先生のお弁当

尾八原ジュージ

先生のお弁当

 こんな日でも、中央線は私を黙って高尾方面に運んでいく。シート越しに振動がガタンゴトン、ガタンゴトンとリズミカルに響く。

 私はもう行くあてのなくなったお弁当を、大事に飼っていた小動物の亡骸みたいに膝に乗せている。黒い保冷バッグに入った、二段重ねの、いかにも男物っぽい紺色のお弁当箱。中には鶏の照り焼きと、ブロッコリーの和え物と、卵焼きと、プチトマトと、焼き海苔とおかかを載せたご飯が入っている。シンプルで凝ってなくて、でも味は我ながら結構美味しいと思う。

 もうランチタイムなんかとっくに過ぎて、電車の窓からは夕焼けが見えるっていうのに、お弁当は手つかずのままだ。


・ ・ ・ ・


 初めて出会ったとき、遠山先生は理学棟の自動販売機でパンを買っていた。お金を入れてボタンを押すと、金属の丸い輪っかみたいなストッパーがすーっと動いて、パンが一個落ちてくる、「身投げパン」なんて物騒なあだ名がついている自販機。パンの品揃えは六種類だけで、あとはカップ麺とスナック菓子。そこであんパンとクリームパンとジャムパンを流れ作業みたいに買う白衣の男性に、思わず私の目は釘付けになった。

 その人の白衣は皺だらけで、暗い灰色のスラックスにサンダルを履いていた。髪はゆるくウェーブしていて、こめかみのところに白髪が生えている。顎と頬に無精ひげが生えているけど嫌な感じでは全然なく、飾り気のない銀縁眼鏡がびっくりするほどよく似合っていた。猫背で長身で、はっとするほど手が大きい。

 時間が止まったような気がした。それは私の、生まれて初めての一目惚れだった。

 こんな風に人は恋に落ちることがあるんだ、と私は知った。

 これまで人を好きになったことがなかったわけじゃなかった。高校の時に同じ委員会の同級生に告白されて付き合ったことがある。楽しかったし彼のことはそれなりに好きだったと思うけれど、彼が遠方の大学に進学したために、私たちはあっさり別れてしまった。その彼と会っていても、こんな心の何もかもを持っていかれるような気持ちになったことはなかった。こんな風に無防備に、バカみたいな顔で何もない理学棟の廊下にボケッと立ち尽くすようなことは、一度もなかった。

「きみ、どうかしましたか」

 聞き覚えのない声がしたと思ったら、パンを持った白衣に銀縁眼鏡の男性が私の目の前にいた。まだ三十代だろうか、首から名札を下げており、「理学部准教授 遠山恭平」という文字が読み取れた。

「あっ、だっ、大丈夫。です」

「そうですか。なんだか具合悪そうな顔してたから」

 遠山先生は私がいつの間にか落としていたバッグを拾って、手渡してくれた。私はドキドキバクバクしながらそれを受け取った。

「すみませんホント、ちょっと疲れてるのかな」

 正面から見ると、遠山先生はヨレた格好をしているのがもったいないくらい整った顔立ちをしていることがわかった。必死で言い訳する私に、彼はクリームパンの袋を渡して、

「あげます。学生さんも大変だね」

 と言うと、踵を返してさっさと歩き去ってしまい、私はお礼を言いそびれた。

 私はバッグにクリームパンを隠すようにこっそり入れて、潰さないように大事に大事に家に持ち帰った。家族がみんな出かけているのを確認するとダイニングチェアに腰かけ、暮れていく空を眺めながらゆっくり、ゆっくりそれを食べた。

 幸せだった。窓から見える景色のすべてが美しく見えた。


 何かお礼をしなきゃ、と思った。もう一度遠山先生に会う口実になる。

 重たくない、迷惑にならないものは何だろうと考えて、結局おにぎりを作ることにした。手作りって引かれるかなと思いつつ、でも「おにぎり」が頭に浮かんだ途端、他に何も思いつかなくなってしまったのだ。

 翌朝、私はご飯を炊いてしっかり手を洗い、おにぎりを三つ作った。ごく普通の梅干しとおかかとこんぶをそれぞれ入れて、アルミホイルに包んで大学に向かった。

 お昼どき、愛の告白でもするみたいにドキドキしながら理学棟のエントランスに入って初めて、ようやく遠山先生が普段どこにいるのか知らない、ということに思い当たった。迷子みたいにしょんぼりながら適当に歩いていた私の目に、例の自販機と先生が飛び込んできた。先生は今日もパンを買おうとしていた。

「ちょっ、ちょっと待って! 待ってください!」

 私がバカみたいな声をあげたので、遠山先生はビクッとしてパンを買うのをやめ、珍しい動物でも見るような目でこちらを見た。おにぎりがあるんで、と真っ赤になって慌てる私を、先生は(何の話?)という顔で眺めていたが、案外すぐに事情を察してくれた。

「自販機のクリームパン一個にそんな、いいですよ」

 と静かな声で言われながら、私は給湯室に案内された。

 初めて入った理学棟の給湯室は、簡素なキッチンとテーブルにパイプ椅子だけの殺風景な明るい部屋で、壁に「使ったら片付ける!」という手書きの貼り紙が貼られていた。

「お茶でもいれます。これではもらい過ぎなので」

 まさか大好きな人に手ずからお茶をいれてもらえるなんて、そんなこと思ってもみなかった私はもう混乱の極みで、だから給湯室に女性が入ってきたときは逆にほっとしてしまった。このままふたりきりでいたら、頭がどうにかなってしまいそうだった。

「あっ、遠山先生おつでーす」

 彼女は私の片思いの人に、信じられないほどフランクに話しかけた。髪をアップにまとめ、バレリーナみたいに顔が小さくて、見るからに溌剌としていた。

「ん? この子授業とってるひと?」

「いや、僕におにぎりくれたひと」

「んん? 何ですかそれ」

 事情を聞いた彼女は、「真面目〜! えらいねぇ!」と言って私の隣に腰かけた。

「私、沢渡です!」

「沢渡さんは院生で、僕の助手をしてくれてるひと」

 遠山先生が補足をしてくれた。

「学部一年の水野です」

「なに専攻?」

「あっ、語学部なんですけど、専攻はまだ決めてなくて」

「ほほー。文系の子かぁ」

「理学棟の中通ると、教務課に近いって聞いて」

「なるほどなるほど」

 沢渡さんが話している間に、遠山先生はティーバッグで三人分のお茶をいれ、黙々と私の作ったおにぎりを食べた。気がついたらもう食べられていたので、緊張する暇もなかった。

「私もご飯食べちゃお。水野さんはこれから?」

 と、沢渡さんが持っていたトートバッグからタッパーを取り出した。少しでもこの部屋に長くいたかったので、私も「あっ、これからです」と言いながらお弁当を出した。

 母が珍しいくらい料理が苦手な人だったので、私の自炊歴はそこそこ長い。沢渡さんは私が昨日の残り物を詰めて作ったお弁当を見て、すごいすごいと連呼した。

「おいしそう~。ちゃんとタンパク質と野菜が入ってて栄養満点ですよ。先生も見習いましょうよ」

「そうだねぇ」

 遠山先生は平坦な声で返しながら、おにぎりを食べ終わってお茶を飲んでいた。座っていても猫背で、そしてやっぱり手が大きい。顔の輪郭がきれいで、そこにぴたっとはまって見えるほど、銀縁眼鏡がよく似合う。

「とか何とか言って、明日もどうせ身投げパン買っちゃうんですよね。先生、生協行くのも面倒がるんだから」

 沢渡さんはそう言いながら、タッパーにぎゅうぎゅう詰めたご飯にレトルトカレーをかけて電子レンジに入れた。遠山先生、そんなにご飯に無頓着なんだと思った私はつい、まるで崖から落ちそうになった人が投げられたロープを掴むような必死さと脊髄反射で、

「私、お弁当作ってきましょうか」

 と言ってしまった。

 給湯室が一瞬しん、と静まり返り、私は真っ赤になった。これぞ千載一遇のチャンス、なんて思った自分が恥ずかしかった。

「さすがにそんなことまでしてもらえないよ」

 遠山先生が変わらず静かに言った。そうだよなぁ、死ぬほど差し出がましかったなと俯いた私の後頭部に、

「えっ、別によくないですか? そういうバイト」

 という沢渡さんの声が降ってきた。

「バイト?」

「そうそう。先生が材料費プラス手間賃払って昼ご飯作ってもらうの、アリだと思うけどなぁ」

「あっ、いいですねそれ。すごい。いいです」

 私は慌てて乗っかった。「あの、その、楽そうだし、いいアルバイトだなって」

「いいのかなぁ」

「水野さんがいいならいいと思うんだけどなぁ」

 そんなわけで、私は週に三回、遠山先生のお弁当を作ることに決まった。本当は毎日でもよかったけれど、先生が「さすがに毎日は辛いでしょ」と言ったのだ。

「お金足りなかったら、ちゃんと言ってね」

「は、はい」

 その日の午後の授業はまるで手につかなかった。ずっと次に作るお弁当のことを考えて過ごした。

 帰り際に雑貨屋に立ち寄った私は、散々迷った挙げ句、紺色のいかにも男物っぽいお弁当箱を買った。先生のお弁当をただのタッパーに詰めて持っていくのが嫌だったので、(父のお古で全然使ってないやつです)と言い訳することに決めた。新品のお弁当箱を持って、飛び上がりそうなくらい軽い足取りで、私は帰路についた。


 遠山先生は生物が専門で、特に花の色に関する研究をしているという。来期は「遺伝学概論」という授業をするそうで、

「入門編みたいな内容だから、文系の子も受けに来るよ」

 という言葉を信じて、絶対に履修しようと決めた。授業の間、遠山先生の声を聞いていられるなんてすごい、なんて贅沢なんだろうと思った。

 遠山先生はいつも給湯室で昼食をとっていた。別の教授や学生がいることもあれば、沢渡さんが入ってくることもあった。たまに誰も来ない日があって、私はお弁当を食べる遠山先生を盗み見ながら、同じおかずを詰めた自分のお弁当を黙々と食べる。そんなときは、いっそ今死んでしまってもいいと思うくらい幸せだった。このまま世界にふたりきりの人類になってしまいたかった。

 バイトの一環だからと言って、私は遠慮する先生から空の弁当箱を回収し、家に持ち帰ってきれいに洗った。先生の使ったお弁当箱、口に入った箸。絶対に汚れなんか残らないように丁寧にスポンジで擦った。ピカピカになったお弁当箱にまた新たなおかずとご飯を詰めるのは、神聖な儀式のようだった。

 さすがに母は先生専用のお弁当箱に気づいて、「彼氏でもできたの?」と何だか嬉しそうに尋ねてきた。

「ちがう。頼まれて作ってるの」

 そう答えた私の顔を、「へぇー」と言いながら眺めた母は、「道理で最近、一段と腕を上げたわけだ」と私の肩を叩いた。


 だから遠山先生に奥さんと子供がいると知ったときは、私は給湯室で動揺を隠すのに精一杯努力しなければならなかった。

「先生、今度の連休に行くんですよね? 奥さんの実家。またずんだ買ってきてくださいよ、ずんだ餅ぃ」

「はいはい。沢渡さん、本当にずんだ好きだね」

「そういえば藍ちゃんと茜ちゃん、ずんだ食べます?」

「食う食う。大人より食べるよ。茜は小さくしてやらなきゃ駄目だけど」

 そんな話をする沢渡さんと先生の声が、やけに遠くに聞こえた。奥さん、宮城県出身なんだ。娘さんが二人いるんだ。二人とも保育園に通ってるんだ。情報量が多すぎて頭がパンクしそうだった。思えば私は愚かだった。遠山先生の格好がわりとだらしない上に、口数が少なくてとっつきにくく見えるから、(たぶん彼女とか奥さんとかいないだろうな)と勝手に期待して、そう思い込んでいたのだ。

「先生のお子さんかわいいんだよ〜。あれ、どうした? 水野さん」

 いつの間にか沢渡さんが私の顔を覗き込んでいた。私は食べかけの自分のお弁当を閉じ、すでに空っぽだった先生のお弁当箱をパッと手に取ると、「用事があったの忘れてました!」と大声で言い訳しながら給湯室を足早に出た。つかつかと歩きながら理学棟を後にして、バス停に向かった。

 顔が熱い。涙が出そう。

 バスの一番後ろの座席で揺られながら、私は先生のお弁当箱を膝の上に抱いていた。心の中で、自分にむかって唱えた。大丈夫。大丈夫。明後日もまたお弁当を作って持ってくる。今までみたいに、何もなかったような顔をして。先生が私の彼氏にならなくたって、私のことなんか何とも思ってくれなくたって、私は先生が、私の作ったお弁当を食べてくれるだけで。

 ただ、それだけでいい。


 金曜日の朝、私は鶏肉の照り焼きと、卵焼きと、ブロッコリーの和え物とプチトマトをお弁当箱に隙間なく詰めた。ご飯の上におかかと焼き海苔を置いて、冷めてからしっかり蓋をした。これでいい。これくらいのシンプルさ。気合なんか入ってない、ただのバイトが予算内で作るお弁当。これくらいがちょうどいい。

 ランチタイムになると、私は足早に理学棟に向かった。胸の中がひどくモヤモヤして、早く先生に会いたかった。会えば一昨日あんなに悲しかったことも、何もかも忘れてしまえると思った。なのに、

「水野さん、悪いけど、もう弁当はいいから」

 給湯室で先生にそう言われたとき、耳鳴りがした。

「なんでですか?」

 私が尋ねると、

「いや、やっぱり自分でどうにかしなきゃいけないと思って。いくらお金払ってても、学生さんに頼りきりなのはね」

「週にたった三回じゃないですか。全然大丈夫ですよ」

 保冷バッグを取り出す私を、先生は銀縁眼鏡の奥からじっと見つめていた。すべてを見通すような目だった。

「水野さん、僕の奥さんね、偉い人なんですよ」

 急に奥さんの話をされて、私はぎょっとした。保冷バッグを開けようとした手が止まった。

「僕には好きなことをやらせておいてくれて、すごく頑張ってるんです。朝から子供にご飯食べさせて保育園連れてって、仕事して終わったらお迎えにいって、ご飯作ってまた食べさせて風呂に入れて寝かしつけて。言葉にすると簡単かもしれないけど、毎日滅茶苦茶忙しいんです。自分の愛する人がそうやって頑張ってくれてるのに、僕だけ女の子に甘えてるのはなんていうか、よくないなと思って」

 遠山先生がどうして奥さんの話を始めたのか、私にはよくわかった。きっと先生は気づいてしまったのだ。

 私が先生のことを好きだということに。

「私、ただ先生にお弁当作れたら、それでいいんです」

 ようやく絞り出した声は、まるで死にかけの虫の羽音みたいだった。

「僕はよくないんです。それでは不誠実だと思うからです。僕の奥さんにも、水野さんにも」

 先生の言葉は、分厚いコンクリートの壁のように取り付く島がない。眼鏡のレンズを通して私を見る目はどこまでも真っ直ぐだ。引導を渡すっていうのはこのことだな、と思いながら、私の口から「はい」という言葉がこぼれ落ちた。

「すみませんでした。僕も沢渡さんも、そういう機微に疎いものだから。バイト代、ちょっと余分に払ったことになるけど、退職金だと思ってください」

「……はい」

「今までどうもありがとう」

「……はい」

 私は給湯室を逃げ出した。

 キャンパスの中をぐるぐる歩き回って、お弁当を食べる場所を探した。どこにも私の落ち着くところなんかない気がした。午後のキリスト教史と近代英文学の授業に出席だけはしながら、私の頭の中ではただ先生の言葉がぐるぐる回っていた。

 それでは不誠実だと思うからです。僕の奥さんにも、水野さんにも。

 そういうところも含めて、先生のことが全部大好きだったのに。


・ ・ ・ ・


 そして今、私は電車に揺られている。膝の上には食べられなかったお弁当を乗せている。

 今日の分くらい最後だからと言って食べてもらえばよかったのかもしれないけれど、とてもそんな辛い場面を見ている勇気は、私にはなかった。

 きっと先生は昨日、奥さんの話に私が明らかに動揺したことに気づいたのだろう。私が給湯室に行かなくなったら、沢渡さんは何て思うだろうか。いや、もしかしたら先に私の気持ちに気づいたのは彼女かもしれない。もうそんなこと、どうでもいいけれど。

 遠山先生、と呟くと、膝に乗せたお弁当の中に、私の粉々になった心が吸い込まれていくような気がした。家に帰ったらこれ食べちゃおう、と思った。多いかもしれないけど食べちゃおう。それでお弁当箱はもったいないけど捨ててしまって、先生に出会う前の私に戻る。もう完全には戻れないってわかっているけど、それでも戻ったみたいに振る舞おう。心は言うまでもなくボロボロで、涙も出ないほどしんどいけれど、それでも。

 先生が私に「水野さん、僕のこと好きでしょ」なんて言わなかったのは、きっと何もなかったように日常に戻ってほしいからだ。

 きっともう私は教務課に行くとき理学棟の中を通らないし、遺伝学概論の授業も絶対にとらないけれど。銀縁眼鏡のひとを見たら、しばらく胸の奥が痛むだろうけど。


 私の気持ちなんかお構いなしに、電車はいつもと同じ速さで私を家に運んでいく。

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