとっても無意味なモノの中に意味を見いだせることがあるんだ。それが正しいものかどうかは俺にしかわからないし、他の誰かに分かってもらおうという気はさらさらないけどね。ただ、こうして人にそれを伝えようというときには何かしらの根拠が必要になるだろ? 例えそれが後付けでもね。少しだけ、それに時間がかかったんだ」

 何を、言っているのだろう。

「あの研究所で事件が起きた時、俺は最初にお前を疑った。お前が歩波ちゃんを殺したんだとそう思ったんだよ。玉緒ちゃんの時も、そうかもしれないと思っていた」

「僕を? そんなはずないだろ」

「結果的にはね、違った。初めに死んでいたのは薫子さんだったし、殺したのは歩波ちゃんだった。玉緒ちゃんを殺したのも歩波ちゃんで、美角を使って教授を殺したのも歩波ちゃんだった。だけど、本当は全部……お前が始めたことだったんだろ?」

「なぁ、銀色。さっきからなにを言っているんだ?」

「とぼける理由なんかないはずだぜ? お前がやったことは大した罪にならないし、俺はもう答えを知っている。だって」

 銀色は封筒から中身を取り出して、あの気持ち悪い脅迫状を広げた。

「これを俺のところに送ってきたのは真緑、お前なんだろ?」

「…………」

「そうとあたりをつけて調べれば、特定するのはそんなに難しくなかったよ。筆跡を悟られないように雑誌を切り抜いたんだろうけど、それは失敗だったな。笑えるぜ、こいつの切り口は全て『左利き用のハサミ』で切られたものだったんだ」

 チッチッチッチ、と秒針の立てる音が耳について、僕は右腕をおさえた。

「気付いた理由は、二つある。一つは、あのクラブハウスの一室で俺が君たちにこの脅迫状を開いて見せた時のことだ。お前は目じりを軽く上げ、そして持っていた名刺を置いた。ちょっとした心理学の応用だけどね。それは隠し事をしている相手に対して慎重になるときの反応だ。この時は、そこまで気に留めなかったんだけど、大失敗だったよ。だけど、この程度のことで相手を疑いきってしまうには、俺の人を信じる心が強すぎたんだな。正直なところ、俺はあの瞬間からお前を気に入ってたんだよ。面白い奴だと思ったし、その印象は今でも変わらない」

 お前は本当に面白い、と銀色の言葉は夜風に吹かれる。

「二つ目で、俺は確信をもった。それはあの研究所で、そうだな龍磨さんに会ったくらいだったかもしれない。他の人に話せばそれこそ笑われてしまいそうな、陳腐な言葉遊びさ。でも、これが決定的だった。名前だよ」

 名前。あの研究所にいた人間の名前。

 稲田 歩波。

 東雲 銀色。

 宮野 玉緒。

 王 五飛。

 香成 薫子。

 桂井 佳乃。

 笹倉 龍磨。

 篠原 美角。

「お前だけなんだ、葉桜真緑。お前だけが異質だった。たった一人だけ蚊帳の外で、つまりは全員、お前の盤上で転がされていただけなんだろ。お前がどこまで想像できていたのかは知らない。もしかしたら何も知らずにきっかけを生み出しただけなのかもしれない。この脅迫状に書かれた当たり障りのない文面を見れば、そうと考える方がいいんだろうな。何かが起こるということだけを見越して、お前はこれを送ったんだ。先の見えないドミノ倒しの初めの牌をつつくように。ここでは将棋倒しと言った方が、洒落てるのかもしれないけどね」

 桜が、僕と銀色の間を横切った。

「運命の尻尾が見えているんだろうな。そいつを踏んだんだ。故意にできるのならそれは才能だよ。障害だ。お前こそが普通じゃない。お前に比べればどんな人間も普通で、平凡で、面白みがなくなるだろうさ」

 やめてくれよ。

 僕には運命なんて、見えたりしない。

 未来が視えないのと同じように。

 歩波が死ぬことを予想できなかったし、死んでほしいとも思わなかった。

 誰が死ぬことも想像できなかったし、死んでほしいとも願わなかった。

 転がされているのは、本当はきっと僕の方だ。

 それは確かに普通じゃないけれど、ただそれだけ。

「俺は、お前を殺すよ。必ず殺す。それは、玉緒ちゃんが殺された恨みだとか、復讐だとかそんな陳腐なものじゃない。危険なんだ。何もしなければお前はまた、自分以外の手で誰かを殺す。お前が望もうが望むまいが絶対にそうなってしまう。だから、俺はお前を殺すしかない。それがどんなに頭の悪いやり方だとしてもね。俺はやる。お前を殺す」

 ま、今じゃないけど、と銀色は僕に向けていた視線をそらせて歩波の名前がかけられた桜をゆっくりと眺めた。

「綺麗だよな……、綺麗すぎるくらいに」玉緒ちゃんにもあればよかったんだけど、と続ける。

「なぁ、銀色。これ、お前には読めるか? 僕にはわからなかった。謎かけなのかとも思ったし、暗号なのかとも思って少しは調べてみたけど、そういう類のものじゃないみたいなんだ。お前なら読めるんじゃないか?」

 僕じゃない、お前なら。

 葉桜真緑じゃない、東雲銀色なら。

 僕はその紙を手渡した。

 『 あ ま い き せ ら そ 』

「あぁ、」と一見だけして、銀色はすぐにそれを僕のもとへ返した。「虹だよ」

「虹? ってあの赤から始まる七色の?」

「赤から始まる七色の虹だよ。あ、て、り、か、と、の、全て赤色系の文字群だ。その下は橙で、一番下のそ、わ、へ、れ、る、お、は青紫に近い色をもっている。厳密にはそれぞれ少しずつ違うけど、傍観するように見れば大した差はないさ。これは?」

「歩波のお姉さんが残したものだよ」

「へぇ、美南さんは俺と大分感覚の近い書記素色覚だったみたいだな」

 奇跡みたいな偶然だ、と銀色は続ける。

 金田一美南。

 歩波の姉は、なぜこれを残したのだろうか。虹が意味する、妹だけに伝わるメッセージがあったのか。或いは教授に監禁されて、窓のない部屋で描いた唯一の希望だったのか。

 もう誰も、その本当の意味を知る人間はいなくなってしまった。

 受け取った妹も、この世にはいないのだから。

 結局何もわからなかった。わかったふりをして、人は生きていくだけ。

 銀色には虹でも、或いは美南さんにとって、そうではなかった可能性だってあるのだから。

「なぁ、真緑。お前何でこんなことをしたんだ?」

 掌を上に向けると、重さのない白い花弁がそっとのった。

 ふっと吹くと、少しだけ乱れた動きを見せて、また他の花びらと同じように流れていく。

 きっとそれは僕らの辿る道筋と、同じように。





「僕はただ、面白い物語が読みたかっただけだよ」

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黒鉛筆で描いた虹 碇屋ペンネ @penne_arrabbiata

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